実験練習
夜の孤独な練習部屋での「マルチプル・ストップ戦略」の深化。
あの、ほんのわずかな「コツ」を掴んだ感覚は、確かに私の手に残っていた。
しかし、マシン相手の反復練習だけでは、どうしても限界がある。相手のサーブの微妙な癖、ラリー中の予測不能な動き、そして何よりも、人間の心理的な駆け引き。
これらは、生身の人間を相手にして初めて、真の意味で検証できるものだ。
…県大会まで、あと数日。この「マルチプル・ストップ戦略」を、実戦で使えるレベルにまで引き上げるには、より質の高い、そして多様な「データ」が必要だ。
特に、相手のサーブに対するレシーブとしてのストップの精度と、そこからの展開。
翌日の放課後。部活動の全体練習が終わり、他の部員たちが片付けを始めている中、私は静かに部長「部長 猛」先輩の元へと歩み寄った。
彼は、いつものように汗だくになりながらも、まだ息を切らして自主的に素振りを繰り返している。
その隣では、三島あかねさんが、彼の動きを見ながら何かをノートに書き留めていた。
「部長」
私が声をかけると、彼は素振りの手を止め、額の汗を拭いながらこちらを向いた。その瞳には、私の来意を測るような、鋭い光が宿っている。
「おう、静寂。どうした?まさか、また俺に『実験台』になってくれとでも言うつもりか?」
彼の言葉には、からかいと、そしてほんの少しの期待が混じっている。
先日の、私の常識外れの「実験練習」は、彼にとっても強烈な体験だったのだろう。
「…はい。その通りです」
私は、ストレートに本題を切り出した。
「先日、あなたが協力してくださった『ストップ』の練習。あれを、さらに洗練させたい。特に、あなたのサーブに対して、私がどれだけ多様な質のストップを、同じモーションから打ち分けられるか。そのデータを収集し、精度を高めたいのです」
私の言葉に、部長は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。
「はっはっは!やっぱりそう来たか!お前ってやつは、本当に卓球のことしか頭にねえんだな!だが、面白い!いいぜ、今回もとことん付き合ってやる!お前のその『見えないストップ』とやらが、俺のサーブにどこまで通用するか、試してやろうじゃねえか!」
……見えないストップは盛りすぎだと思う。
彼は、ラケットを握り直し、再び闘志を燃やし始めている。
彼のこの、挑戦を恐れない、むしろ楽しむかのような姿勢は、私にとって非常に好都合な「実験環境」を提供してくれる。
「ありがとうございます」
私が短く礼を述べると、あかねさんが心配そうに、しかしどこかワクワクした表情で割って入ってきた。
「しおりさん、またあのすごいストップの練習するの!? 私、今度こそ全部記録するから! 部長先輩、お手柔らかにお願いしますよ!」
彼女は、すっかりこの特異な練習の「記録係」としての役割を確立しているようだ。
こうして、再び、体育館の片隅で、私と部長、そしてそれを記録する三島さんという、奇妙なトライアングルによる「実験練習」が始まった。
部長は、下回転、横回転、ナックル、ロング、ショート…ありとあらゆる種類のサーブを、正確なコントロールで私に打ち込んでくる。
私は、それら一本一本に対して、モーションの共通化を意識しながら、インパクトの瞬間にラケットを持ち替え、あるいは同じラバー面でも打球点を変え、異なる質のストップを繰り出す。
裏ソフトでの、鋭い下回転ストップ。 ボールはネット際に突き刺さり、部長の強打を封じる。
スーパーアンチでの、回転のないデッドストップ。 ボールはネット白帯をかすめ、相手コートに力なく落ち、部長のタイミングを狂わせる。
裏ソフトでの、横に滑るようなサイドスピンストップ。 部長のラケットの端をかすめ、コート外へと消えていく。
スーパーアンチでの、わずかに揺れるナックルプッシュ。
部長は、その予測不能な揺れに、思わず「うおっ!?」と声を上げる。
もちろん、全てが成功するわけではない。
持ち替えのタイミングがわずかにずれれば、ボールはネットにかかる。
ラバー面の選択を誤れば、相手にとって絶好のチャンスボールとなる。
インパクトの角度が数ミリ違えば、意図しない変化が生まれ、コントロールを失う。
「静寂!今のストップ、完全に浮いてるぞ!そんなんじゃ、県大会の奴らには一発で叩かれる!」
「今の持ち替え、少しモーションが大きかったな!俺にはバレバレだぜ!」
部長は、私の失敗を的確に指摘し、時にはわざと厳しいコースに打ち込んできて、私の限界を探ろうとする。
彼のその容赦ないフィードバックが、私の技術をさらに研ぎ澄ませていく。
あかねさんは、息をのむようにして私たちのラリー(というよりは、サーブとレシーブの攻防)を見守り、私が成功するたびに小さくガッツポーズをし、失敗するたびに心配そうな表情を浮かべ、そしてその全てを詳細にノートに記録している。
…掴めてきた、モーションの共通化。
インパクト直前でのラバー選択と打球点の最適化。そして、それぞれのラバーの特性を最大限に引き出すための、ボールへの「触れ方」
この「マルチプル・ストップ戦略」は、私の異端の卓球を、さらに予測不能なものにする。
私は、失敗の度に冷静に原因を分析し、次のプレーに修正を加えていく。
そのストイックなまでの反復練習の中で、私の指先の感覚は、かつてないほど鋭敏になっていた。まるで、ラケットとボールが、私自身の神経の延長になったかのように。
西日が体育館の床に長い影を落とし、練習の終わりを告げる時間が近づいている。
私の体は疲労困憊だったが、その頭脳は、かつてないほどクリアに冴え渡っていた。
「マルチプル・ストップ戦略」
この、相手の思考を停止させる静かなる武器は、確実に私のものになりつつあった。




