違和感と高揚感
自宅の練習部屋の冷たい空気が、火照った私の体を包み込む。
マシン相手のストイックな反復練習は、先ほど部長と行った「マルチプル・ストップ戦略」の深化と、その精度向上のためには不可欠なものだった。
あの、同じモーションから繰り出される、予測不能なストップの連続。
成功した時の、部長の驚愕と戸惑いの表情。そして、私自身の指先に残る、ボールを精密にコントロールできた瞬間の、微かな手応え。
「マルチプル・ストップ戦略」の再現性は、確実に向上している。だが、まだ「ムラ」がある。
特に、相手のサーブの回転量やコースが予測とわずかにでも異なった場合、最適なインパクトポイントを見つけ出すための微調整が、コンマ数秒遅れる。
その遅れが、県大会のような舞台では致命傷となり得る。
私は、ラケットを置き、床に座り込んで壁に背を預けた。
全身の筋肉が、心地よい疲労感と共に、微細な痙攣を繰り返している。
目を閉じると、今日の部長とのラリー、あかねさんの真剣な眼差し、そして昼休みの、あの奇妙な「部長の名字バレ事件」の光景が、断片的に蘇っては消えていく。
彼の、あの理屈抜きの熱意。
私の「異端」を面白がり、そして本気で打ち破ろうとしてくる、あの真っ直ぐな闘争心。
それは、私がこれまで経験したことのない種類の刺激だった。
そして、その刺激が、私の奥底に眠っていた何かを、ほんの少しだけ揺り動かそうとしているのかもしれない。
ふと、あかねさんの言葉が脳裏をよぎる。
「しおりさんの卓球って、見ていてハラハラするけど…でも、すごく、綺麗だなって、私、思うんです。」
…綺麗? 私のこの、勝利のためだけに最適化され、余計なものを全て削ぎ落とした、冷徹な卓球が?
彼女の美的感覚は、私の理解の範疇を超えている。
しかし、その言葉を思い出すと、胸の奥に、これまで感じたことのない、ほんのりとした温かいものが広がるような、奇妙な感覚があった。
それは、新しい種類の感情データなのかもしれない。
…感情。それは、最も非効率的で、予測不能なノイズ。
勝利のためには、徹底的に排除すべきものだ。そう、私は、そう訓練してきたはずだ。
だが、最近、そのプログラムに、微細なエラーが生じ始めているのを感じる。
例えば、部長が私の「実験台」として、汗だくになりながらも楽しそうにボールを打ち返してくる姿を見た時。
あるいは、あかねさんが、私の言葉足らずな説明にも真剣に耳を傾け、一生懸命に理解しようとしてくれる時。
そんな時、私の「静寂な世界」の壁に、ほんの小さな亀裂が入り、そこから、これまで知らなかった光や、あるいは温かい風が吹き込んでくるような感覚。
…これは、弱さなのか? それとも…
私は、小さく首を振った。
感傷に浸っている時間はない。県大会は、もうすぐそこだ。
勝利こそが、私の存在を証明する唯一の手段。
その事実に変わりはない。
立ち上がり、再びラケットを手に取る。
壁に貼られた、県大会のトーナメント表。そこには、青木桜をはじめとする、まだ見ぬ強敵たちの名前が並んでいる。
…彼らもまた、それぞれの「正義」と「勝利への渇望」を持って、この大会に臨んでくる。私の「異端」は、彼らの「正統」や「力」に対して、どこまで通用するのか。
その時、ふと、私の口から、自分でも予期せぬ言葉が漏れた。
「…まあ、精々楽しませてもらいましょうか。私の『実験』の、新たな被験者たちには。」
それは、いつもの私の冷静で分析的なトーンとは少し異なる、どこか皮肉めいた、そしてほんのわずかに挑戦的な響きを帯びた独り言だった。
その言葉を発した瞬間、私自身の中に、ほんの小さな、しかし確かな「違和感」と、そしてそれとは裏腹な、奇妙な「高揚感」が芽生えたのを感じた。
…今の言葉は、なんだ? 私らしくない。だが…悪くない。
私は、薄暗い部屋の中で、一人、誰にも見せることのない、微かな笑みを浮かべた。
それは、これまでの「静寂しおり」とは異なる、新しい何かが、私の内側で静かに産声を上げ始めた瞬間だったのかもしれない。
そして、その変化が、私を栄光へと導くのか、それとも、避けられない「悪夢」へと引きずり込むのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。




