悪くない感覚
控え場所に戻ると、部長とあかねさんが、先ほどよりもさらに興奮した様子で私を迎えた。
特にあかねさんは、ノートを握りしめ、目をキラキラさせている。
「しおりさんっ!おめでとう!すごかった、本当に!あの、カーブドライブ!相手選手、全く反応できていなかったよ!あれ、どうやって打ったの!?回転の軸が、もう、わけがわからなくて!」
彼女の言葉は、純粋な称賛と、私の技術への尽きない好奇心で先程よりも溢れていた。
その熱量は、普段の私なら「過度な感情表現」としてデータ処理するだけだったかもしれない。
しかし、今の私には、そのストレートな賞賛が、ほんの少しだけ、くすぐったいような、新しい感覚を伴って届いていた。
「…ありがとうございます、あかねさん」
いつも通りの短い返事。だが、私の視線は、彼女の熱心な瞳を、いつもより少しだけ長く捉えていたかもしれない。
「あのドライブは…手首の角度とインパクトのタイミング、そしてラバーの特性を複合的に利用した結果です。まだ、成功率は安定していませんが」
分析的な説明は変わらない。
けれど、その声のトーンに、ほんの僅か、「どうだ」と言わんばかりの、微かな響きが混じったのを、彼女は気づいただろうか。
いや、気づかないだろう。私自身も、ほとんど無意識の内に生じた変化なのだから。
「はっはっは!静寂、さっきも言ったがお前、あの横に曲がるドライブ、なんだありゃ。練習でも見たことねえぞ。相手もポカーンとしてたじゃねえか!その調子じゃあと何個隠し球があるのかわかりゃしねーな!」
部長が、いつものように豪快に笑いながら、私の背中をバンバンと叩く。その衝撃で、僅かに体がよろめく。
普段なら、この物理的接触も、ただの「ノイズの強い外部刺激」として処理するだけだ。
「…隠し球があと何個あるかは秘密です。もし余ったら実験台として受けてもらいますから、楽しみにしていてください」
私は、表情を変えずに答える。しかし、彼の評価に対して、心の奥底でほんの僅かにくすぐったい感覚と、どこか冷静に、しかし面白がるような思考がよぎった。
それは、以前の私にはなかった種類の「遊び」に近い思考だった。
「…末恐ろしいな、お前は。だが、おかげでこっちも見てて飽きねえぜ!余らせるようなら全て跳ね返してやるから、楽しみにしとけよ!」
部長は、楽しそうに続ける。
「次もお前のその『異端』で、相手を困惑させてやれ。俺も、お前の試合見てると、なんかこう、燃えてくんだよな!」
彼のストレートな言葉と、仲間としての期待感。
それは、私の「静寂な世界」に、じわりと、しかし確実に、温かい「熱」を伝播させている。
その「熱」は、私の計算を狂わせるノイズではなく、むしろ、私の内に秘められた何かを、ほんの少しだけ、前向きに刺激するような…。
「…部長の期待には、可能な限り合理的な手段で応える所存です」
私はそう言って、ほんの少しだけ、口角が緩んだ…かもしれない。
少なくとも、私の分析モデルにおいて「不快ではない」と分類される種類の感情の揺らぎが、そこには確かに存在していた。
あかねさんが、そんな私と部長のやり取りを、何か新しい発見でもしたかのように、熱心にノートに書き留めている。
彼女の纏う靄は、私への興味とほんの少しの戸惑い、そして温かい応援の色で、複雑に、しかし明るく揺らめいていた。
私の内面で何かが変わり始めている。
それはまだ、ほんの小さな、名前もつけられないような変化。
しかし、この「異端の白球使い」の物語は、卓球台の上だけでなく、私の心の中においても、静かに、しかし確実に、次の章へと進み始めているのかもしれない。
「さて、と!」
部長が私の肩をもう一度、今度は激励するように力強く叩いた。
「しおりも勝ったことだし、俺も次の試合に向けて気合入れねえとな!あかね、トーナメント表、もう一回確認しに行くぞ!俺の次の相手、どこのどいつか見てやろうじゃねえか!」
彼の声は、先ほどの試合の疲労など微塵も感じさせない、いつもの熱量に満ち溢れている。
「はい、部長先輩!しおりさんも、一緒に行こう!」
あかねさんも、私の腕を軽く引きながら、嬉しそうに促す。
彼女の行動には、以前よりも私に対する親愛の情が明確に表れているように感じられた。
それは、私の「静寂な世界」にとっては、やや過剰なインプットではあるが、拒絶すべきものではない、と私の分析は結論付けていた。
「…ええ。」
私は短く応じ、二人と共に再び掲示板の方へと歩き出した。体育館の中は、依然として多くの選手や応援の声で満ちている。
様々な感情の靄が渦巻く中、私たちは男子シングルスのトーナメント表が張り出された一角へと向かう。




