24話:違和感
薄暮の帳が下りるにつれ、世界の色は失われ、濃淡の影だけが支配する時間となる。
辺境の村の外縁、第二ライン。そこにはアルト・フェルディスが構築した、感情を排した「防衛機構」が稼働していた。アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアは、漆黒のドレスの裾を汚れぬよう慎重に選びながら、その「機構」の背後に立っていた。
彼女の瞳は、軍略家としての冷徹な分析を止めていない。
(配置、前回と同一。基本陣形の再現性は担保されているけれど……)
アンジェリカの脳内では、ヴァルクレイア公爵家に伝わる高度な戦術理論が火花を散らしている。彼女の基準に照らせば、アルトの配置はあまりにシンプルで、遊びがない。個々の村人の能力のバラつきという「不確定要素」に対するバッファが不足しているように見えた。
「来るわよ」
アンジェリカが予見した通り、森の闇から数体の魔獣が弾け出した。速度と凶暴性を備えた残党。
「配置固定。触るな」
アルトの声は、風に流されることのない絶対的な質量を持って響く。
(また、同じ指示……。改善する気がないのかしら?)
アンジェリカは失望に近い溜息を吐きかけた。しかし、その瞬間、彼女の視界に映る「現実」が、予測を裏切り始めた。
「……撃て」
アルトの合図で矢が放たれる。だが、それは全火力を叩き込む「集中」ではない。一射、また一射。まるでメトロノームが時を刻むように、正確な間隔を持って射出される。
(火力の分散……? いえ、違う。火力の『平準化』だわ。常に一定の圧力を敵にかけ続けている)
魔物の群れは、その絶え間ない「小突かれ」に、突進のテンポを狂わされている。一度大きく踏み込もうとすれば、必ずその足を止める場所に矢が落ちる。
「右、半歩下げろ。……そこ」
アルトの指示は、もはや配置の変更ではない。個々の筋肉の緊張を緩和し、最も視界が開ける位置への「微調整」だ。
村人の一人が半歩下がった。その瞬間、本来なら「死角」になるはずだった空間に光が差し込み、滑り込もうとした魔物の頭部を槍が正確に貫いた。
(……!?)
アンジェリカは、自身の網膜が捉えた現象を信じられなかった。
先ほど指摘したはずの「穴」。アルトが自ら身体強化を使って埋めたはずの「脆弱性」が、今回は村人たちの極小の動きだけで、完全に無効化されている。
「引くな。位置維持」
魔物の二段構えの強襲。物理的な質量が防壁にぶつかる。普通なら、衝撃を逃がすために陣形を後退させるのが「兵法の定石」だ。後退路も、アルトはあらかじめ確保していた。
だが、アルトは下げなかった。
(なぜ!? 下がらなければ押し潰される……はずなのに)
アンジェリカの予測を嘲笑うように、村人たちの槍が三連射の弓に呼応して突き出される。
魔物が怯む。その「怯み」の0.5秒という隙間に、次の近接兵が滑り込む。
崩れない。
まるで、全知の神が糸を引いているかのように、すべての事象がアルトの言葉通りに収束していく。
一体、また一体と魔物が「処理」されていく。
そこに悲壮な戦いはない。あるのは、巨大なベルトコンベアの上で不合格品が撥ねられていくような、淡々とした作業工程だった。
最後の一体が、虚空を掴むようにして倒れた。
村人たちの生存率、100パーセント。負傷者、なし。
アンジェリカは、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
彼女が学んできた戦術理論は、「戦場はカオスである」という前提に立っている。だからこそ、指揮官は臨機応変に、そして時には「犠牲」を前提とした賭けに出る必要がある。
だが、アルトの戦場にはカオスがない。
不確定要素であるはずの村人たちが、まるで最初から一つの意志で繋がった「細胞」であるかのように、完璧なタイミングで連動している。
「……おかしいわ」
アンジェリカの声が、無意識に漏れた。
彼女のプライドが、この現象を「格下の思いつき」として片付けることを拒絶している。
「なぜ、崩れないの? あなたの配置は理論上、イレギュラーな突進に弱いはず。それなのに、さっきの連動は……」
アンジェリカはアルトに詰め寄った。
彼の表情を、その瞳の奥にあるものを暴こうとする。
アルトは、使い古された目録に何かを書き込みながら、一度も顔を上げなかった。
「崩れる要因を潰してるだけだ」
「……要因を潰す? そんな魔法のような話があるわけないわ。人間は、恐怖を感じれば足を止める。疲労すれば精度が落ちる。それをどうやって……!」
「計算に入れている」
アルトは、ようやくアンジェリカに視線を向けた。
その瞳は、彼女の美貌も地位も映していない。ただの「観測対象」として彼女を見ている。
「恐怖による反応の遅延時間、平均0.4秒。疲労による腕のぶれ、最大3センチ。それらすべてを定数として式に組み込めば、誤差は消える。……崩れる要素をあらかじめ組み込んで配置を組めば、それはもう『崩壊』ではない。ただの『挙動』だ」
アンジェリカは絶句した。
彼女が「見下して」いた、アルトの粗い配置。
それは粗いのではなく、村人の「弱さ」や「不完全さ」をあらかじめ「バッファ」として内包した、極限の適応設計だった。
(……私が見ていたのは、氷山の一角ですらなかったというの?)
彼女の中で、一つの前提が音を立てて崩れ去った。
「現場止まり」だと思っていた男。
だが、その男が扱っているのは、王国の天才軍師たちですら到達していない「極限の制御理論」だった。
「……次は、北側の柵の強度が落ちている。補修の指示を出せ」
アルトは、呆然とするアンジェリカの横を通り過ぎていった。
彼にとって、公爵令嬢の驚愕など、演算に寄与しない余剰なノイズに過ぎない。
違和感。
それは、アンジェリカという「完成された理性」の中に、初めて生じたヒビだった。
彼女の知る世界が、アルトという異質な理性に侵食され始めている。
第24話、違和感。
夕闇の深淵に、王国の至宝が初めて「敗北感」という名の底知れぬ恐怖を味わっていた。




