第52話 クッション効果
静寂 4 - 4 高橋
高橋選手は、まだ信じられないといった表情で、ボールが落ちた場所を見つめている。
彼女にとって、これまでの卓球人生で経験したことのない種類のボールだったのだろう。
回転があるのかないのか。短いのか、横に切れるのか。その全てが、一瞬の判断を狂わせる。
私のサーブ。私は、あえて裏ソフトの面を相手に見せる構えを取る。
高橋選手の視線が、私のラケット面に釘付けになっているのが分かる。
彼女は次に何が来るのか、極度の警戒心を持って予測しようとしている。
……彼女の思考は今、私のラケットに集中している。なら。
私は、モーションの開始はショートサーブと同じように見せかけ、しかしインパクトの瞬間に、ラケットを裏ソフトのまま、手首を鋭く使い、彼女のフォアサイド深くに、強烈なトップスピンをかけたロングサーブを叩き込んだ!
それは、回転の判断に思考を割いていた高橋選手の意表を、サーブの長短で突いた攻撃的なサーブ。
「なっ!?」
高橋選手は、完全に回転の見極め勝負からの立ち上がりを予測していたのだろうか、一瞬反応が遅れた。
慌てて後ろに下がりながらラケットを出すが、ボールは彼女のラケットに弾き飛ばされ、コートの後方へと勢いよく飛んでいった。
静寂 5 - 4 高橋
相手の思考を読みその裏をかく。これもまた、私の戦術。
「し、しおりさん、今のサーブ…!」
ベンチに腰掛けているあかねさんの、小さな、しかし興奮した声が聞こえた気がした。
ここから、試合の流れは明らかに私の方へと傾き始めた。
高橋選手は、私のサーブやレシーブに対して、常に複数の可能性を警戒しなければならなくなり、思い切ったプレーができなくなっている。
彼女の持ち味である安定したフォアハンドドライブも、私のアンチでのナックルブロックや、予測不能な持ち替えからの変化球によって、その威力を半減させられていた。
私が裏ソフトで強打を仕掛ければ、彼女はブロックで対応しようとするが、そのブロックが甘くなれば、すかさずアンチでネット際に落とす。
彼女がナックルを警戒してループドライブで持ち上げようとすれば、私はそれを裏ソフトでカウンタードライブ。
……彼女の思考パターン、返球コースの確率、そして精神的な動揺の度合い。
ラリーが続けば続くほど、私に情報が落ちていく。
それは私にとっては、有利な盤面を作るピースが転がり続けることを意味していた。
時折、私は再びストップ・サイドスピンを試みる。
成功率はまだ八割は越えない、といったところか。
成功すればエース。失敗すれば、ネットにかかったり、チャンスボールになったりする。
しかし、そのムラさえもが、相手にとってはさらなる混乱の元となっているようだった。
「何なのよ、あの子…!全然、普通じゃない…!」
高橋選手のコーチらしき人物が、ベンチで悔しそうに声を上げているのが聞こえる。
……普通ではない。それが、私の卓球だ。
私は、淡々とポイントを重ねていく。感情の起伏はない。ただ、目の前の相手を分析し、最適な手段で勝利を手繰り寄せるだけ。
第一セットは、結局、11-6で私が取った。
セット間の短いインターバル。
私は、タオルで汗を拭いながら、あかねさんから差し出されたドリンクを一口飲む。
「しおりさん、すごい! あのストップ、本当に相手の人、全然読めてませんでした!」
あかねさんは、興奮を隠しきれない様子で話す。
「……まだ、課題はあります。ですが、有効な戦術であることは確認できました」
八割通せると言うことは、二割落とすということだ、もっと精度を上げないと実戦で使えるとは言えない。
第二セット。
やはり、高橋選手は戦術を変えてきた。
彼女は、私のスーパーアンチのボールに対して、無理に強打せず、より回転をかけたループドライブで繋ぎ、ラリーに持ち込もうとしてくる。
そして、私が裏ソフトに持ち替えて攻撃してきたところをカウンターで狙うという、より慎重で、かつ攻撃的な戦術だ。
一進一退の攻防が続く。
私がアンチで彼女のドライブの回転を利用しようとすれば、彼女はそれを読んでコースを変えてくる。
私がドライブで意表を突こうとすれば、彼女は驚異的な反応でそれに食らいついてくる。
……彼女の適応能力は高い。
そして、私のムラのある技は、まだ安定して彼女を崩すには至らない。
スコアは 8 - 8 最後の一線を中々割れない、ここはデュースにならないように、突き放したい。
突き放す、ここから3点取るだけだ。
高橋選手のサーブ。
私のフォア側への、速いロングサーブ。
私は、そのボールに対して、フォアハンドで強打するような大きなモーションに入った。彼女の体が、強打を警戒してわずかに下がる。
その瞬間――私は、インパクトの直前に、全ての動きをピタリと止める。その影響でアンチラバーがクッションの様な役割を持ち、球速を殺すように吸収する。
そして、彼女が完全にがら空きにしていたフォアサイドネット際へと、ボールを流し込んだ。
ボールは、ほとんど音もなく、彼女の予測とは全く逆のコースへと、吸い込まれるように飛んでいき、コートの端に静かに落ちた。
高橋選手は、その場から一歩も動けなかった。何が起こったのか理解できないという表情で、ただボールの行方を目で追っている。
静寂 9 - 8 高橋
体育館が、一瞬、完全に静まり返った。
そして、次の瞬間、今日一番の大きなどよめきと、驚嘆の声が、私たちのコートに集中した。
私の胸の奥で、あの名状しがたい「影」が、ほんの少しだけ、その存在を主張したような気がした。
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