マルチプル・ストップ戦術
部長のサーブは、もはや私にとって予測可能なデータの一つとなりつつあった。
下回転、横回転、ナックル。短いもの、長いもの。その全てに対して、私は同じように見えるコンパクトなモーションから、裏ソフトとスーパーアンチを使い分け、異なる質のストップを繰り出そうと試みていた。
しかし、その成功率は依然として低い。
裏ソフトでの下回転ストップは安定しているが、相手に読まれれば質の高いツッツキやフリックで反撃される。
スーパーアンチでのデッドストップは、決まれば効果絶大だが、少しでもインパクトが強すぎれば浮き、弱すぎればネットにかかる。
横回転を加えようとすれば、多くはコントロールを失い、台の外へと消えていった。
「静寂!お前、さっきからネットとアウトばっかりじゃねえか!そんなんで県大会、本当に大丈夫なのかよ!?」
部長の檄が飛ぶ。彼の声には、苛立ちよりも、むしろ純粋な心配の色が混じっているように聞こえた。
彼も、この実験的な練習の意図を理解しつつも、私のあまりの失敗の多さに、さすがに不安を感じ始めているのかもしれない。
あかねさんも、ペンを動かす回数が減り、心配そうに私と部長を交互に見ている。彼女のノートには、おそらく「失敗」の文字が延々と並んでいることだろう。
…駄目だ。
モーションの共通化に意識が向きすぎるあまり、それぞれのラバーの最適なインパクトが疎かになっている。
特に、スーパーアンチ。このラバーは、裏ソフトとは根本的にボールへの力の伝え方が異なる。それを、同じモーションで行おうとすること自体に無理があるのか…?
いや、完全に同じである必要はない。相手に「同じに見える」範囲での、最大限の差異化。それが鍵だ。
私は、一度ラケットを下ろし、目を閉じた。
脳内で、これまでの失敗パターンと、稀に成功した、あるいはするように見えたパターンを分析する。
裏ソフトでのストップは、ラケット面でボールを「捉え」、回転を「かける」意識。
スーパーアンチでのストップは、ラケット面でボールの勢いを「殺し」、回転を「無効化」あるいは「変化」させる意識。
この二つの異なる意識を、同じ外見のモーションの中に、どうやって矛盾なく共存させるか。
…モーションの開始からインパクト直前までは共通。だが、インパクトの前。
そこで、ラケットを持つ指先の、ほんのわずかな力の入れ具合、手首の角度の微細な調整、そして何よりも、ボールのどこに、どの角度で、どの深さでラケット面を「当てる」のではなく「触れさせる」か。
その最終パラメータの切り替えだ。
それは、まるで精密機械のギアを切り替えるような、あるいは、熟練の外科医がメスを操るような、極めて繊細で、かつ正確な操作を要求される。
私は、目を開け、再び構えた。
「部長。もう一度、お願いします。今度は、あなたの最も得意とする、強烈な下回転サーブを、私のフォア前に。」
「お、おう…」
部長は、私の突然の真剣な申し出に、少しだけ気圧されたように頷いた。
彼が放ったサーブは、唸りを上げて私のフォア前に突き刺さる。強烈な下回転。
私は、そのボールに対し、モーションの開始は裏ソフトで鋭いツッツキを打つ時と同じように入った。
しかし、インパクトの直前、私の指先が、グリップを握る力をほんのわずかに緩め、そしてラケットヘッドの重みを感じながら、スーパーアンチの面を、ボールの真下ではなく、ほんのわずかにボールの側面後方に、まるでシルクの布で埃を払うかのように、そっと、しかし正確な角度で触れさせた。
カッ…
先ほどまでの、コントロールを失ったような鈍い音ではない。
何か、薄いガラスを爪で弾いたような、澄んだ、しかしほとんど音のしないような、微かな音。
ボールは、強烈な下回転のエネルギーを完全に吸収され、推進力を失い、しかし、ラケット面で与えられたわずかな横方向へのベクトルによって、ネットすれすれを、まるで糸で引かれるかのように、ゆっくりと、しかし鋭く横に切れながら、相手コートのサイドラインぎりぎりに、ぽとりと落ちた。
それは、デッドストップでありながら、わずかな横への動きを持つ、まさに「イリュージョン」と呼ぶにふさわしい軌道だった。
「な……に……!?」
部長は、そのボールに対して、一歩も動けなかった。
いや、動こうとしたのかもしれないが、ボールのあまりの特異な軌道と、その「死んだ」ような球質に、彼の脳が反応を拒否したかのようだった。
成功。そして、これは、先ほどの偶然ではない。明確な「意図」と「技術」に基づいた成功だ。
「し、しおりさんっ! い、今の…!?」
あかねさんが、声を裏返らせながら叫ぶ。彼女のノートから、ペンが滑り落ちたのが見えた。
私は、確かな手応えを感じていた。
…これだ。モーションの共通化と、インパクト直前でのラバー面と打球点の最適化。
そして、スーパーアンチの特性を最大限に引き出すための、ボールへの「触れ方」。
これが、一つの「コツ」…!
「部長。もう一度、お願いします。」
私の声には、先ほどまでの焦燥感はない。静かな、しかし確信に満ちた響きがあった。
部長は、まだ信じられないといった表情で私を見ていたが、やがて、まるで何かに挑戦するかのように、再びサーブを打ち込んできた。
下回転、横回転、ナックル。短いサーブ、長いサーブ。
私は、その全てに対して、モーションの大部分を共通化させながら、インパクトの瞬間に、裏ソフトとスーパーアンチを使い分け、そして、それぞれのラバーの特性を最大限に引き出す「触れ方」で、多彩なストップを繰り出していった。
もちろん、全てが成功するわけではない。まだ「ムラ」はある。
時折、ネットを越えなかったり、甘いボールになったりする。
しかし、その成功率は、先ほどまでとは比較にならないほど上がっていた。そして何よりも、私の繰り出すストップは、同じモーションから、全く異なる球質とコースで、部長を幻惑し続けた。
部長は、時に怒声を上げ、時に天を仰ぎ、そして時には、私の打球の行方をただ呆然と見送るしかなかった。
「やるな静寂…!マルチプル・ストップ戦術と名付けよう!…お前の技術の結晶だ。」
私も部長も疲労困憊といった様子で、卓球台に手をついていた。しかし楽しそうに、嬉しそうに声をかけてくれる。
私は、静かに息を整えながら、彼に一礼した。
「…ありがとうございました、部長。非常に、有益なデータが取れました。」
私の「異端」の卓球は、また一つ、新たな進化の段階へと足を踏み入れた。
そして、その進化は、この熱血漢の「部長」という、最高の「実験台」と、それを温かく見守るマネージャーの存在なくしてはあり得なかっただろう。
県大会まで、あとわずか。私の武器は、さらに研ぎ澄まされていく。




