運ゲーの冒涜者
私は、ラケットを一旦下ろし、数秒間目を閉じた。
脳内で、先ほどの「奇跡の一打」の全データを再構築する。
部長のツッツキの回転量、スピード、ボールの高さ、私の立ち位置、ラケットの入射角、インパクトの瞬間の手首の微細な動き。
そしてその時の体育館の湿度や照明の明るさまで――あらゆる要素をパラメータとして入力し、成功パターンとの相関関係を探る。
「部長」
私は目を開け、彼に向き直った。
「お願いがあります。先ほどのような、やや浮き気味で、回転の少ないツッツキを、私のフォア側、ネットからボール一個分ほど離れた位置に、同じリズムで、数本送っていただけますか。」
「…回転の少ない、高いツッツキを、フォアに、同じリズムで、だと?」
部長は、私の具体的な要求に少し面食らったような顔をしたが、
「まあ、いいだろう。お前がそこまで言うなら、やってやる。だが、これでまた変な方向にボールが飛んで行っても知らんぞ。」
と、半ば呆れながらも協力してくれた。
彼の正確なコントロールから放たれる、ほぼ同じ質のボール。これは、マシン練習では得られない、生きたボールによる貴重なデータだ。
私は、一本一本、ラケットの角度、インパクトの強さ、そしてボールに触れるラケット面の「位置」を、僅かに調整しながら、スーパーアンチラバーでネット際への返球を試みた。
最初は、やはりうまくいかない。ネットにかかる。浮きすぎる。サイドを割る。
しかし、私は淡々とデータを蓄積し、微調整を繰り返す。
あかねさんは、息を殺したように、私のその執拗なまでの試行錯誤を見守っている。
彼女のノートには、私が要求したボールの質や、私の打球の結果が、細かく記録されていく。
…違う。
ラケットの角度だけではない。ボールの「勢い」を殺すだけでは、あの軌道は生まれない。必要なのは、ボールが持つわずかな「浮力」と、ネット白帯の「抵抗」、そして台のエッジの「角度」…それら全てを計算に入れた、極めて繊細な「誘導」…。
何十本目だっただろうか。
部長の送ってきたボールが、ほんのわずかに、いつもより回転が少なく、そして少しだけ高い軌道を描いた。
その瞬間、私の脳裏に、ある仮説が閃いた。
…これだ。
この「ほぼ無回転に近いが、わずかに浮き上がる性質を持つボール」に対して、スーパーアンチの摩擦のない面で、ボールの真下ではなく
ほんのわずかに「側面下部」を、ラケット面を立てるのではなく、むしろ少し「被せる」ように、そして「押し出す」のではなく「引き込む」ような、極めて短いタッチで触れる…!
私は、その仮説に基づき、ラケットを操作した。
インパクトの瞬間、ボールはラケット面に吸い付くように一瞬乗り、そして、まるで糸に引かれるかのように、ネットの白帯の真上を、本当にギリギリの高さで通過した。
カタン…コトコト…。
ボールは、ネットインし、相手コートのエッジに、まるで計算され尽くしたかのように柔らかく着地し、不規則なバウンドをしてコート外へと転がり落ちた。
先ほどの「奇跡の一打」と、ほぼ同じ結果。
しかし、今回は、私の中に明確な「意図」と「仮説」があった。
「「…………っ!!」」
部長と三島さんが、同時に息をのむのが分かった。
「ま、またやったのか…静寂…? 今のは…偶然じゃ、ねえのか…?」
部長の声は、もはや驚愕を通り越して、何か信じがたいものに対する畏怖すら含んでいるように聞こえた。
私は、興奮を抑え、冷静に分析を続ける。
…今の仮説は、正しかった可能性が高い。だが、再現性は? もう一度、同じ条件を。
「部長。もう一度、同じボールをお願いします。回転は極力少なく、先ほどと同じ高さ、同じコースで。」
私の声には、わずかな確信が混じっていた。
部長は、戸惑いながらも、私の要求に応じた。
そして、私は、再び、同じ仮説に基づいてラケットを操作する。
インパクト。
ボールは、再びネットの白帯をかすめ、相手コートのエッジへと吸い込まれていった。
成功。二度連続。
「…うそだろ…」
部長は、力なく呟き、その場にへたり込みそうになった。
三島さんは、ノートを持つ手が震えている。
「し、しおりさん…! 今の、今の、どうやったの!?」
と、興奮と混乱で目を白黒させている。
…再現性、確認。ただし、これは極めて限定的な条件下でのみ成功する。
相手のボールの質、私の立ち位置、そして何よりもインパクトの瞬間の、人間の知覚限界に近いレベルでのラケットコントロール。
これを実戦で、常に狙って出すのは、まだ不可能に近い。だが…。
私は、確かな手応えを感じていた。
「不可能」では、ない。
確率1%以下だった事象が、特定の条件下においては、10%、あるいは20%にまで引き上げられる可能性が見えたのだ。
それは、私の「異端」の卓球に、また一つ、恐るべき「武器」が加わることを意味していた。
「部長。ありがとうございます。今日の実験は、非常に有益でした。」
私は、初めて、彼に対して、研究者のような口調ではなく、どこか達成感を滲ませた声で言った。
部長は、しばらく呆然としていたが、やがて力なく笑う。
「…お前は、本当に…とんでもねえやつだな、静寂…」
と呟いた。
その顔には、疲労と、そして私の計り知れない才能に対する、ある種の諦観のようなものが浮かんでいた。
日は、さらにその傾きを深め、体育館の床に伸びる私たちの影は、まるでこの特異な練習の終わりを告げるかのように、静かに揺らめいていた。
私の「エッジイン・ネットイン・コントロール」は、まだ荒削りで、実戦投入には多くの課題を残している。
だが、その「再現性」の糸口を掴んだことは、県大会を目前に控えた私にとって、何よりも大きな収穫だった。
そして、この技が、私の「悪夢」へと繋がる道筋の上で、どのような役割を果たすのか。
その答えを知るのは、まだ少し先のことになる。




