第53話 『ノイズ』
静寂 9 - 8 高橋
「し、しおりさん…! 今の、一体…!?」
ベンチで見ていたあかねさんの、上ずった声が、かろうじて私の耳に届く。
……外野の声がまだ私に届いている、もっと集中しなければ。今の私の世界には、私と白球と卓球台、そして敵しか必要ない。
大きく深呼吸をして集中を高める、敵の状態を観察する。
その敵である高橋選手は、まだ動けないでいた。
その表情からは、この不可解な失点に対する怒りや悔しさよりも、むしろ「何が起こったのか理解できない」という純粋な困惑の方が強く感じられる。
……彼女の思考は、今迷子になっている。この状況を利用しない手はない。
私のサーブ。
私は先ほどと同じ、裏ソフトの面を見せる構えを取る。
彼女の視線が、私のラケットに、そして私の無表情な顔に、突き刺さるように注がれる。
彼女は、次に私が何を仕掛けてくるのか、必死に読み解こうとしている。
その時だった。
ふと、私の思考に、全く関係のない情報が紛れ込んできた。
…■■■さんの卓球ってす■い、■麗だなってそう思■■……
……ノイズだ。思考の、ノイズ。
試合中にこのような無関係な情報を想起するのは、非効率的であり、集中力を散漫にさせる要因となる。排除しなければ。
研ぎ澄ますように呼吸をする、息がいつもより浅い。集中しなければ。
……ちッ……。
どれだけ集中を高めるように意識しても「ノイズ」は、まるで私の思考回路にこびりついたガムのように、簡単には消えてくれない。
あかねさんの、私に対する純粋な好奇心と気遣い。それが、私の「静寂な世界」の壁に、小さな、しかし無視できない波紋を広げ続けている。
……人間関係という変数は、やはり複雑で、私の分析モデルでは完全には予測できない。
そして、その予測不能性が、私の集中を……一瞬、私の意識が、目の前の試合から、ほんのわずかに逸れた。
上質な下回転のサーブ、しかしコントロールが甘くなった。
――そしてその隙を、敵が見逃すはずがなかった。
私が、ほんのわずかに思考を別の場所へ飛ばし、サーブが甘くなった瞬間。
彼女は、まるで獣のような鋭い踏み込みで前に出て、私のサーブに対し、バックハンドで強烈なフリックを、私のフォアサイド深くに叩き込んできた。
しまった……。
反応が遅れた。私の体が硬直する。ボールは、私のラケットに触れることなく、コートの端を高速で駆け抜けていった。
静寂 9 - 9 高橋
失点。
原因は、私の集中力の低下。
外的要因ではなく、内的要因によるもの。あの「ノイズ」が、殺してきた感情が私の判断を鈍らせた。
私は表情を変えずに、敵を見据える。
しかし内心では、この失点の原因を徹底的に分析していた。なぜ消えない……?なぜ思考が逸れられる……?
高橋選手は、ポイントを取ったことで息を吹き返し、その瞳に再び闘志の炎を宿らせている。
同点、1点でも与えれば最低デュース、2点連続で渡せばセットを渡してしまう。
9 - 9 という得点状況は、デュースとほとんど変わらない。むしろサーブ権を持つプレイヤーが圧倒的に有利になる。
そして私は、この得点で相手にサーブ権を渡した。
有利なのは相手だ。負けは許されない。
思考を強制的に卓球へと引き戻す。目の前の相手、ボール、コート。
それ以外の全てを、再び意識の外へと追いやる。
だが、一度入り込んだ「ノイズ」は、そう簡単には消えない。
私の「静寂な世界」の壁に刻まれた、小さな亀裂。そこから、これまでとは異なる種類の「何か」が、染み出してくるような感覚。
それは、恐怖か? 焦りか? それとも……。
私はもう一度、深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
大丈夫だ。私は、私の卓球をするだけだ。
私は何も変わらない。
勝利こそが、全てを証明する。
体育館の空気が、まるで圧縮されたかのように重い。
高橋選手は、先ほどの私の奇策の残像を振り払うかのように、集中力を高め、鋭い視線で私を見据えている。
彼女の瞳からは、闘志と、勝利への執念が渦巻いている。
高橋選手が放ったサーブは私のフォア側へ、低く速く、そして強烈な横下回転がかかった非常に質の高いサーブだった。
ここまで見せていないということは、安定していないであろう彼女の勝負サーブの一つか。
私はラケットを裏ソフトの面に持ち替え、体勢を低くし、そのサーブに対して、同じく強烈な下回転をかけたツッツキで、彼女のバックサイド深くに低く、そしてコースギリギリに返球した。
回転の応酬。わずかでも浮けば、即座に強打される危険な駆け引きだ。
高橋選手は、その厳しいツッツキに対して、体勢を崩さずにバックハンドドライブを仕掛けてきた。
ボールは、強烈なトップスピンを伴い、私のフォアサイドへと唸りを上げて飛んでくる。
……やはり、攻めてくるか。
私は低い姿勢になりつつも、ラケットをアンチの面に持ち替え、ボールの威力を殺すように面を合わせる。
そして一瞬、インパクトの瞬間に一瞬止まる。
――クッション効果。それは、最後の砦としての「壁」のようなもの。
ボールは、アンチラバーの特性で回転を失い、ふわりと、しかしネットぎりぎりの高さで相手コートのミドルへと返っていく。
「!?」
高橋選手はその執念の返球に対して、さらに踏み込み、フォアハンドで強打を仕掛けてきた。ボールは、私のバックサイドを鋭く襲いかかる
私は、床を蹴りボールに追いつく。
今度は裏ソフトの面、美しいフォームなど意識せず、効率の元に切り捨てる。
空中で飛びつきながらドライブの様に放つ。
ラケットの先端に辛うじて引っかかったボールは、高い山なりのループドライブとなって、ゆっくりと相手コートのバックサイド深くに、時間を稼ぐようにして向かう。
それは、彼女のミスを誘うための、計算された「粘りの一球」
高橋選手は、その山なりのボールを、頂点に達する前にライジングで捉え、強烈なスマッシュを私のフォアサイドへ打ち込んできた。
確実に、このラリーを終わらせようという意志のこもった一打だ。
……またフォアサイド。厳しい。だが、コースは読めている。
私は、最後の力を振り絞って、飛び込む込むように、再びアンチの面でそのスマッシュのコースに入った。ボールの威力がラケット越しに伝わってくる。
…ここだ……。ここしかない。
ボールは私のアンチラバーに吸い込まれるように当たり、その勢いを失い不規則なナックルとなって、返球される。
その白球はネットの白帯に触れ、……相手コートへと、力なく転がりツーバウンドした。
静寂 10 - 9 高橋
セットポイント、私だ。
「う…うそ…」
高橋選手は、信じられないという表情で、ネット際に力なく落ちたボールを見つめている。
彼女の顔には、疲労の色と、そして何よりも、私の執念に対する驚愕の色が浮かんでいた。
見ていた観客や選手たちも、息をのんだまま、声も出せないでいる。
少し冷や汗が出たが……返した。あと一点。
セットポイント。
私の目の前で、高橋選手が深く息を吸い込み、サーブの構えに入る。
体育館の喧騒が、まるで水中にいるかのように遠く、くぐもって聞こえる。
彼女の瞳には、この一点に全てを懸けるという、強い決意の色が浮かんでいた。
……この状況での彼女のサーブの選択肢は、主に三つ。
一つ、私のフォアを狙った速いロングサーブで意表を突く。
二つ、私のバックサイド深くに、回転量の多い下回転サーブを送り、私の持ち替えを誘い、甘くなった返球を狙う。
三つ、ネット際に短いショートサーブを出し、あえて台上での捌きあいに持ち込むこと。
私は、それぞれの選択肢に対する最適な対応をシミュレートする。
高橋選手が、トスを上げた。
そして、彼女が選択したのは三つ目の選択肢。
私のフォア側へ低く短く、そして強い下回転がかかった、非常に質の高いショートサーブだった。
彼女は、私がネット際の変化球を狙ってくることを警戒し、あえて同じ土俵で勝負を挑んできたのだ。
このボールを私が中途半端に返球すれば、彼女はすかさず3球目攻撃を仕掛けてくるだろう。
……私のストップを警戒しながらも、あえて同じ土俵へ。
ラリー戦の打ち合いで勝負を決めようという私の意識を外す選球。勇気のある選択だ。
だがその思考は、私の予測の範囲内。
私は、その強烈な下回転ショートサーブに対し、ラケットをアンチの面に持ち替えた。
モーションは、先ほど彼女の思考をフリーズさせたサイドスピンストップを繰り出す時と、全く同じように見えるはずだ。
彼女の体が、あの予測不能な変化を警戒し、わずかに拾える位置に飛びつけるように準備しているのが分かった。
しかし、私がラケット面でボールに触れる瞬間。
――私の指先は、あの複雑な変化を生み出すための微細な操作を、一切行わなかった。
ただごく普通に、アンチの特性を活かしてボールの回転を殺し、何の変哲もない、ただの平凡なナックル性のストップを彼女のフォア前に短く、そして静かに返球した。
それはあまりにも「普通」で「単純」で、そして「素朴」な返球だった。
先ほどまでの、私の繰り出す変幻自在で予測不能な「異端」の技の数々を警戒し、思考を最大限に巡らせていた高橋選手にとって、このあまりにも「普通すぎる」一球は、逆に、最大の意表を突く一打となった。
「…………え?」
高橋選手の動きが、完全に空回る。
彼女の脳裏にはおそらく、私が繰り出すであろうサイドへ逸れるストップの返球から続く、無数のパターンが渦巻いていたのだろう。
鋭く横に切れる変化を特に警戒し、対応しようと身構えていたはずだ。
しかし、彼女の目の前に返ってきたのは、そのどれでもない、あまりにも「普通」で、「平凡」なストップだった。
その「普通さ」が、彼女の全ての予測と準備を無に帰した。彼女の体は左へと大きく動いている。
「……ッ!」
彼女はなんとなラケットにあて返球を成功させるが……。
私は甘く返球された白い球体を、私はトドメとばかりにスマッシュした。
バチンッ!
スマッシュの打球音が消え、体育館の全ての音が、本当に消え去ったかのような、絶対的な静寂。
静寂 11 - 9 高橋
セットカウント 静寂 2 - 0 高橋
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」「この先の展開に期待したい!」と思っていただけましたら、
ページ下部にある【ブックマーク】や、【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、毎日の執筆の大きな励みになります!
これからもよろしくお願いいたします!
R・D




