27話:単独行動
白昼の空が、戦慄に凍りついていた。
上空三〇〇メートルを旋回するワイバーン。それは地上に生きる者にとって、手の届かぬ神罰のような存在だった。村人たちが放つ矢は、風に流されるだけの無力な枯れ枝と化し、アンジェリカのような知略の徒でさえ、「対空兵器の不在」という論理的な壁の前に、撤退という名の敗北を脳裏に描いていた。
だが、アルト・フェルディスにとって、空は断絶された領域ではなかった。
ただの、三次元的な座標に過ぎない。
「足場がないなら、その都度構築すればいい。……水魔法、流体硬化。圧力、最大」
アルトの周囲の空気が、キィィィィィィィンと高周波の音を立てて鳴動した。
彼の手の中で、そして足元で、空気中の水分が強引に収束し、目に見えぬ「透明な足場」を形作る。
「――加速」
ドォォォォォォォンッ!
爆発的な音と共に、アルトの身体が重力を無視して垂直に跳ね上がった。
村人たちの、そしてアンジェリカの瞳が、その軌跡を追って天を仰ぐ。
「……空を、駆けているの?」
アンジェリカは絶句した。
一度の跳躍ではない。アルトは空中で「何もない空間」を蹴り、さらに二段、三段と加速していく。
水魔法による瞬間的な足場の生成。それは一分子の誤差も許されない、極限の魔力精密制御だ。一歩踏み外せばそのまま墜落死する。だが、アルトの瞳に迷いは微塵もなかった。
(高度、一五〇。……目標との相対速度、秒速二二。……旋回角を修正)
アルトの脳内では、空中の全座標が格子状のグリッドとして把握されていた。
ワイバーンが異変に気づき、咆哮と共に急降下してくる。巨大な質量が、風を裂いて迫る。
「排除対象、接近。……迎撃シーケンスに移行」
アルトは空中で、水の弾丸を生成した。
癒やしの雨でも、渇きを潤す雫でもない。
超高圧に圧縮され、音速を越える速度で射出される「穿孔」の理。
「――穿」
放たれた水の針が、ワイバーンの翼の膜を貫通する。
ワイバーンが空中で体勢を崩した。翼に空いた穴から気流が漏れ、その優雅な旋律が乱れる。
だが、アルトは止まらない。
彼はさらに上空へ、水の足場を繋いで駆け上がる。
ワイバーンの「上」を取る。
捕食者と被食者の関係が、完全に逆転した。
「……信じられない男だ。地上戦の理屈を、そのまま空へ持ち込みおった」
地上で見守るエルディアが、興奮に瞳を赤く染めて呟いた。
彼女は知っている。あそこまでの空中制御を行うことが、どれほどの精神力と演算能力を消耗するかを。
だが、アルトの背中には、一切の余裕のなさも、焦りも感じられない。
ただ、流れていく雲のように、淡々と「やるべきこと」をこなしているだけ。
空中で、アルトとワイバーンが交差する。
アルトの右手に、魔力による「刃」が形成された。
(接触まで、〇・八秒。……対象の喉元、頸椎三番目を切断箇所に設定)
アルトの身体が、一瞬だけ青白い閃光に包まれた。
「筋肉強化・出力一六〇パーセント」
閃光。
そして、一閃。
空に、鮮血の雨が降った。
ワイバーンの巨大な首が、物理法則を裏切るような滑らかな軌道で、胴体から離脱する。
咆哮は血飛沫にかき消され、空の王者はただの肉の塊へと成り果てた。
「――目標、消去」
アルトは空中で自らの魔力を反動に使い、ゆっくりと、しかし正確に地上へと降り立った。
膝をわずかに曲げ、衝撃を最小限に流す。
その所作は、まるで近所に散歩にでも行っていたかのような平穏さに満ちていた。
ドォォォォォォォォンッ!!
遅れて、ワイバーンの巨体が村の外縁に墜落した。
土埃が舞い、大地が激しく揺れる。
村人たちは、その圧倒的な「結果」を前に、歓声を上げることも忘れ、ただ立ち尽くしていた。
アルトは剣の血を無機質に払い、アンジェリカの方を向いた。
「……言ったはずだ。空なら、落とせばいい。……アンジェリカ、落下の衝撃波による木柵の倒壊個所を確認しろ。……それと、解体だ。ワイバーンの魔石は貴重なリソースになる」
「……」
アンジェリカは、言葉を失った。
彼女が「高潔な軍略」と呼んでいたものは、アルトがたった一人で見せた「圧倒的な合理」の前に、あまりに脆く、無力だった。
彼女の中で、アルト・フェルディスという男の定義が、また一段、いや十段も跳ね上がる。
(この男……私が見ていたのは、本当にただの氷山の一角ですらなかった……)
恐怖。
そして、抗いがたい羨望。
アンジェリカは、自分の価値観がアルトという男に根底から「解体」されていることに気づき、初めて唇を震わせた。
「……わかり、ましたわ。アルト。……今すぐ、人員の配置を……やり直します」
公爵令嬢のプライドが、初めて「現場の理屈」の前に、跪いた瞬間だった。
アルトはすでに、解体用のナイフを手に取り、死んだワイバーンへと向き直っている。
空を支配したという自覚すらない。
ただ、次の作業が待っている。
第27話、単独行動。
空を墜としたその背中に、村の全住民が、そして王国の麒麟児までもが、逆らえぬ「真実」を見ていた。




