第百四話 零の終点
曖昧な時空の中を彷徨っている。
――そんな感覚だった。
時間の感覚も薄れていき、変わり映えのしない景色の迷宮に閉じ込められた気分がしていた。
眼下には、空と大樹。
上に進み続けても、未だに頂上の影はない。
「こんな高いところから落ちたらひとたまりもないな……」
「ニア、試しに落ちてみたら? 案外正解に辿り着くかもしれない」
「メルト……。おまえ、なんてこと言い出すんだ。こんな魔力の安定しない空間で飛行魔法を使うなんて怖いことできるわけないだろ!」
異様な雰囲気だった。
降り積もる粒子にふれていると、見える景色、聞こえる音、肌に感じる空気の感触――五感に感じる全ての事象が世界の中に溶けてしまう。
まるで、大樹の一部に取り込まれてしまったかのように意識も薄れていく。
「ほら、人がそれをして失敗したときと、精霊や魔族が散ったときを想像してみたら?」
「まぁ、確かにな。光彩になって綺麗な最後……、って納得できるか」
中身の良し悪しはともかくとして、いつもの景色がここにあると感じられた。
正気を保っていられるのも、変わらない温かさがいつも傍にあるから。
お姉ちゃんとニアの遣り取りを見ていたソラノアが口を挟む。
「君たちは、本当に仲がいいな。ここにアルマがいるみたいだ」
「ソラノア、さすが。良くわかっている。フィリエルもそう思った」
彼も同じだ。
離れていても、大切な人と絆で結ばれている。
『無事に戻りたい』って、いつも思う理由。
それは、待っていてくれる人に、ただもう一度、笑顔を見せたいから。
だから、大切な人の名前を口にする。
「ちゃんと帰ろうね」
「ラクラス……、きっと大丈夫」
フィリエルは、とても穏やかだった。
この先で起こることを確信しているかのような姿。
彼女には、揺らぐ世界の先が見えているのかもしれない。
――大樹の頂き。
先人たちが描いた変化のない揺らいだ道。
延々と続くと思われた道の果て。
そこには、何も無かった。
「見上げても真っ青な空……。一体どうなってやがる……」
「ようやく終わりが見えたら、ただの広い枝葉の張り巡らせられた空間だったなんて……」
「フィリエルも、初めてここにきた。何もない……。でも……」
「でも?」
その場にいた全員が、フィリエルの次の言葉に注目している。
「うん……。感じる。少し前に感じた懐かしい気配――。近付いてる」
そう言ってフィリエルは、何もない空の先を指さした。
「…………」
フィリエルの違和感に誰も答えられなかった。
「ここ……」
「フィリエル……。分かった。ちょっと調べてみよう」
――遥か天空の高み。
太陽にも手が届きそうな眩しい場所。
なのに――穏やかで、風すら止まりかけている。
清らかな魔力が満ちていた。
人々の祈りが行き着いた終点。
地上に還る前の穢れのない最初の零。
「何もないな」
最初に言葉を口にしたのはソラノア。
フィリエル以外の誰もがその言葉に首を縦に振るだけ。
突如、強い風が上から吹き付けた。
降り積もる白い粒子が一瞬輝きを増した――と思ったとき。
「お、おぃ……。白い粒に、今度は……はっきりと……」
言葉に詰まったニアの声。
羽の輪郭を描く粒子。
それがはっきりと分かるように、雪のような白に混じって時折降っていた。
「フィ……リエル??」
突如清らかな魔力に包まれ、微弱な光を纏い始めるフィリエル。
「大丈夫か?」
フィリエルの安否を心配するニア。
言葉は強いのに、どこか不安そうな表情をしていた。
「さあ、始めよう――」
銀糸のような髪。
澄んだ天色の瞳。
目を見開いたフィリエルは、大書庫アーカ・ルミナで見たあの時と同じ。
背後では二体の光の妖精――。
粒子がフィリエルにふれた瞬間、輝きが増す。
“ 魂は光に還り、穢れは眠りへと帰す ”
――どこからか響く、古代ルナリアの祈りの言葉……。
「分かったよ、フィリエル。貴方は……」
「天冥の証を……、重ねて」
樹天の巫女の導き。
脳裏に流れ始める数々の記憶の欠片。
繰り返される喪失と再生。
記録の光が、泡のように浮かんでは消えていく――。
“ 再生の時空が満ちるとき―― ”
“ 天、地、冥 ”
“ 眠れる刻印が未来を描く ”
“ 還るものは光へ ”
“ 残るものは理へ ”
“ 交わらぬものが交わるとき―― ”
『空白は彩架となる』
――空白に欠けていた色。
閉ざされていた楽園の記憶。
最後に欠けていたもの。
それは空白の粒子に溶けていた先人たちの想い。
楔に閉ざされ、架け橋は失われた。
私と同じで、受け取る場所が途絶えてしまった。
だから、残らなかった。
近くて大きい。
手を伸ばせば届きそう。
なのに、届かなかった空。
天に近いこの場所で――。
重なっていた手の中心。
光が残らなかった場所。
そこに、消えそうなほどか細い光が生まれた。
光が灯った意味は分からない。
でも、確かに降り積もる粒子が形を成した。
「ララちゃん……、これって……」
「うん……」
手に刻まれた紋様。
それが、一つに重なって形を変えた。
「……閉ざされた楽園の鍵。『天冥の刻印』――」
フィリエルが言葉を零すと同時に、意識が現実へと戻った。
「おい……」
何も無かったはずの空を差したソラノアの指は震えていた。言葉も失い、ただ目を丸くして固まったままだ。
「な、なんだ! あれは……?」
天に向かって伸びる透明の螺旋が青空に架かっていた。
もし、長方形のそれが階段だったのなら、一段一段が、三人くらいの人が余裕で乗れそうな大きさ。
「進むしかなさそう……だね」
「ニア、先頭で行ってみなよ」
「メルト、あたしで試そうとすんな」
「バレた?」
こんな緊張する場面で……。
だからこそ、私たちはいつも通り。
――前を向いていられる。
「フィリエル?」
「なに? ソラノア」
「ここを進むのか?」
フィリエルは黙って小さく頷いて、そして続けた。
「触れるだけでいい。道は開かれた」
「私が先に行くね」
私の中で失われたもの。
底にある暗闇に何かが灯ったわけじゃない。
けど、それに近いものにこの地でふれることができた。
だから――私は先に進む。
足が螺旋にふれる――。
降り積もっていた粒子が、光を帯びて空に舞っていく。
光が満ちながら、空間が揺らいだ。
やがて周囲に落ち着きが戻ると、光は消えていた。
降り積もっていた粒子が失われ、視界に映ったのは色とりどりの光彩。
「……あ、れ? これって――」
いつか見た、小雪が舞うあの森の景色に似ていた。
再び現れた暗闇。
空が反転した。
月は遠くて小さい。凍えるように寒い。
手を伸ばしても、天にはもう届きそうにない。
天冥の樹の頂にいる。
それだけは確か――。
「……っ」
強い風が吹き上げた。
一面に咲いた色とりどりの小さな花々の花弁も空に舞い、やがて地上に落ちていった。
綺麗な景色。
それが、最初の印象だった。
なのに……。
温度を感じない。
ここは――。
とても静かで、冷たい空間だった。




