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僕らのこの世界~過去と未来の狭間を翔ける者~  作者: アシュ


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3/3

信仰の狭間に揺れる心

聖龍の伝承を追い、ベレヌーの里へ向かうエルナードとガシュ。


静かな森の道は、かつて人々が行き来していたはずの場所だった。

しかしそこには、本来いるはずのないモンスターの気配が潜んでいた。


聖龍の加護に守られた里。

そこに近づく異変。


その理由を知る前に、二人は森の奥で一人の少女と出会う。


彼女の名は、ソフィア。


翠焔と紅嶺。

二柱の聖龍に仕える、世界でただ一人の翠紅の巫女。


夢の中で見た面影。

差し伸べられた手。

そして、胸の奥で静かに動き始める運命。


エルナードとソフィアは、まだ互いのことをほとんど知らない。

それでも二人の出会いは、まるでずっと前から定められていたかのように、静かに重なっていく。


一方で、里に現れたモンスターの存在は、聖龍の加護に異変が起きている可能性を示していた。


祈りの場は、森の奥深くにひっそりと存在している。

翠焔と紅嶺へ祈りを捧げる、ベレヌーの里の聖域。


そこは本来、静かで神聖な場所だった。

けれど、異変はすでにその地へ忍び寄っていた。


巨大なゴモヒの襲撃。

壊される祭壇。

揺らぐ結界。


そして、ついに姿を現す双龍。


聖龍はエルナードに告げる。

魔王の封印が解け始めていること。

そして、翠紅の巫女であるソフィアの力が必要であることを。


けれどソフィアにとって、その言葉はただの使命ではなかった。


世界のために祈り続ける日々。

誰にも言えなかった苦しさ。

巫女である前に、一人の少女として抱えていた本音。


「祈りをやめたい」


その小さな願いは、やがて彼女自身の未来を選ぶ決意へと変わっていく。


里に残るのか。

巫女として生き続けるのか。

それとも、エルナードたちと共に外の世界へ踏み出すのか。


聖龍の導きと、自分自身の願い。


その二つが重なった時、

ソフィアの運命は大きく動き始める。


千年前から続く謎と、今を生きる巫女の祈り。


これは、翠紅の巫女が祈りの場を離れ、

自分の足で世界へ歩き出す物語である。

エルナードは静かに立ち上がり、

眠っているガシュの肩に手を置く。


「おはよう。もう起きな」


「……ん」


ガシュは目を擦りながら身を起こした。


ぼんやりとした顔のまま、

大きな欠伸をひとつ。


それからぐっと背伸びをする。


「交代?」


「その前に朝稽古だ」


エルナードは森の方へちらりと視線を向けた。


朝の光が木々の隙間から差し込み、

暗かった森の輪郭が少しずつ浮かび上がっている。


「街中じゃ出来なかったからな」


「そっかー……」


まだ眠気の残った声だったが、

ガシュはきちんと立ち上がり、武器を手に取った。


エルナードは頷く。


「今日は、ボウガンの命中率を上げる稽古だ」


足元に落ちていた葉を一枚拾い上げる。


まだ露を含み、冷たく湿っていた。


「僕が上から葉っぱを落とす」


指先で葉をつまみ、軽く掲げる。


「それを――射抜いてみろ」


ガシュは真剣な顔で頷いた。


「……うん。やってみる」


エルナードが指先を離す。


葉は、ひらひらと不規則に舞い落ちる。


風もないのに、

わずかな空気の流れで軌道を変えながら落ちていく。


ガシュは息を詰めた。


視線は、落ち葉の動きだけを追っている。


――カチリ。


乾いた音。


次の瞬間、矢が放たれた。


シュッ、と空気を裂く音。


矢は落ち葉を弾くように打ち抜き、

二つとも地面へ落ちた。


「……!」


ガシュの目が大きく見開かれる。


エルナードは腕を組み、小さく頷いた。


「今のは悪くない」


それから何度も繰り返した。


葉が落ち、

矢が放たれ、

地面に落ちる。


最初は外れることもあったが、

次第に命中する回数が増えていく。


いつの間にかガシュの目つきは、

すっかり真剣なものへ変わっていた。


やがて二人とも額に汗を浮かべ、

呼吸を整える。


朝の冷たい空気が、

熱くなった体をゆっくり冷やしていく。


「……よし。十分だ」


エルナードは額の汗を拭いながら言った。


「僕は朝飯を食べたら、少し休む」


「うん」


軽い朝食を済ませたあと、

エルナードは寝袋には入らず、草むらに横になった。


剣は手の届く位置に置いたまま。


目を閉じていても、

いつでも動ける姿勢だった。


森は、相変わらず静かだ。


風もなく、

鳥の声も聞こえない。


だがその沈黙は、

まるで何かを待っているようにも思えた。


ガシュは森の奥をじっと見つめていた。


薄暗い木々の間に、

何かが潜んでいるのではないかと想像してしまう。


気づけば――


無意識のうちに、

エルナードの服の裾をぎゅっと掴んでいた。


程なくして、エルナードは静かに身を起こした。


草の上に横たわっていた身体をゆっくりと起こし、

肩や背中の筋肉をほぐすように軽く首を回す。


冷たい朝の空気が肺に入り、

呼吸がゆっくり整っていく。


それに気づいたガシュが、少し不安そうに声をかけた。


「お兄ちゃん、もういいの?」


「ああ。十分だよ」


エルナードはそう答え、ゆっくりと立ち上がる。


そして空へ向かって大きく伸びをした。


腕を上げると、背骨がぱきりと小さく鳴る。


朝の光が森の縁を照らし、

木々の隙間から淡い木漏れ日が差し込んでいた。


夜露を含んだ草がきらきらと輝き、

朝の森は思ったよりも穏やかな顔を見せている。


「さてと……森へ入るか」


エルナードが言うと、

ガシュは少し緊張した顔で頷いた。


二人は並んで、森の中へと足を踏み入れる。


踏み入れた瞬間、

空気がひんやりと変わった。


だが、思っていたほど重苦しくはない。


湿った土と葉の匂い。

木々を抜ける風。

遠くで鳥が鳴く声。


森は、静かではあるが生きていた。


足元を見ると、

ところどころに古びた石畳が顔を覗かせている。


苔に覆われ、角は丸く削れていた。


だが――


確かにそれは、かつて人が歩いた道の跡だった。


「……何にもいないね」


ガシュがきょろきょろと辺りを見回しながら言う。


木の幹、

揺れる枝、

落ち葉の積もる地面。


どこを見ても、ただ静かな森だ。


「それでも油断するなよ」


エルナードは低く答えた。


その片手は、無意識のうちに剣の柄へ触れている。


森を歩く足取りはゆっくりだが、

一歩一歩に警戒が込められていた。


しばらくは何事もなく、

二人は森の山道を進んでいく。


風が枝を揺らし、

葉がかさりと落ちる。


穏やかな森の道。


――だが。


不意に、エルナードの足が止まった。


「……」


「お兄ちゃん?」


ガシュが不安そうに見上げる。


エルナードは答えない。


ゆっくりと、周囲を見回す。


だが視線は地面ではなく、

木々の上――


高い梢へ向けられていた。


葉の重なる影の奥。


何かがいる。


姿は見えない。


だが、確かに感じる。


――見られている。


空気の中に、

かすかな視線が潜んでいた。


エルナードは小さく言った。


「ガシュ」


「なに?」


「ボウガン、貸して」


「……うん」


ガシュはすぐに背中からボウガンを外し、

エルナードへ差し出す。


エルナードはそれを受け取り、

音を立てないようゆっくり構えた。


視線の先。


右上――


葉が不自然に重なった茂み。


風もないのに、

そこだけがわずかに揺れている。


躊躇はなかった。


カチリ。


乾いた音。


次の瞬間、

矢が一直線に放たれる。


シュッ、と空気を裂いた。


そして――


「ギャァッ!!」


甲高い悲鳴が森に響き渡る。


何かが枝を折りながら落下した。


バキッ。

ガサガサッ。


ドサッ、と鈍い音。


地面に落ちたのは、

藍色の毛に覆われた小柄な影だった。


さらにその直後。


少し離れた木の上から、

猿のような影が二つ飛び出した。


「キーッ!キーッ!」


枝を渡りながら、

歯をむき出して叫んでいる。


エルナードは素早く状況を確認する。


そしてボウガンをガシュへ返しながら言った。


「――ゴモヒだ!」


森の空気が、一瞬で変わった。


さっきまで穏やかだった森が、

突然牙を剥いたようだった。


枝の上。


茂みの影。


どこからか、

小さな気配が動く。


エルナードは低く呟いた。


「……囲まれてるな」


その声が、

森の静けさを鋭く裂いた。


気づけば、背後の茂みがさわりと揺れた。


振り返ると――

暗い藍色の毛に覆われたゴモヒが二体、枝の陰から顔を覗かせている。


細長い腕。

鋭く光る黄色い目。

唇の間から覗く歯が、いやらしくむき出しになっていた。


さらに前方。


木々の間から、左右に一体ずつ姿を現す。


計六体――

いや、最初に落とした一体を含めれば、まだどこかに潜んでいる気配がある。


森の空気が、ぴたりと張りつめた。


「……後ろにもいるよ!」


ガシュの声には、わずかな震えが混じっていた。


「落ち着け」


エルナードは静かに剣を抜き、低く構える。


その背中が、自然とガシュを守る位置に入った。


剣先がわずかに揺れ、

木漏れ日を受けて鋼が鈍く光る。


次の瞬間――


前後から、四匹のゴモヒが一斉に飛びかかってきた。


枝を蹴り、

地面を蹴り、


甲高い叫び声を上げながら、獲物へと迫る。


「キーッ!!」


鋭い爪が空気を裂く。


エルナードは一歩、横へ。


風を切る爪を紙一重で躱し、

その勢いのまま、狙いを定めた一体へ剣を振り上げた。


下から上へ――


鋭く。


――ザンッ。


肉を裂く鈍い感触が腕に伝わる。


ゴモヒは悲鳴を上げ、

血を撒き散らしながら地面に叩きつけられた。


その間にも、ガシュはすでに動いていた。


飛びかかってきたゴモヒの懐へ――


転がるように体を滑り込ませる。


地面を蹴って距離を取り、

振り向きざま――


カチリ。


乾いた音。


ボウガンの弦が弾かれ、矢が放たれる。


一直線に飛んだ矢が、

正確にゴモヒの喉元へ突き刺さった。


「キーッ……!」


短い悲鳴。


ゴモヒはもがく間もなく、崩れ落ちる。


その瞬間――


エルナードの剣が、淡く光を帯びた。


剣身を走る魔力が、

次第に雷のように弾けていく。


バチバチ、と空気を裂く音。


草葉が震え、

周囲の空気が一気に張り詰めた。


エルナードは低く呟く。


「――《トニトディウス》」


次の瞬間。


雷を纏った剣が閃いた。


白い稲妻が空を裂き、

鋭い軌跡を描く。


ゴモヒの身体を――一閃。


雷光が森の中で炸裂した。


貫かれたゴモヒは声を上げる間もなく、

そのまま力なく地面へ倒れた。


残ったゴモヒたちは、その光景を見て凍りつく。


次の瞬間――


「キーッ!!」


恐怖に駆られたような悲鳴を上げ、

四方へ散り散りに逃げていった。


枝を渡り、

茂みをかき分け、

瞬く間に森の奥へ消えていく。


やがて――


森は再び、静寂を取り戻した。


風がそっと枝を揺らし、

葉が一枚、ひらりと落ちる。


エルナードは剣を下ろし、

呼吸を整えた。


それからすぐにガシュへ視線を向ける。


「ガシュ、大丈夫か?」


「うん……!」


ガシュは少し興奮した様子で頷いた。


そして目を輝かせながら、

エルナードの剣を見つめる。


「兄ちゃん、今のなに?」


「剣……バチバチしてた」


エルナードは剣の雷をゆっくり消しながら答えた。


「魔法剣さ」


「まほうけん?」


「剣に魔力を乗せて、斬るんだ」


ガシュの顔がぱっと明るくなる。


「……すご〜い」


心からの感嘆が、そのまま声になって溢れた。


エルナードはほんの少しだけ笑った。


だが、その表情はすぐに引き締まる。


森の奥へ視線を向けたまま言った。


「……援軍を呼んでくるかもしれない」


剣はまだ完全には鞘に収めない。


半身のまま、周囲へ意識を巡らせる。


ゴモヒたちが逃げた方向は、

すでに木々の影に溶け込んでいた。


気配は薄れている。


だが――


完全に消えたわけではない。


「だから、用心して進もう」


低く、しかし確かな声だった。


「うん」


ガシュも小さく頷き、

周囲を警戒するように歩幅を少し狭めた。


二人は再び、森の奥へと歩き出す。


木々の間には、

まだ誰も知らない道が続いていた。


森は、先ほどまでと変わらず静かだった。


だが――その静けさが、かえって耳に障る。


枝が擦れる音も、

鳥の羽ばたきも、

どこか遠くに引っ込んでしまったように感じられた。


二人は足音を抑え、石畳の残る山道を慎重に進んでいく。


苔に覆われた古い石は滑りやすく、

踏み外せばすぐに音が立ちそうだった。


一歩。

また一歩。


落ち葉を避け、

枝を踏まないよう注意しながら進む。


やがて、しばらく歩いた頃――


ガシュが、ふと不安を含んだ声で尋ねた。


「ねえ……この道、人が通るんだよね?」


「ああ」


エルナードは短く答える。


「……ゴモヒが居たら、危ないよね?」


その言葉に、エルナードは一瞬足を止めた。


視線は、森の奥へ。


重なり合う木々の間を見据えながら、ゆっくりと口を開く。


「……僕も、同じことを思ったよ」


足元の石畳を軽く踏みしめる。


苔の間から覗く石は、

明らかに人の手で敷かれたものだ。


「本来はな、ゴモヒが出る道じゃなかった可能性が高い」


「え?」


ガシュが驚いた顔をする。


エルナードは続けた。


「居るって分かってたら、

人はもっと別の道を使う」


周囲を見回しながら言う。


「街道でも、森道でもな」


ガシュは少し考え込み、

小さく息を吸った。


「……じゃあ、この道……」


「最近になって、変わったんだろう」


エルナードの声は落ち着いていた。


だが、その目は鋭さを失っていない。


「モンスターの縄張りか、数か……」


木々の奥へ視線を走らせる。


「何かが、動いてる」


「……そっか」


ガシュはそう言って、

無意識にエルナードの隣へ一歩寄った。


森の奥から吹いてくる風が、

冷たく頬を撫でていく。



その頃――


森のさらに奥。


ソフィアは、里から少し離れた森の縁で薬草を摘んでいた。


しゃがみ込み、

柔らかな葉をそっと指先で摘み取る。


朝露を含んだ葉はひんやりとしていて、

指先に冷たい感触が残った。


籠の中には、摘み取ったばかりの薬草が重なり、

ほのかに青い香りを漂わせている。


双龍の巫女としての務めは忙しい。


だからこそ――


こうして一人で森へ入る時間は、

彼女にとって数少ない“息をつける瞬間”だった。


ふいに、風が吹いた。


木々の間をすり抜ける風が葉を揺らし、

ざわり、と森が囁く。


ソフィアは手を止め、ゆっくり振り返った。


「……?」


胸の奥が、少しざわつく。


誰かに見られたような気がした。


だが――


そこには木と影しかない。


揺れる枝。

静かな森。


「……あれ?」


ソフィアは小さく首を傾げた。


「何か……いた気がしたのに……」


もう一度周囲を見回す。


だが、何も見つからない。


少し安心して、前を向き直った――


その瞬間だった。


自分よりも、はるかに大きな影。


目の前に立っていたのは――


人の背丈を優に超える大猿のモンスターだった。


暗い藍色の体毛。


濁った黄色の眼。


そして手に握られているのは――


刃の欠けた、大きなサーベル。


「きゃっ……!」


声にならない悲鳴が喉から漏れる。


驚きのあまり、

ソフィアは抱えていた薬草の籠を落としてしまった。


籠が地面に転がり、

摘んだばかりの薬草がばらばらに散る。


足がもつれ、

そのまま尻もちをついてしまった。


立ち上がる暇もない。


大猿は躊躇なく、武器を振り上げる。


鈍く光る刃。


迫りくる巨大な影。


逃げ場は――ない。


(終わる……)


そう思った瞬間。


ソフィアはぎゅっと目を閉じた。


その、次の刹那だった。


ソフィアの身体が、ふわりと宙に浮いた。


足元から地面が消え、

視界がぐるりと回転する。


空。

木々。

光。


世界が一瞬、反転した。


次の瞬間――


強く、しかし乱暴ではない腕に引き寄せられていた。


背中をしっかり支えられ、

大地から離れたまま、滑るように横へ運ばれる。


振り下ろされたサーベルが、

ついさっきまでソフィアがいた場所の地面を叩き割った。


ドンッ、と重い衝撃音。


同時に、低く落ち着いた声が聞こえた。


「――ガシュ、頼む」


その声が響いた瞬間――


茂みが弾けるように揺れた。


「――!」


小さな影が飛び出す。


ガシュだった。


迷いは一切ない。


ボウガンを構え、

引き金へ指をかける。


カチリ。


乾いた音。


放たれた矢は一直線に飛び――


大猿の喉へ突き刺さった。


「ギャッ……!」


短い断末魔。


大猿は大きくよろめき、

後ろへ倒れ込む。


ズドン、と重い音が森に響き、

地面がわずかに震えた。


そのまま、動かなくなる。


森は一瞬で静まり返った。


葉の揺れる音だけが、

遅れて耳に戻ってくる。


ソフィアは――


誰かの腕の中にいた。


温かく、しっかりとした感触。


背中を支える腕の力が、

恐怖で固まっていた身体をゆっくりと現実へ引き戻していく。


強張っていた身体が、ようやく震え始めた。


「……大丈夫か?」


その声は、低く、穏やかだった。


腕がそっと解かれる。


ソフィアは恐る恐る顔を上げた。


目の前にいたのは――


漆黒の長い髪を風に揺らす青年。


精悍な顔立ち。


鋭いが、どこか柔らかな瞳。


その視線は、まっすぐこちらを見ていた。


「は……はい……」


声が少し震える。


胸の奥で、どくん、と大きく心臓が鳴った。


「あ……ありがとうございます……」


ソフィアはそっとエルナードの腕から離れる。


だが――


離れ際に触れていた温もりが、

なぜか名残惜しく感じられた。


思わず一歩だけ距離を取る。


頬が熱い。


自分でも分かるほど、

顔が赤くなっていた。


その様子を見て、エルナードは内心で小さく息を呑む。


(……あれ?)


一瞬、胸の奥がざわついた。


(この子……)


記憶の奥に浮かぶ、

あの夢の光景。


夜空。

翠の光。

紅の光。


そして――


二匹の龍に包まれていた、あの女性。


(夢の中で見た女性と……似ている……?)


はっきりと思い出せるわけではない。


それでも。


胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。


エルナードは、胸の奥に残るざわめきを振り払うように小さく咳払いをした。

それから、目の前の少女――ソフィアへと視線を向ける。


「えっと……この近くに、集落があるのかな?」


少し控えめにそう尋ねると、ソフィアはすぐに頷いた。


「はい」


彼女の声は澄んでいて、森の静けさの中でもよく響いた。


「ベレヌーの里があります。

私は、その里の者です」


その言葉を聞いた瞬間――


少し遅れて、ガシュがぱっと顔を上げた。


「ベレヌーの里!」


瞳を輝かせ、エルナードを見上げる。


「着いたね、お兄ちゃん!」


「……だな」


エルナードも思わず小さく笑った。


森の奥へ向かう旅の目的地。

思っていたよりも、ずっと近くまで来ていたらしい。


ソフィアは二人の様子を見て、ほっとしたように微笑んだ。


「里にご用だったんですね」


胸に手を当て、少しだけ安堵した表情を浮かべる。


「でしたら、案内します。

助けていただいたお礼も、ちゃんとしたいですし」


「いえいえ、お礼なんて……」


エルナードは慌てて両手を振った。


だが――


ソフィアは小さく、ふふっと笑う。


その微笑みはあまりにも柔らかく、

どこか温かな光のようだった。


エルナードは思わず視線を逸らしてしまう。


「ダメですよ」


ソフィアは、ほんの少し背筋を伸ばして言った。


「ちゃんと、お礼をしますから」


そして手を軽く伸ばし、森の奥を指し示す。


「さあ、こちらです」


そこには、細い小道が続いていた。


木々の間を縫うように伸びる、

里へ続く道だ。


エルナードは一瞬だけ迷うような顔をしたが、

やがて苦笑しながら軽く頭を下げた。


「……ははは」


肩をすくめる。


「そこまで言われたら、断れないですね」


そして穏やかに言った。


「ありがたく、お受けします」


こうして三人は並んで歩き出した。


森の木漏れ日が、道を柔らかく照らしている。


枝の間から差し込む光が揺れ、

地面にはまだら模様の影が踊っていた。


さっきまでの戦いの緊張が、

嘘のように溶けていく。


歩きながら、ソフィアが名乗った。


「私は……ソフィアです」


「僕はエルナード」


エルナードはそう答え、

隣にいる小さな存在を親指で示す。


「こっちの小さいのが――」


「ガシュだよ!」


ガシュは元気よく胸を張った。


その姿があまりにも堂々としていたので、

ソフィアは思わずくすっと笑ってしまう。


彼女は少し体を屈め、ガシュと目線を合わせた。


「ガシュ君も、ありがとう」


優しい声だった。


「とても……強いのね」


その言葉を聞いた瞬間。


ガシュはぴたりと動きを止めた。


そして次の瞬間――


顔を真っ赤にして、

エルナードの脚の後ろへ隠れてしまう。


「……」


エルナードは苦笑する。


「さっきあれだけ戦ってたのに、今さらか」


そう言いながら、

ガシュの頭をそっと撫でた。


森の中に、穏やかな空気が流れていた。


鳥の声。

葉の擦れる音。

足元で踏みしめる柔らかな土。


その中で――


ソフィアは歩きながら、

そっとエルナードの横顔を盗み見た。


(……もしかして、この人……)


胸の奥に浮かぶ、あの夢の記憶。


夜空の下。

差し伸べられた手。


漆黒の髪。

静かな眼差し。


(似てる……)


夢の中の男性に、

どこか面影が重なる。


胸の奥が、かすかに熱を帯びた。


けれど――


それを口に出す勇気は、まだなかった。


ソフィアは、胸の奥に浮かんだ思いをそのまま口にすることはできなかった。

代わりに、少しだけ声を弾ませて尋ねる。


「……旅の方なんですか?」


「ああ」


エルナードは歩みを止めず、森の奥を見据えたまま答えた。


「世界を巡ってるんだ」


その言葉に、ソフィアの瞳がほんの少し大きくなる。


「そうなんですか……素敵ですね」


心からの感想だった。


けれど、その言葉を口にしたあと、

彼女はすぐに視線を落とす。


足元の落ち葉を見つめながら、小さく続けた。


「私、この里から出たことがないんです」


その声音には、

淡い憧れと――ほんの少しの寂しさが混じっていた。


エルナードはそれに気づき、少しだけ歩調を緩める。


そして、穏やかに言った。


「落ち着ける場所があるのも、悪くないさ」


森を抜ける風が、三人の間をすり抜ける。


ソフィアはその言葉をゆっくり受け止め、

小さく微笑んだ。


「……そう、ですよね」


その時だった。


森がゆるやかに開けた。


密集していた木々の間から光が差し込み、

その先に石で作られた階段が現れる。


苔に覆われた古い石段は、

森の奥から続く小道の終わりを告げていた。


ソフィアが振り返る。


「この上が、ベレヌーの里ですよ」


三人はゆっくりと階段を上っていく。


一段、また一段。


やがて登りきると――


視界が一気に開けた。


そこには、小さな広場が広がっていた。


その周囲を囲むように、

白く丸い石造りの家々が並んでいる。


壁は柔らかな曲線を描き、

屋根には淡い色の瓦が整然と重なっていた。


花壇には季節の花が咲き、

細い水路が里の中を静かに流れている。


風が吹くと、水面がきらりと揺れた。


空気はどこか澄んでいて、

森とはまた違う穏やかな静けさが漂っている。


「……」


エルナードは思わず辺りを見渡した。


どこか神聖な雰囲気すら感じる場所だった。


するとソフィアが、少し申し訳なさそうに言う。


「この里、小さいから……宿はないんです」


「マジか」


思わず素の声が出た。


エルナードの表情に、

ガシュがくすっと笑う。


ソフィアもつられて笑いながら言った。


「族長に相談してみましょう」


そう言って、広場の奥へ歩き出す。


そこには、里の家々よりもひと回り大きい、

丸い石の家が建っていた。


その家の前に、一人の女性が立っている。


黒髪をきちんと結い上げ、

落ち着いた佇まいをしていた。


女性は三人に気づき、静かに声をかける。


「ソフィア。そちらの方々は?」


凛とした声だった。


エルナードは一歩前へ出て、丁寧に一礼する。


ガシュも慌ててそれを真似て、ぺこりと頭を下げた。


「母さん」


ソフィアは少し息を整えながら言った。


「里の入口で、モンスターから助けていただいたの」


「え……? モンスター?」


女性――ソフィアの母は、驚いた表情を浮かべる。


「この里の付近に、モンスターなんて居ないはずなのに……」


その言葉に、エルナードは静かに頷いた。


「やはり、そうなんですか」


視線を森の方へ向ける。


「山道でゴモヒを数体、退治しました」


「ゴモヒが……?」


女性の表情が一変した。


一瞬だけ沈黙が落ちる。


やがて彼女は、深く息を整えた。


「……失礼しました」


軽く頭を下げる。


「私はソフィアの母、ニマと申します」


「いえ、こちらこそ」


エルナードも再び一礼する。


「エルナードと申します。こっちがガシュです」


「よろしく!」


ガシュは元気よく挨拶した。


ニマはゆっくり頷き、真剣な眼差しで言った。


「モンスターの件も含めて……」


視線を二人に向ける。


「族長と会っていただけますか?」


ソフィアが静かに頷き、二人へ振り返る。


「こちらです」


こうしてエルナードとガシュは、

里の中央にある一際大きな丸い家へと通されていった。


厚みのある木の扉が、ゆっくりと押し開かれた。


きしむような音はほとんどなく、

重い木の扉は静かに内側へと開いていく。


中へ一歩足を踏み入れると、

外と同じく白を基調とした空間が広がっていた。


壁はなめらかな石で作られ、

そこには双龍を象った彫刻が幾つも刻まれている。


空へ舞い上がる翠の龍。

大地を見守る紅の龍。


二匹の姿が絡み合うように彫られ、

まるでこの里を守る象徴のようだった。


天井は高く、

中央には大きな円形の卓が置かれている。


その周囲には数人の里の者が集まり、

静かな声で何かを話し合っていた。


だが、三人が入ってきた瞬間――


その会話は止まった。


視線が、一斉にこちらへ向けられる。


そして、その卓の中心に座っていた人物が、ゆっくり顔を上げた。


白髪混じりの壮年の男。


穏やかながら威厳のある顔立ちで、

その瞳には深い思慮が宿っている。


この里を束ねる者――族長だった。


ニマが一歩進み出て、静かに告げる。


「族長。里に旅の方がいらしています」


室内の空気がわずかに動く。


「里の入口で、ソフィアをモンスターから守っていただいたのです」


「――なんと?」


族長は椅子からわずかに身を乗り出した。


その表情に、驚きが浮かぶ。


「里森に……モンスターが?」


その一言で、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


里の者たちの間にもざわめきが広がる。


エルナードは一歩前へ出る。


そして、深く頭を下げた。


「エルナードと申します」


族長はすぐに立ち上がった。


ゆっくりと歩み寄り、丁寧に礼を返す。


「失礼した」


落ち着いた声だった。


「私はこの里の族長であり――」


視線をソフィアへ向ける。


「ソフィアの父、バーナードと申します」


一度、深く頭を下げた。


「娘を助けていただき、感謝します」


「いえ……」


エルナードは少し照れたように首を振る。


「当然のことをしたまでです」


そのやり取りを横で見ていた男が、眉をひそめた。


日に焼けた顔。

鍛えられた体つき。


腕には革の防具が巻かれている。


おそらく、この里の警護役だろう。


彼は腕を組みながら、怪訝そうな視線をエルナードへ向けた。


「本当に……モンスターが出たんですか?」


疑いというより――


信じたくない、という響きだった。


里の中に、静かな緊張が広がっていた。


その問いに、横にいたガシュがぱっと身を乗り出した。


両手を大きく広げ、身振りを交えて言う。


「でっかいゴモヒだったよ!

こんな感じで、ばーんって!」


体いっぱいで大きさを表そうとするその仕草に、

思わず周囲の視線が集まる。


「ねえ、お兄ちゃん」


振り返ってエルナードを見上げる。


エルナードは苦笑しながら頷いた。


「ああ」


腕を組みながら、静かに言う。


「あんな大きなゴモヒは、僕も初めて見た」


その言葉に、部屋の中でざわめきが広がった。


里の者たちは顔を見合わせ、小さく囁き合う。


「そんなはずが……」

「この森で……?」


不安と戸惑いが混ざった声だった。


族長バーナードは腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。


しばらく考え込むように沈黙し、

やがて静かに口を開く。


「……この森にはな」


低く、落ち着いた声。


「聖龍様の加護が宿っている」


壁に刻まれた双龍の彫刻へ視線を向ける。


「本来、モンスターは寄ってこない土地なのだ」


その言葉に、エルナードの瞳がわずかに鋭くなる。


「聖龍様の……加護」


胸の奥で、記憶が重なった。


夢に見た翠と紅の龍。

図書館で読んだ絵本。

聖龍と巫女の物語。


すべてが、この場所へ繋がっている気がした。


エルナードは慎重に言葉を選ぶ。


「その加護が、弱まっていると?」


族長は静かに首を振った。


「分からぬ」


重く落ち着いた声。


「だが――」


ゆっくりと目を開く。


「ゴモヒが現れたという事実は、軽視できない」


その言葉のあと、部屋には重い沈黙が落ちた。


誰もすぐには言葉を続けられない。


里の者たちの表情には、不安が浮かんでいた。


族長バーナードはしばし思案したのち、

エルナードへ視線を向けた。


「エルナードさんは……」


静かな問い。


「何を求めてこの里に?」


その言葉には、柔らかながら確かな重みがあった。


エルナードは一歩前へ出て、軽く一礼する。


「僕らは世界を巡って、あてのない旅をしています」


落ち着いた声だった。


そのとき――


族長の隣に立っていた若い男が、眉をひそめた。


日に焼けた肌。

引き締まった体。


腕には鍛錬の痕が残り、

腰には短剣が差してある。


里の若者――警護役の一人だろう。


彼はエルナードをじっと見つめた。


「こんな小さな子を連れて、ですか?」


視線は鋭い。


「妙な旅人ですね」


その言葉には、はっきりとした警戒が含まれていた。


だが、エルナードは肩をすくめただけだった。


穏やかな笑みを浮かべて返す。


「そうですか?」


軽く首を傾げる。


「ガシュは強いんで問題ないですよ」


そして、少し冗談めかして続けた。


「まあ……旅人にも色々ありますよ」


その横で――


ガシュは胸を張ろうとして、

途中で照れてしまった。


もじもじと足を動かし、

結局エルナードの後ろへ半分隠れる。


その様子に、

場の空気がわずかに和らいだ。


室内の空気が、再びわずかに張り詰めていた。


里の者たちは互いに視線を交わし、

不安そうな表情を浮かべている。


その空気を感じ取ったエルナードは、

ゆっくりと息を整え、話題を変えるように口を開いた。


「聖龍の加護でモンスターが寄らないと仰っていましたが……」


壁に刻まれた双龍の彫刻へ、ちらりと視線を向ける。


「今回が初めてなんですか?」


族長バーナードは、その問いにゆっくりと頷いた。


「はい」


落ち着いた声で答える。


「はじめてですね」


その言葉が部屋に落ちた瞬間、

空気が重く沈んだ。


誰もすぐに言葉を続けられない。


里の者たちの表情には、

戸惑いと不安が浮かんでいる。


その沈黙の中で、ソフィアがぽつりと呟いた。


「……お祈り、どうしよう」


その声音には、

責任と不安が静かに滲んでいた。


双龍の巫女としての役目。


この里を守る祈りは、

彼女が欠かすことのできない務めなのだ。


族長は腕を組み、深く息を吐く。


「祈りを絶やす訳にはいかぬ」


ゆっくりと言葉を続ける。


「だが……」


ソフィアへ視線を向ける。


「モンスターが出るのなら……

ソフィア一人では危険だな」


その瞬間。


先ほどの若い男――チャモスが一歩前に出た。


「俺が護衛でついて行こうか?」


真っ直ぐソフィアを見つめる。


その目には、

守ろうとする強い意志と、

どこか誇らしげな色が浮かんでいた。


だが――


族長の声がぴしゃりと響く。


「チャモス」


厳しい声だった。


「お前はまだ半人前だろう」


静かながら、容赦のない言葉。


「ゴモヒが相手なら危険すぎる」


「……っ」


チャモスは唇を強く噛みしめた。


拳がぎゅっと握られる。


悔しさが、顔ににじんでいた。


だが、反論はできない。


族長はその様子を見てから、

ゆっくりとエルナードへ向き直った。


そして――


深く頭を下げる。


部屋の空気が一瞬止まる。


「エルナードさん」


静かな声。


「あなたは腕が立つとお見受けします」


双龍の彫刻の下で、その言葉は重く響いた。


「モンスター出現の原因が分かるまで……」


一拍置く。


「ソフィアの護衛を頼めませんか?」


その瞬間。


部屋にいる全員の視線が、

一斉にエルナードへ集まった。


エルナードは少し驚いたように目を瞬かせる。


そして、落ち着いた声で問い返した。


「僕で……いいのでしょうか?」


それは謙遜ではなかった。


ただの確認。


だが――


その言葉が終わる前に、

チャモスが声を荒げた。


「族長!」


一歩踏み出す。


怒りに満ちた声だった。


「よそ者にソフィアを任すなんて、ありえません!」


拳を強く握り、エルナードを睨みつける。


その怒りは、単なる不信ではない。


ソフィアを守りたいという歪んだ執着と、

里を守れない自分への苛立ち。


その両方が混ざり合っていた。


族長は、静かにチャモスを見つめた。


そして低く、しかし揺るがぬ声で言う。


「チャモスよ」


その声には怒りはなかった。

だが、反論を許さぬ重みがあった。


「この里に、ゴモヒと太刀打ちできる者はおらぬ」


一拍の沈黙。


「聞き分けなさい」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。


チャモスは何か言い返そうと口を開きかけたが、

結局そのまま唇を閉じた。


拳だけが、強く握られている。


沈黙が落ちた。


その静寂の中で――


エルナードが、静かに一歩前へ出た。


「僕は、構いませんよ」


落ち着いた声だった。


そこに迷いはなかった。


ソフィアが驚いたように顔を上げる。


胸の奥で、何かが静かに動き始めたようだった。


――運命が、ゆっくりと回り始める。


族長バーナードは、ゆっくりと長い髭を撫でながら言った。


「かたじけない」


その声は穏やかだったが、

どこか決意の響きも含んでいる。


「この里には宿が無いので、客間を使って頂こう」


室内の者たちを一度見渡し、続けた。


「祈りの時間は毎朝と決まっている」


「明日の早朝までは、ゆるりとされよ」


エルナードは静かに頷く。


「わかりました」


族長はソフィアへ視線を向けた。


「ソフィアよ、部屋へ案内してあげなさい」


「はい」


ソフィアは一歩前へ出て、軽く頭を下げる。


「エルナードさん、ガシュ君。こちらにどうぞ」


三人は族長の家を出た。


外へ出ると、空はすでに夕暮れに染まり始めていた。


西の空が橙色に輝き、

白い丸屋根の家々はその光を受けて淡く色づいている。


石畳の広場には、柔らかな影が長く伸びていた。


どこからか炊事の香りが漂ってくる。


焼いた穀物の香ばしい匂い。

煮込んだ野菜の優しい香り。


家々の窓からは温かな灯りが漏れ、

里のあちこちから穏やかな声が聞こえていた。


子どもたちの笑い声。

食事の準備をする人々の話し声。


ガシュはきょろきょろと周囲を見回しながら、小声で言った。


「きれいな里だね」


その瞳は、素直な感動で輝いている。


「うん……」


ソフィアは小さく微笑んだ。


だが、その笑顔はどこか心ここにあらずといった様子だった。


客間へ向かう途中。


彼女はふと歩みを緩め、

エルナードの隣に並んだ。


少しだけ視線を落としながら言う。


「ごめんなさいね」


その声は静かだった。


「変なことに巻き込んでしまって」


そこには、申し訳なさと責任感が滲んでいた。


エルナードは、ソフィアの言葉を聞いて軽く首を振った。


「かまわないさ」


声は穏やかだった。


「巻き込まれたなんて思っちゃいないし」


そう言ってから、少しだけ視線を空へ向ける。


夕暮れの空は、ゆっくりと色を変えていた。

橙色だった光が、次第に群青へと溶けていく。


遠くの空に――

最初の星が、小さく瞬いた。


その光を見つめながら、エルナードは続ける。


「それに僕は、聖龍に興味がある」


その言葉に、ソフィアはぱちりと目を丸くした。


「聖龍に、ですか?」


驚きと、少しの嬉しさが混じった声だった。


エルナードは視線を戻し、静かに問いかける。


「そもそも、聖龍って何なんだ?」


その問いは、単なる好奇心ではなかった。


胸の奥に、あの夢の光景が蘇る。


翠の光。

紅の光。


夜空を舞っていた二匹の龍。


その記憶が、今も静かに胸の奥で疼いている。


ソフィアは少しだけはにかみ、

口元にそっと手を添えた。


そして、柔らかく微笑む。


「でしたら……少しお話します?」


夕暮れの光を受けて、

彼女の瞳が静かに揺れていた。


エルナードも、自然と微笑み返す。


「お願いしようかな」


ソフィアに案内され、

エルナードとガシュは里の客間へ通された。


それは丸い石造りの建物の一角にあった。


厚い木の扉をくぐると、

室内は白い壁と淡い木の床で整えられている。


窓辺には薄い布のカーテンが掛けられ、

外から入る夕風にふわりと揺れていた。


部屋の中央には低い卓と椅子。

壁際には整えられた寝具。


装飾は少ないが、

掃き清められた空気にはどこか温もりがあった。


旅人を迎えるための、静かな場所。


ガシュは部屋を見回しながら、小さく感嘆する。


「きれい……」


ソフィアは優しく微笑んだ。


「少し待っていてくださいね」


そう言って、軽く一礼する。


白い衣の裾が静かに揺れ、

彼女は客間を後にした。


扉が閉まると、

部屋には静かな夕暮れの気配だけが残った。


扉が静かに閉まると、部屋の中にほっとしたような静けさが広がった。


その瞬間だった。

 


○聖龍の導き


ガシュは、今まで我慢していた疲れを一気に解き放つように――


ぽすん、とベッドへ飛び乗った。


「ガシュ疲れたよー」


ふかふかの布団に顔を埋め、もぞもぞと体を丸める。


白いシーツがくしゃりと音を立て、

小さな足がぴょこんと布団の端から飛び出した。


その様子を見て、エルナードは思わず苦笑する。


ゆっくり歩み寄り、小さな頭を優しく撫でた。


「今日は戦闘もあったしな」


柔らかな声で言う。


「よく頑張ったよ」


ガシュはうれしそうに目を細めた。


だが、そのまぶたはすでに重そうで、

今にも閉じてしまいそうだった。


そのとき――


コンコン、と控えめなノックの音が響く。


「どうぞ」


エルナードが声をかける。


扉が静かに開き、

ソフィアが両手に茶器と食事を持って入ってきた。


湯気の立つ器からは、

温かな香りがふわりと広がる。


煮込んだ野菜の匂いと、

焼きたての穀物の香ばしい香り。


素朴だが、どこか心を落ち着かせる匂いだった。


「ありがとう」


エルナードが礼を言うと、

ソフィアは少し困ったように微笑んだ。


「ごめんなさいね」


申し訳なさそうに言う。


「たいしたおもてなしできなくて」


「いや、十分だよ」


エルナードは軽く手を振った。


そして振り返り、ベッドに向かって声をかける。


「ガシュ、ご飯だよ――」


言いかけて、ふっと笑った。


「あ、ダメだ」


ガシュはすでに夢の中だった。


布団に半分くるまれ、

静かな寝息を立てている。


小さな胸が、規則正しく上下していた。


ソフィアがくすっと笑う。


「疲れてたんですね」


優しい目でガシュを見る。


「可愛い子」


その声は柔らかく、

どこか慈しむようだった。


エルナードは小さく頷き、

ガシュの布団をきちんとかけ直す。


飛び出していた足もそっと中へ入れてやった。


「無理させたかな」


少しだけ、独り言のように呟く。


ソフィアは首を横に振った。


「でも、とても頼もしかったですよ」


その言葉に、エルナードはわずかに目を細めた。


嬉しそうでもあり、

少し照れくさそうでもあった。


やがて二人は顔を見合わせ、

静かに立ち上がる。


客間の奥にある扉を開けると、

そこには小さなバルコニーが続いていた。


夜風がふわりと吹き込み、

カーテンがゆっくり揺れる。


二人はそのまま、外へ出た。


夜の空気はひんやりとしていた。


森から流れてくる湿った風が、静かに頬を撫でる。

その中には、土と草の混じったほのかな匂いが漂っていた。


遠くでは虫の音が絶え間なく響き、

深い夜の静けさの中に細い糸のように溶け込んでいる。


空を見上げれば、

無数の星が広がっていた。


黒い天幕のような夜空に、

細かな光が瞬き続けている。


里はすでに眠りについていた。


白い丸屋根の家々は月明かりに照らされ、

淡い銀色の光を帯びて静かに並んでいる。


その穏やかな景色の中で、

ソフィアはバルコニーの手すりに軽く寄りかかり、空を見上げていた。


長い髪が夜風に揺れ、

月明かりが白い頬を柔らかく照らす。


その横顔は、どこか神秘的だった。


「この里では、毎朝あの森の奥で祈りを捧げるんです」


静かな声でそう言う。


「聖龍様に……この世界が穏やかであるように」


彼女の声には、

長い間繰り返されてきた祈りの重みが宿っていた。


エルナードはその横顔を、ほんの一瞬だけ見つめる。


(月明かりのせいか……)


いや、違う。


(やっぱり……夢で見た女性に似ている)


胸の奥が、わずかに熱を帯びた。


夢の中で見た、夜空を見上げる女性。

翠と紅の光に包まれていた、あの姿。


夜風が、二人の間を静かに通り抜けていった。


ソフィアは空を見上げたまま、

ゆっくりと語り始める。


「聖龍……翠焔すいえん紅嶺こうれいという二匹の龍が、天と地を守護しているの」


その言葉を、噛みしめるように続ける。


「翠焔は空を守り、

紅嶺は大地を守る」


夜空の星を見つめながら、彼女は静かに言った。


「私は“翠紅の巫女”。

聖龍に仕える巫女は、世界で一人だけなんだって」


その声音には、誇らしさよりも――

むしろ静かな責任の重さが滲んでいた。


エルナードは手すりにもたれながら、

静かに頷く。


「聖龍の話は、どれくらい前からの話なんだい?」


ソフィアは少し考えるように空を見つめ、

やがて答えた。


「……900年前からと言われてますよ」


その瞬間――


森の奥で鳴いていた虫の声が、

やけに大きく聞こえた。


エルナードは口には出さなかった。


(やはり……900年前からか)


図書館で読んだ歴史書。

そこでも、世界の始まりは900年前だった。


だが――


(1000年前にも龍の伝承はあった)


ただし、形が違う。


もっと古く、

もっと別の姿で語られていたはずだ。


(これは……)


胸の奥に、冷たい疑問が灯る。


(書き換えられた伝承なのか?)


夜空の星は、何も答えないまま静かに瞬いていた。


「君は、毎日祈りを?」


エルナードが静かに問いかける。


ソフィアは夜空を見上げたまま、迷いなく答えた。


「ええ、毎日ですよ」


その返事はあまりにも自然で、

長い間そうしてきた習慣がそのまま言葉になったようだった。


森の上を流れる夜風が、彼女の長い髪をそっと揺らす。

月明かりがその髪を銀色に染めていた。


エルナードは少しだけ視線を傾ける。


「何を祈るんだ?」


ソフィアはほんの少し考えてから、柔らかく微笑んだ。


「世界が平和でありますように」


夜空を見つめながら続ける。


「人々が幸せに暮らせますように、ですね」


それは、この里で巫女として生きる者なら

誰もが当然のように口にする祈りだった。


けれど――


エルナードは、静かに問い返す。


「それ、しんどくないか?」


その言葉に、ソフィアははっとしたように振り向いた。


月明かりの中で、彼の顔を見る。


「え……?

そんなことは……」


反射的に否定しようとして――


言葉が、途中で止まった。


夜風が、二人の間を静かに通り抜ける。


ソフィアはゆっくりと俯き、

手すりに置いていた指先をきゅっと握った。


誰にも言われたことのない問いだった。


巫女として生まれてから、

ずっと当たり前のように続けてきた祈り。


それを――

“しんどいか”と聞かれたことなど、一度もない。


エルナードは、責めるでもなく、

ただ柔らかい声で続ける。


「身近な人の幸せなら、祈れば実感もあるだろうけどな」


夜空を見上げる。


星が、静かに瞬いている。


「たった一人で世界平和を背負わされてもな、って思うんだ」


少しだけ肩をすくめた。


「それに、世界が平和じゃなくなったら……」


視線を戻す。


「祈りが足りないって責められるんだろ?」


その言葉に、

ソフィアの肩がわずかに震えた。


沈黙が落ちる。


森の虫の声だけが、

夜の静けさの中で響いていた。


やがて――


ソフィアは小さく呟いた。


「……はじめてです」


ゆっくりと顔を上げる。


月明かりに照らされた瞳が、

わずかに潤んでいた。


「そんなこと言ってくれた人」


少し照れたように微笑む。


「エルナードさん、優しいですね」


エルナードは、少し困ったように笑った。


「そうかな?」


その笑みは、英雄のそれではない。


ただの――

少し不器用な、一人の男の笑顔だった。


星空の下。


世界を背負う巫女と、

過去を背負う戦士。


夜風が静かに吹き抜けるバルコニーで、

ふたりの距離は――


ほんの少しだけ、縮まっていた。


バルコニーから部屋へ戻ると、夜の静けさがやわらかく二人を包み込んだ。


室内には小さなランプの灯りがともり、

淡い光が壁や床にゆらゆらと揺れている。


窓の外からは森を渡る風の音。

遠くで鳴く虫の声。


そして――


ベッドの上から聞こえる、ガシュの寝息。


すぅ、すぅ、と

規則正しく繰り返される小さな呼吸が、

まるで穏やかな波のように部屋の空気に溶けていた。


エルナードはその様子をちらりと見てから、ソフィアへ視線を戻す。


「祈りの場までは遠いのか?」


声を落として尋ねた。


ソフィアは一度だけ窓の外へ目を向ける。

森の暗い輪郭が月明かりの下に静かに横たわっていた。


「そんなにはかかりませんよ」


そう言ってから、ゆっくりと続ける。


「ただ……里の中でも、限られた人しか入れない場所なんです」


その声には、巫女としての誇りと、

長く守られてきた場所への慎みが混じっていた。


エルナードは少しだけ眉を動かす。


「それは……僕が行っても大丈夫なのか?」


どこか気まずそうに聞く。


ソフィアはすぐに小さく笑った。


「族長が頼んだんですから、大丈夫ですよ」


柔らかく、けれどはっきりとした声だった。


エルナードは軽く頷く。


「さて、明日早いんだろ?」


少し肩を回しながら言う。


「そろそろ休もうか」


「そうですね」


ソフィアは頷き、扉の方へ歩いていく。


そして、扉の前で足を止めた。


ゆっくり振り返る。


窓から差し込む月明かりが、

彼女の白い衣を淡く照らしていた。


その中で、ソフィアは静かに微笑む。


それは――

先ほどまで見せていた巫女の微笑みではなかった。


ただの、ひとりの少女の笑顔。


飾り気のない、柔らかな笑顔だった。


その一瞬の表情が、

まっすぐエルナードの胸を射抜いた。


「おやすみなさい」


小さくそう言って、彼女は扉を開ける。


扉が、静かに閉まった。


部屋に再び、静寂が戻る。


ランプの灯りが揺れ、

ガシュの寝息だけが変わらず続いていた。


エルナードはしばらくその場に立ち尽くしていたが、

やがて小さく息を吐き、ベッドに腰を下ろした。


(翠紅の巫女か……)


思わず、口元がゆるむ。


(綺麗過ぎるだろ)


小さく苦笑した。


戦場では一切迷わない男が、

ひとりの少女の笑顔に動揺している。


それが、少し可笑しかった。


やがてエルナードは横になり、

天井をぼんやりと見つめる。


だが――


なかなか眠りが訪れない。


静かな夜の中で、

今夜の会話が何度も頭に浮かんでは消えた。


「それ、しんどくないか?」


自分の言葉が、ふと蘇る。


(なんで、あんなこと言ったんだろうな)


自分でも分からない。


ただ――


胸の奥が、

どこか落ち着かず、ざわついていた。


ランプの灯りが、

静かに揺れている。


その頃――


ソフィアもまた、自室へ戻っていた。


静かな廊下を歩き、

自分の部屋の扉を開ける。


そして、そっと中へ入ると、

背後で静かに扉を閉めた。


カタン、と小さな音がして、

里の夜の静けさが部屋に満ちる。


そのまま扉に背を預け、

ソフィアは目を閉じた。


ふう、と小さく息を吐く。


その瞬間だった。


頬を、一筋の涙が静かに伝った。


「……あんなこと、言われたの、初めて」


ぽつりと呟く。


夜の静かな部屋に、その声は小さく溶けていった。


――しんどくないか?


あの言葉が、何度も胸の奥で響く。


ずっと、心の奥にしまい込んできたものがあった。


見たこともない人たちのために祈ること。


遠くの国の、知らない誰かの幸せを願うこと。


終わりの見えない責任。


世界のどこかで争いが起きれば、

誰かが不幸になれば、


まるでそれが

自分の祈りが足りなかったからのように思えてしまう。


そんな日々。


それでも――


誰にも言えなかった。


言ってはいけないと思っていた。


巫女なのだから。


強く、清く、迷いなく。


そう在らねばならない。


里の人々が信じてくれているのだから。


だから、胸の奥の重さを

ずっと押し込めてきた。


けれど――


今日、初めて。


誰かが、その重さに気づいてくれた。


「しんどくないか?」


そう言ってくれた。


その一言で、


(……重いって、思ってもいいんだ)


そう思えた。


涙は止まらない。


けれど、不思議と苦しくはなかった。


むしろ――


胸の奥が、少しだけ軽くなった気がする。


ソフィアはゆっくりと歩き、

窓辺に立った。


窓の外には、静かな里の夜。


白い屋根の家々が月明かりに照らされ、

その向こうには、黒く広がる森が見える。


「エルナードさん……」


小さく、その名を呟く。


その瞬間、

頬がまたじんわりと熱を帯びた。


窓の外では、夜風が森の木々を揺らしている。


さらさらと葉が擦れ合う音。


空には、無数の星。


同じ星空の下。


客間で眠れぬまま天井を見つめる青年と、


窓辺で静かに夜を見上げる巫女。


二人はそれぞれの想いを胸に抱きながら、


静かな夜の中へと、

ゆっくり身を委ねていった。


エルナードは、再び夢を見ていた。


果てのない白い空間。

上も下も、境界すら曖昧な世界。


静寂だけが広がるその中央に、

二つの光が揺れていた。


翠の光。

そして、紅い光。


それらはゆっくりと脈打ちながら膨らみ、

やがて巨大な輪郭を形作っていく。


光はやがて姿となり、

二匹の龍が現れた。


翠焔すいえん


蒼い炎をその身にまとい、

星のように輝く瞳でこちらを見つめている。


空そのものを司るかのように、

優雅に、しかし圧倒的な存在感を放っていた。


もう一匹は、紅嶺こうれい


その体からは、大地の鼓動のような低い響きが漂う。

巨大な翼をゆっくりと広げ、

重厚な気配を周囲に満たしていた。


二柱の聖龍は、ただ静かにそこにいた。


だが――


その視線には、明確な意志が宿っている。


何かを、伝えようとしている。


エルナードはその場に立ち、

心の中で問いかけた。


(巫女の力を、その手に?)


翠焔の光が、わずかに強く輝いた。


(力というのは?)


今度は紅嶺の光が、鼓動のように脈打つ。


(あの娘は……やはり翠紅の巫女なのか?)


その瞬間。


二匹の龍の背後に、

白い光が広がった。


その中に――


一人の少女の姿が浮かび上がる。


ソフィアだった。


白い衣をまとい、

静かに祈りを捧げている。


横顔は穏やかで、

どこか儚いほどに静かだった。


エルナードはその光景を見つめながら、

最後の問いを投げかける。


(魔王を倒す力を貸すと言うのか)


その瞬間――


翠と紅の光が強く輝いた。


二つの光は互いに引き寄せられ、

やがて一つに交わる。


次の瞬間。


まばゆい閃光となって弾けた。


――そこで、目が覚めた。


エルナードは勢いよく上体を起こす。


胸が激しく上下していた。


鼓動が、まだ早い。


「双龍が……」


小さく呟く。


「魔王を倒すために力を貸してくれるのか?」


夢の中の光景が、はっきりと残っている。


「そのために……あの娘の力を借りろと?」


窓の外へ視線を向ける。


空はすでに白み始めていた。


夜の闇はゆっくりと退き、

淡い朝の光が森の上に広がっている。


里はまだ静かだ。


朝露を含んだ空気は澄み、

ひんやりとした冷たさが漂っていた。


遠くで、鳥が一声鳴いた。


夢とは思えなかった。


あまりにも鮮明だった。


(もし……あれが導きなら……)


その考えが、胸の奥に残る。


ふと、視線がベッドへ向いた。


ガシュがまだ眠っている。


布団の中で丸まり、

静かな寝息を立てていた。


エルナードはそっと声をかける。


「ガシュ。そろそろ起きろよ」


「うーん……」


ガシュは目を擦りながら体を起こす。


そして大きな欠伸をひとつ。


「もう朝?」


「ああ」


エルナードは窓の外を指す。


「祈りの時間だろ」


ガシュはまだ眠たそうに頷き、

くしゃくしゃになった髪を手で整える。


二人は簡単に身支度を整えた。


そして、昨日ソフィアが持ってきてくれたパンを取り出す。


少し固くなっていたが、

噛むと素朴な甘みが広がる。


「うまいな」


「うん……もぐもぐ」


まだ半分眠ったままのガシュが、

もぐもぐとパンを頬張っている。


その様子を見て、エルナードは小さく笑った。


だが――


胸の奥では、

昨夜の夢の残響が消えずに残っていた。


翠と紅の光。


そして――


“巫女の力をその手に”。


それは救いなのか。


それとも――


新たな運命の鎖なのか。


朝の光が、ゆっくりと部屋の中へ差し込んでいた。


窓から射し込む淡い陽光が床を照らし、

白い壁にやわらかな影を落としている。


静かな朝だった。


軽い朝食を食べ終えたエルナードとガシュは、

客間の扉をそっと開ける。


外へ出ると、澄み切った朝の空気が肌に触れた。


夜露に濡れた石畳が、

朝日に照らされて淡く光っている。


里はまだ完全には目覚めきっていない。


遠くの家々の屋根の向こうから、

炊事の煙が細くゆっくりと立ちのぼっていた。


鳥のさえずりが、

静かな朝の空に響いている。


その穏やかな景色の中を、

ゆっくりと歩いてくる人物があった。


族長バーナードだった。


白髪混じりの髭を整えながら、

落ち着いた足取りで近づいてくる。


「おはようございます。エルナードさん。眠れましたかな?」


穏やかな声だった。


エルナードは背筋を伸ばし、丁寧に答える。


「おはようございます。はい、ゆっくり休めました」


その横でガシュも慌てて姿勢を整える。


そしてエルナードの真似をして、

ぺこりと深くお辞儀をした。


その小さな仕草に、

族長は目を細めて微笑む。


「では、着いてきてください」


そう言うと、ゆっくり歩き出した。


三人は族長に導かれ、

里の中央の広場を横切っていく。


昨日通った入口とは反対側。


里の奥へと続く細い道だった。


やがて辿り着いたのは、

森へと続く小さな出入口。


苔に覆われた石段が、

静かな森の中へと伸びている。


その石段の前に――


すでにソフィアが立っていた。


朝日に照らされた白い衣が、

淡く光をまとっている。


夜の穏やかな少女の姿とは違い、

今朝の彼女には凛とした空気が漂っていた。


巫女としての姿だった。


ソフィアは一歩前へ出て、

深く丁寧にお辞儀をする。


「おはようございます。よろしくお願いします」


ガシュがぱっと顔を明るくする。


「おはよう! お姉ちゃん!」


元気な声が、静かな朝の空気に響いた。


ソフィアはふっと笑い、

少し屈んでガシュと視線を合わせる。


「おはよう、ガシュ君」


その笑顔は柔らかい。


けれど――


どこかに、わずかな緊張も滲んでいた。


そしてその隣には、

腕を組んで立つ若い男の姿があった。


チャモルだった。


昨日と同じく、

鋭い視線がエルナードへ向けられている。


警戒と、苛立ち。


それを隠す気もない目だった。


突然、彼が声を上げる。


「族長、俺も着いて行きます!」


声には抑えきれない感情が混じっていた。


「神聖な祭壇によそ者を通すなんて……」


ソフィアの方をちらりと見てから、

さらに強く言う。


「ソフィアを任すなんてダメですよ!」


その言葉に、

空気が一瞬ぴんと張り詰めた。


森の入り口の静けさが、

わずかに重くなる。


族長は落ち着いた様子で、

ゆっくりと首を横に振った。


「これ、チャモル」


低いが、よく通る声だった。


「失礼だろう。里の者では対処できぬから仕方がなかろう」


チャモルの顔が歪む。


「でも!」


拳を強く握りしめる。


悔しさと焦りが、

その表情からはっきりと読み取れた。


彼の視線は、

エルナードへと突き刺さっていた。


その張り詰めた空気の中で、ソフィアがそっとエルナードの袖に近づいた。


そして、小さな声で囁く。


「あの……もうそろそろ行かないと。エルナードさん、お願いします」


声は控えめだったが、

そこにはわずかな不安と、確かな信頼が混じっていた。


エルナードはまっすぐソフィアを見つめる。


そして、穏やかに微笑んだ。


「分かりました。行きましょう」


その言葉に、族長バーナードが深く頭を下げる。


「よろしくお願いします」


だが――


その直後だった。


「お、俺も行くってば!」


チャモルが勢いよく一歩踏み出す。


だが、その腕を族長の手がしっかりと掴んだ。


「いいかげんにせんか」


低く、しかし強い声だった。


チャモルは歯を食いしばる。


悔しさを隠せないまま、視線を逸らした。


その背後で、まだ何か言いかけている声が聞こえる。


だが三人は振り返らなかった。


エルナード、ソフィア、ガシュ。


三人はそのまま里を後にする。


森の奥へと続く石段を、朝の光が静かに照らしていた。


石段を降り、森の中へ足を踏み入れると、

空気が一段と冷たく感じられた。


朝の光はまだ柔らかく、

木々の間から細い光の筋となって差し込んでいる。


葉の隙間を抜けた光が、

地面に揺れる模様を描いていた。


足元には夜露に濡れた苔が広がり、

踏みしめるたびに、しっとりとした感触が靴底に伝わる。


その静かな森の中で、ガシュが不思議そうに首を傾げた。


「あのお兄ちゃん、なんであんなに怒ってるの?」


チャモルのことだ。


エルナードは苦笑いを浮かべた。


「まあ、いろいろあるのさ」


短い言葉だった。


だがその中には、

若さゆえの焦りや、

守りたいという気持ちが混じっている。


ソフィアが少しだけ俯いて言った。


「ごめんなさいね」


その声は、どこか責任を背負いすぎているようだった。


「あ、いや。大丈夫だよ」


エルナードは柔らかく返す。


森の奥へ進むにつれ、

周囲の音が少しずつ変わっていった。


最初は賑やかだった鳥のさえずりが減り、

代わりに、風が葉を揺らす低いざわめきが響く。


エルナードはゆっくりと周囲を見渡した。


視線は木々の上へ。

茂みの奥へ。

影の濃い場所へ。


自然と片手が剣の柄へ触れる。


魔物の気配は――


今のところない。


だが、胸の奥に小さな胸騒ぎが残っていた。


しばらく進むと、

右手の奥から水音が聞こえてきた。


さらさらと流れる水の音。


木立の間を抜けると、

小ぶりな滝が姿を現した。


岩肌を伝って落ちる水は、

朝日に照らされて銀色にきらめいている。


細かな水しぶきが霧のように舞い、

周囲の空気にひんやりとした湿り気を与えていた。


ガシュが目を輝かせる。


「うわ、綺麗だね!」


駆け寄り、身を乗り出す。


その瞬間。


エルナードの手がすぐにガシュの服を掴んだ。


「ガシュ、落ちるなよ」


「大丈夫だよー!」


「そういうやつが落ちるんだ」


エルナードは苦笑しながら引き戻す。


ソフィアはその隣に並び、

二人のやり取りを見て小さく微笑んだ。


森の中に、

少しだけ穏やかな空気が流れていた。


「階段を上がったら、もう少しです」


ソフィアがそう告げた。


その声には、わずかな緊張が滲んでいた。

聖域へ近づく者だけが感じる、静かな重みのようなものがあった。


三人は滝の脇を抜けて進む。


岩肌を伝う水は絶えず流れ続け、

さらさらと細い音を響かせている。


水しぶきが霧のように漂い、

朝の光を受けて細かな粒となって輝いていた。


その滝の横を通り過ぎ、

森の道をひとつ曲がると――


石の階段が現れた。


苔むした石段は古く、

長い年月をここで過ごしてきたことが一目で分かる。


踏みしめられ、

磨かれ、

それでも静かに守られてきた石だった。


誰かが、ずっとこの場所を守ってきた。


そんな気配が、そこにはあった。


エルナードは、ふと足を止めた。


ゆっくりと振り返る。


(……何か気配を感じるな)


森の奥を見つめる。


風ではない。


葉が揺れる音でもない。


――視線。


誰かに見られているような感覚があった。


エルナードの手が、そっと剣の柄に触れる。


そして、ゆっくり握った。


その隣で、ガシュも小さく辺りを見回している。


何かを感じ取ったのだろう。


だが――


ソフィアはまだ気づいていないようだった。


彼女は静かに階段を登り始める。


三人はそのまま石段を上がっていった。


一段。


また一段。


森の空気が、少しずつ変わっていく。


そして――


最後の段を越えた瞬間。


視界が、ふっと開けた。


そこには小さな円形の空間が広がっていた。


森の中にぽっかりと空いたような場所。


中央には巨大な巨石が鎮座している。


その前には、二本の石柱。


左右に並んで立っていた。


片方の柱は、

天へ昇るように翼を広げた龍。


もう片方は、

大地を抱き込むように身体を丸めた龍。


翠と紅を象徴する装飾が、

石の表面に細やかに刻まれている。


その二柱の間には、石で造られた祭壇。


上には二つの盃が並び、

その中央に、月桂樹の枝葉が静かに置かれていた。


その瞬間――


風が止んだ。


森が、息を潜める。


鳥の声も、葉のざわめきも、

まるで遠くへ消えたかのようだった。


ここは――


聖域。


石段を登りきったその場所は、

異様なほど静まり返っていた。


森の音が、ここだけ遠い。


エルナードは低く呟く。


「ここが祈りの場か」


「ええ、そうなんです」


ソフィアの声も、自然と小さくなる。


祭壇の前の石床には、

淡く光を帯びた円形の紋様が刻まれていた。


複雑に絡み合う線。


古代文字のような刻印。


そして、ところどころに残る翠と紅の痕跡。


長い年月を経ても消えない色だった。


エルナードは静かにそれを見つめる。


(魔法陣……いや)


(結界に近いものだ)


その時。


ガシュが興味津々に、一歩前へ踏み出した。


だが――


エルナードの手がすぐに肩を掴む。


「僕らは入っちゃダメだよ」


「ご、ごめんなさい」


ガシュは慌てて後ろへ下がった。


ソフィアは振り返り、

二人に申し訳なさそうな微笑みを向ける。


「お祈り、すぐに済ませちゃいますね」


そう言うと、ゆっくりと祭壇へ歩み寄った。


白い衣が朝の光を受け、

静かに揺れていた。


エルナードは、ふと来た道を振り返った。


祭壇の静寂とは裏腹に、

森の奥で何かがざわついている。


木々の葉が揺れる気配。

だが、それはただの風ではなかった。


(……違う)


耳を澄ませる。


風ではない。


生き物が動くざわめき。


森のどこかで、何かが走り回っている。


枝が折れる音。

葉が擦れる音。


それが、徐々にこちらへ近づいてくる。


エルナードの表情が引き締まった。


その異変に気づいたのか、ソフィアが振り返る。


「エルナードさん? どうしました?」


エルナードは森の奥を見つめたまま言った。


「森が……ザワついてる」


その言葉が空気に落ちた――その瞬間だった。


「うわー!」


突然、石段の下から男の叫び声が響いた。


聞き覚えのある声。


チャモルだった。


血相を変え、必死の形相で石段を駆け上がってくる。


息は荒く、顔は恐怖に歪んでいる。


そして――


その背後から、二体の影が迫っていた。


ゴモヒ。


藍色の毛並みを逆立て、

黄色い牙を剥き出しにしている。


鋭い爪で石段を蹴り、

獲物へ食らいつこうと追いすがっていた。


「チャモル! なんで!?」


ソフィアの叫びが響く。


だがその声より早く、エルナードが鋭く叫んだ。


「チャモルさん、伏せて!」


チャモルは反射的に頭を抱え込み、

その場に身を伏せる。


次の瞬間。


ガシュのボウガンが唸った。


――バシュッ!


乾いた音とともに矢が放たれる。


一直線。


飛びかかろうとしていたゴモヒの額へ、

正確に突き刺さった。


「ギャッ!」


甲高い悲鳴。


ゴモヒはそのまま勢いよく転げ落ち、

石段を転がりながら動かなくなる。


エルナードは短くソフィアへ言った。


「離れないでね」


同時に剣を抜く。


鞘走りの鋭い音が、空気を裂いた。


居合い抜き。


一歩踏み込み――


一閃。


鋼の軌跡が朝の光を切り裂く。


ゴモヒの胴を、斜めに切り裂いた。


肉が裂ける鈍い音。


血飛沫が、朝日に弾けて散る。


ゴモヒは声を上げる暇もなく、

その場に崩れ落ちた。


だが――その瞬間だった。


エルナードの背筋を、冷たい感覚が走る。


(……上だ)


考えるより先に身体が動いた。


反射的にソフィアの腰を抱き寄せ、

そのまま大きく後方へ飛び退く。


「きゃっ――!」


ソフィアの小さな悲鳴が上がった。


次の瞬間。


“ドォォン!!”


轟音。


地面が揺れ、衝撃が空気を震わせた。


先ほどまで二人が立っていた場所に、

巨大な影が叩きつけられるように着地する。


土煙が一気に舞い上がった。


砕けた石が転がり、

砂煙の向こうで何かがゆっくりと動く。


それは――


ゴモヒだった。


だが、今まで見たものとは明らかに違う。


倍はある。


いや、それ以上かもしれない。


筋肉は異様に膨れ上がり、

背中の毛は針のように逆立っている。


血走った目がぎらぎらと光り、

口からは黄色い牙が覗いていた。


振り下ろされた拳の衝撃で、

石床は砕け散っている。


その衝撃は、祭壇の床へ刻まれた紋様にも及んでいた。


パキッ、と嫌な音が響く。


魔法陣に亀裂が走った。


聖域が――揺らぐ。


巨大なゴモヒはゆっくりと顔を上げ、

低く唸り声を上げた。


グルルル……


その音は、森の奥へと響く。


同時に、森のざわめきが一斉に強まった。


まるで森そのものが、

この異変に呼応しているかのようだった。


エルナードは剣を構える。


その目は、すでに戦士のものになっていた。


「……でかいな」


低く呟く。


隣でガシュが小さく息を呑む。


ソフィアの鼓動が、腕越しに伝わってきた。


早く、強く打っている。


聖なる祈りの場は――


一瞬で戦場へと変わっていた。


巨大なゴモヒが再び低く唸る。


地面の亀裂が広がり、

砕けた石が転がった。


エルナードはソフィアを背に庇いながら、

数歩ゆっくり後退する。


「下がって」


短く告げた。


そして右手の剣へ意識を集中させる。


体内の魔力を、刃へ流し込む。


次の瞬間。


剣が青白く輝いた。


バチバチ、と電気が弾ける。


雷が刃の周囲を走り、

空気が焦げる匂いが漂った。


エルナードは視線を巨大なゴモヒから逸らさず、

横にいるガシュへ声をかける。


「ガシュ、チャモルさんを頼むよ」


「う、うん!」


ガシュは震える足を踏み出した。


恐怖はある。


それでも、小さな身体で前へ出る。


チャモルの前へ立ち、

守るように構えた。


その瞬間――


巨大ゴモヒの赤く濁った目が、ゆっくりと動いた。


エルナードではない。


視線が向いた先は――ガシュだった。


「っ!」


エルナードの喉から鋭い息が漏れる。


だが、その反応よりも早く。


巨大ゴモヒが地面を蹴った。


ドンッ、と重い音。


土と石片を巻き上げ、

巨体が一直線に跳びかかる。


振り上げられた巨大なサーベル。


欠けた刃が、朝日を反射して鈍く光った。


空気が唸る。


ガシュは反射的に目をぎゅっと閉じた。


小さな身体が固まる。


――次の瞬間。


“ガキィィン!!”


凄まじい金属音が、聖域に響き渡った。


火花が散る。


エルナードの剣が、

ゴモヒのサーベルを真正面から受け止めていた。


衝撃が地面へ叩き込まれる。


ドン、と鈍い振動。


エルナードの足元の石床が沈み、

細かな亀裂が走った。


腕にかかる重圧。


だが――


エルナードは踏みとどまる。


「ガシュ、目を開けろ!」


刃を押し返しながら叫ぶ。


全身の筋肉が軋む。


そして――


一気に力を込めた。


剣を弾き上げる。


ゴモヒのサーベルが跳ね上がる。


その瞬間、エルナードは一歩踏み込んだ。


拳を固める。


渾身のボディブロー。


ゴモヒの腹へ、

全体重を乗せた拳が叩き込まれる。


ドスッ――


鈍い衝撃。


巨体がぐらりと揺れた。


数歩よろめき、後退する。


そして――


「グォォォォッ!!」


怒りの咆哮を上げた。


森が震えるような声だった。


エルナードはすぐさま身を翻し、

ソフィアの前へ戻る。


再び剣を構える。


刃の上を雷光が走る。


バチバチと電気が弾け、

青白い光が周囲を照らした。


エルナードは巨大ゴモヒを真っ直ぐ見据える。


「お前の相手は、僕だ」


低く、静かな声だった。


次の瞬間。


エルナードの身体が前へ出る。


剣を下から上へ振り抜く。


雷を纏った刃が唸り、

ゴモヒのサーベルへ叩きつけられた。


鋼と鋼がぶつかる。


刃の重み。


そこに乗る魔力。


その衝撃に、巨大なゴモヒの体が大きくよろめいた。


だが――


次の瞬間。


巨大ゴモヒの視線が動いた。


エルナードではない。


ゆっくりと、その赤く濁った瞳が向いた先は――

ソフィアだった。


獲物を見定める、捕食者の目。


その視線を受けた瞬間、

ソフィアの身体が硬直する。


息が詰まる。


胸が凍りついたように動かない。


足も、声も、出ない。


巨大ゴモヒは低く唸り、

地面を強く蹴った。


ドンッ!!


石を砕きながら巨体が跳び上がる。


影が空を覆う。


「ソフィア!」


エルナードの声が鋭く響いた。


迷いは一瞬もなかった。


エルナードはソフィアを抱き寄せる。


そのまま身体ごと横へ飛んだ。


二人の身体が地面を転がる。


草と石が擦れる音。


ソフィアの白い衣が土に汚れる。


直後――


“ドォン!!”


巨体が着地した。


凄まじい衝撃。


地面がえぐれ、石片が四方へ飛び散る。


さきほどまでソフィアが立っていた場所が、

無惨に砕け散っていた。


石床は粉々になり、

土煙が聖域に広がる。


煙の中で、エルナードは立ち上がる。


腕の中には、まだソフィアがいた。


彼女の鼓動が、胸越しに激しく伝わってくる。


恐怖で震えている。


エルナードはゆっくりと彼女を後ろへ下げる。


その瞳が鋭く光った。


「……絶対に、触れさせない」


低く、はっきりとした声。


エルナードの剣が強く輝く。


雷光が刃を走り、

青白い光が周囲を照らした。


バチバチと空気が震える。


聖域の空気が、わずかに揺らぐ。


森の葉がざわめき、

結界の紋様が淡く光った。


エルナードは一歩踏み込む。


地面を蹴る。


雷を纏った剣を軸に、

身体を大きくひねった。


次の瞬間――


エルナードの身体がしなやかに回転した。


鋭い回し蹴り。


唸るような速度で振り抜かれた足が、

巨大ゴモヒの首元へ叩き込まれる。


――ドンッ!


鈍い衝撃音。


巨体がぐらりと揺れた。


だが、完全には崩れない。


ゴモヒの赤い目がさらに血走り、

怒りに歪む。


理性を失ったように咆哮を上げると、

巨大なサーベルを振り回し始めた。


「グォォォッ!!」


空気を裂く轟音。


サーベルが乱暴に振るわれ、

刃の軌跡が聖域の静寂を引き裂く。


石柱に刃がかすめる。


――ギィンッ!


火花が散った。


龍の彫刻の石肌が削れ、

小さな破片が飛び散る。


「くっ……!」


エルナードは歯を食いしばる。


逃げるのではなく、

むしろ前へ。


間合いを一気に詰める。


雷を纏った剣を低く構え、

地面すれすれから振り上げた。


次の瞬間――


バチィッ!!


雷鳴のような音が聖域に響き渡る。


刃と刃がぶつかった。


激しい衝撃。


青白い雷光が爆ぜ、

魔力の波が周囲へ弾ける。


ゴモヒの腕が大きく弾かれた。


その衝撃で――


巨大なサーベルが宙を舞う。


重い金属音を響かせながら、

石床へ転がった。


カラン……カラン……。


武器を失った巨体が、

のけぞる。


その一瞬。


ほんのわずかな隙。


エルナードは、逃さない。


踏み込む。


迷いなく。


深く。


剣を突き出した。


――ズブリ。


雷を帯びた刃が、

ゴモヒの胸を貫いた。


刃の内部を電光が駆け巡る。


バチバチと弾ける雷。


ゴモヒの身体が大きく震えた。


咆哮が喉の奥で途切れる。


やがて――


力が抜けた。


巨体がゆっくり傾き、

そのまま崩れ落ちる。


ドサリ、と重い音。


雷の光が消える。


聖域に、再び静寂が戻った。


森の風が木々を揺らす。


遠くから、滝の水音が響いてくる。


まるで何事もなかったかのような静けさだった。


エルナードは大きく息を吐く。


「ふう……」


胸が上下している。


ゆっくりと剣を引き抜いた。


血が刃から滴る。


エルナードは軽く振り、血を払う。


刃が朝日を受けて鈍く光った。


そして、静かに構えを解いた。


エルナードはゆっくりと息を整え、ソフィアの方へ向き直った。


まだわずかに残る雷光が剣の刃をかすめ、青白い光が静かに消えていく。


「怪我ないか?」


低く穏やかな声だった。


ソフィアはまだ体を震わせていた。

両手を胸の前で握り、必死に呼吸を整えている。


「は、はい……」


細い声で答える。


恐怖の余韻がまだ残っている。

だが――無事だった。


それを確認すると、エルナードの表情がわずかに緩んだ。


「ガシュも、大丈夫か?」


声を掛けると、ガシュはぱっと胸を張る。


「うん!エル兄ちゃん、強ーい!」


目をきらきらと輝かせている。


その瞳には、

尊敬と憧れがまっすぐに宿っていた。


エルナードは少し照れくさそうに頭をかいた。


「まあ、これくらいな」


そう言いながら、ゴモヒの胸に刺さっていた剣を完全に引き抜く。


刃が肉から抜ける鈍い音。


血がぽたりと石床へ落ちた。


エルナードは倒れた巨体を見下ろす。


巨大なゴモヒの亡骸は、

まだ怒りの形を残したまま横たわっている。


(聖域を狙っていたのか……)


わずかに眉を寄せる。


(それとも――)


視線が祭壇へ向く。


風が吹き、

祭壇の上の月桂樹の葉がさらりと揺れた。


その瞬間だった。


ゴモヒの亡骸のそばで――


地面が、低く唸るように震え始めた。


ゴゴゴ……。


腹の底に響くような振動。


石床が微かに揺れる。


「……?」


エルナードの目が鋭くなる。


その足元で――


魔法陣に亀裂が走った。


パキッ、と乾いた音。


石が裂け、

そこから淡い光が漏れ出す。


ソフィアが思わず悲鳴を上げた。


「きゃあ!」


エルナードは反射的に彼女を抱き寄せる。


「下がるぞ!」


地面を蹴る。


二人の身体が亀裂から飛び退いた。


次の瞬間――


魔法陣の中心がゆっくりとせり上がる。


ゴゴゴ……。


石が動き、

まるで長い眠りから目覚めるように組み替わっていく。


やがて円形の台座が姿を現した。


古代の仕掛けのようだった。


その台座の表面には――


一つの紋様が刻まれている。


絡み合うように描かれた、二匹の龍。


翠と紅。


翼を広げ、互いを巡るように刻まれた彫刻。


細部まで精巧で、

今にも動き出しそうなほどだった。


そして――


台座に刻まれた紋様が、静かに光を帯び始めた。


最初は、ほんのかすかな輝きだった。


だが次第に、その光は強さを増していく。


翠の光が、天へと伸びた。


紅の光が、地の奥から立ち上がる。


二筋の光はゆっくりと空へ昇り、

互いを求めるように絡み合いながら渦を巻いた。


その瞬間、風が吹き荒れる。


森の木々が大きく揺れ、

祭壇の月桂樹の葉が舞い上がった。


光はさらに広がる。


やがて、その渦の中心から――


柔らかな光が、ゆっくりとエルナードとソフィアを包み込んだ。


温かい。


だが同時に、圧倒的な力を感じさせる光だった。


まるで世界そのものに触れているような感覚。


そして――


光が、形を得る。


空間の中に、巨大な影が浮かび上がった。


二体の龍。


一体は翠の焔をその身にまとい、

星のような輝きを瞳に宿している。


翠焔すいえん


その翼がわずかに広がるだけで、

空気が震えた。


もう一体は、紅き嶺のごとき威厳を纏う龍。


紅嶺こうれい


その存在は大地そのもののように重く、

静かな圧力を放っている。


巨大な二柱の聖龍が、

聖域の上空に現れていた。


双龍の眼が、ゆっくりと動く。


そして――


エルナードを捉えた。


《時を越えし者よ》


声が響く。


だがそれは、耳で聞く音ではない。


空間そのものから響く声。


言葉であり、音であり、

そして直接心へ刻み込まれる意思だった。


エルナードはソフィアを腕の中に抱いたまま、

まっすぐ双龍を見上げる。


「……」


一歩も退かない。


目も逸らさない。


その視線は、真っ直ぐだった。


やがて双龍の眼が、

ゆっくりとソフィアへ向く。


《翠紅の巫女よ》


ソフィアは息を呑んだ。


身体が震える。


足がわずかに揺れる。


それでも――


目を閉じない。


聖龍の視線を、真正面から受け止めていた。


《我はこの世界を見守りし者なり》


双龍の声が、森を満たす。


空気が震える。


その響きは、木々の奥深くまで広がっていった。


そして――


双龍は再びエルナードを見る。


《魔王の封印は確かに解けはじめている》


森の空気が、一瞬で張り詰めた。


エルナードの胸が、強く打つ。


鼓動が早まる。


双龍の声が続く。


《そなたが魔王の討伐を願うなら――》


翠と紅の光がさらに強く輝く。


《我らの力を貸そう》


その言葉に、

雷鳴のような響きが重なった。


聖域の空気が震え、

森の奥までその余韻が広がっていった。


双龍は、ゆっくりとソフィアへ向き直った。


空に浮かぶ巨大な影が動くだけで、

聖域の空気がわずかに震える。


翠焔の瞳が、静かに彼女を見つめる。


紅嶺の気配が、大地の奥から響くように広がった。


《翠紅の巫女よ。そなたには破邪の力が眠っている》


ソフィアの肩が小さく揺れる。


「破邪の力……?」


震える声で問い返した。


聖龍の声は、優しく響く。


《そなたの願いは、癒す力となる》


世界を想う祈り。


人々の幸せを願う祈り。


それは――ただの祈りではない。


力。


現実を変える力。


その言葉の重みが、空間に静かに落ちる。


エルナードは双龍を見上げ、問いかけた。


「この娘を、旅に連れて行けと?」


翠焔の瞳が深く輝いた。


《我らの力を引き出すには、翠紅の巫女が必要だ》


風が止まる。


森の葉が、ぴたりと動きを止めた。


まるで時間そのものが止まったかのような静寂。


双龍は、ゆっくりと告げる。


その声は優しく、

しかし絶対的だった。


《我らは常にそなたと共にある》


その言葉が空間に響いた瞬間――


双龍の姿は、ゆっくりと崩れていく。


巨大な身体が再び光へと変わる。


翠と紅の光。


二つの輝きが再び絡み合いながら渦を巻き、

エルナードとソフィアを柔らかく包み込んだ。


温かな光。


そして――


そのまま、空へと溶けるように消えていく。


やがて、光は完全に消えた。


森は、元の静寂を取り戻す。


滝の水音。


木々のざわめき。


遠くで鳴く鳥の声。


何事もなかったかのように、世界は静かだった。


だが――


確かに。


世界は、動いた。


エルナードは腕の中のソフィアを見る。


ソフィアもまた、彼を見上げていた。


言葉はない。


けれど。


二人の運命が、今確かに結ばれたことだけは

はっきりと感じられた。


沈黙が、聖域を包む。


その静寂を引き裂くように――


怒鳴り声が響いた。


「お前、ソフィアから離れろ!」


チャモルだった。


顔を真っ赤にし、拳を震わせている。


怒りと焦りが混ざった声だった。


エルナードは、ゆっくりと現実に引き戻される。


腕の中の温もりに気づいた。


――まだ、抱き寄せたままだった。


彼はそっと手を離す。


「ごめん」


ソフィアもはっとして、

エルナードの胸元から離れた。


頬は朱に染まり、

視線が落ち着かない。


「だ、大丈夫……」


小さな声だった。


その瞬間、風がふわりと吹き抜ける。


先ほどまで天を焦がしていた翠と紅の光の残滓が、

まるで幻だったかのように消えていった。


エルナードはチャモルを見る。


そして、静かに問いかける。


「ひょっとして、双龍……見えてなかった?」


チャモルは眉をひそめた。


「はあ? 何言ってるんだよ」


本気で意味が分からない、という顔だった。


エルナードはガシュを見る。


「ガシュは?」


ガシュは大きく頷く。


「ガシュには見えたよ!」


目を輝かせて言う。


「おっきな龍さん、かっこよかった!」


その無邪気な声に、

場の空気がわずかに揺らいだ。


ソフィアは両手を胸の前で握りしめる。


そして、小さく呟いた。


「……破邪の力」


その声は震えていた。


けれど――


そこにあるのは恐怖だけではない。


戸惑い。


使命の重み。


そして。


静かに芽生え始めた――決意。


エルナードは、胸の前で手を握りしめたまま立ち尽くしているソフィアを静かに見つめた。

その横顔にはまだ戸惑いが残り、先ほどの光景を思い出しているのか、呼吸も少し浅い。


彼は声の調子を柔らかく落とし、そっと言った。


「とりあえず、里に戻ろうか」


ソフィアははっとしたように顔を上げる。

そして小さく頷いた。


「うん……お祈りどころじゃないですもんね」


彼女の視線が祭壇へ向く。


そこには、先ほどの戦いの痕跡がはっきりと残っていた。


石床には無数の亀裂が走り、

双龍の魔法陣は割れた石の間からかすかに光を漏らしている。


台座は半ば地面に沈み込み、

月桂樹の枝葉は風に揺れて静かに擦れ合っていた。


聖域は、まだわずかにざわめいている。


森の奥からは、風とは違う小さな気配が残っているようだった。


その時、後ろから苛立った声が飛ぶ。


「だから! ソフィアに引っ付くなって言ってんだろ!」


チャモルだった。


顔を赤くし、拳を握りしめている。

怒りと焦りが入り混じった声だ。


エルナードは振り返り、肩をすくめて苦笑した。


「離れちゃ護衛できないよ」


軽い口調だったが、

その視線は冗談ではなく真剣だった。


チャモルの顔がさらに歪む。


「ぐっ……!」


そこへ、ソフィアが困ったように振り返る。


「もう、チャモル! 失礼でしょ」


その声は叱るようでいて、どこか優しい。


それから彼女は少しだけ視線を落とし、

控えめにエルナードを見上げた。


「帰りましょ、エルナードさん。ガシュ君も」


ガシュはぱっと顔を上げ、元気よく頷いた。


「はーい!」


その明るい声だけが、聖域の静寂を少し和らげる。


四人は、石の階段へと足を向けた。


苔むした石段を、一歩ずつ下りていく。


木漏れ日が揺れ、

朝の光が葉の間から細く差し込んでいる。


森の空気はまだ冷たく、

足元の苔はしっとりと湿っていた。


誰も言葉を発さない。


ただ、足音だけが小さく響く。


だが――


それぞれの胸の内では、確かな変化が生まれていた。


エルナードは先頭を歩きながら思う。


(見えなかったのか……双龍は)


チャモルには見えなかった。


つまり――


選ばれた者にしか見えない存在。


それが意味するものは、ひとつだ。


彼はちらりと後ろを振り返る。


ソフィアが、静かに歩いている。


まだどこか緊張した様子だ。


だが、時折――


そっとエルナードの方を見る。


何かを確かめるように。


そして目が合いそうになると、

すぐに視線を逸らしてしまう。


その仕草に、エルナードの胸がわずかにざわついた。


(やっぱり……)


間違いない。


ソフィアは――

翠紅の巫女だ。


その後ろでは、チャモルが二人を睨みつけながら歩いている。


その背中からは、

焦りと悔しさがはっきりと滲んでいた。


守りたいはずの少女を、

自分では守れなかった。


その事実が、彼の胸を焼いている。


森の奥で、鳥が一斉に飛び立った。


ばさり、と羽音が広がる。


木々の影が揺れる。


その瞬間、

どこかで運命の歯車が静かに回り始めた気がした。


四人は、ゆっくりと階段を下りる。


やがて森の木立が開き、

ベレヌーの里へと続く道が見えてきた。


朝の光に包まれた里は、

まだ何も知らずに穏やかな空気を漂わせている。


だが――


もう、昨日までの世界ではない。


運命は、静かに動き出していた。


四人は、その運命を背負いながら、

里へと戻っていった。


里の入口に着いたころには、先ほどまで耳にまとわりついていた森のざわめきは、すっかり遠ざかっていた。

朝の光が木々の隙間からやわらかく差し込み、石段の上に細かな影を落としている。


それでも――


エルナードの胸の奥には、まだあの光が残っていた。


翠と紅。

絡み合うように空へ昇った、双龍の輝き。


それは夢でも幻でもない。

確かに、この世界で起きた出来事だった。


三人は石段を下り、やがて白い丸屋根の家々が並ぶ広場へと戻った。


朝の里は静かなはずだったが、今日はどこか落ち着かない空気が漂っている。

戸口から顔を出して様子をうかがう人、井戸の前で小声で話し込む人。


森の異変を、誰もがうっすらと感じ取っているのだろう。


その中で、ソフィアが小さく息を整えた。


そして、エルナードへ向き直る。


「族長に報告しなくちゃ」


その声音には、巫女としての責任がはっきりと滲んでいた。


エルナードは一歩だけ彼女に近づくと、周囲に聞こえないよう低い声で言った。


「双龍の話は、まだ伏せとこう」


ソフィアは一瞬、目を見開く。


だがすぐに何かを察したように、静かに頷いた。


――今はまだ、言うべき時ではない。


その理解は、言葉にしなくても伝わった。


エルナードはそのまましゃがみ込み、ガシュの肩に手を置く。


「ガシュも、あの龍の話はするな」


ガシュはきゅっと唇を結んだ。


それから真剣な顔で頷く。


「うん」


小さな胸に、秘密がひとつ宿る。


三人はそのまま、族長の家へと向かった。


広場の奥にある、ひときわ大きな丸い石造りの家。


厚い木の扉を開くと、族長バーナードはすでに立ち上がっていた。


その表情には、明らかな焦りと不安が浮かんでいる。


「エルナードさん、どうもすみませんでした。チャモルの奴、勝手に着いて行ったようで」


そう言うと、深々と頭を下げた。


エルナードは軽く首を振る。


「まあ、大丈夫でしたから」


そして、少しだけ言葉を区切る。


「ただ……どデカいゴモヒが出ました」


その瞬間――


部屋の空気が凍りついた。


族長の目が大きく見開かれる。


「なんと……!」


思わず声が漏れる。


彼は腕を組み、低く唸った。


「問題は……何故この地にモンスターが出るのかですな」


深い皺が額に刻まれる。


エルナードは落ち着いた声で答えた。


「原因までは流石に分かりませんね」


本当の理由に、心当たりはある。


魔王の封印。


だが――


まだ確証はない。


ここで断言するには、材料が足りなかった。


その時、ソフィアが一歩前へ出た。


「ゴモヒはエルナードさんが倒してくださいましたけど……」


少しだけ声が揺れる。


「祭壇が壊れてしまいました。明日から祈りはどうしましょうか」


その言葉には、責任と不安が滲んでいた。


族長はゆっくりと目を閉じる。


そして重く息を吐いた。


「うーむ……祭壇が壊れたか」


しばらく沈黙が落ちる。


「しかし、あそこ以外に祈る所が無いな」


しばし考え込み、やがて静かに言った。


「しばらく考えるから、明日まで待ちなさい」


ソフィアは俯いたまま、小さく答える。


「あ、はい」


その横顔は、どこか頼りなく見えた。


エルナードは一歩踏み出す。


「かなりボコボコに壊れてますよ」


少し肩をすくめながら言う。


「祈りに場所って関係あるんでしょうか?」


族長はゆっくりと目を開いた。


その視線には迷いがあった。


「そうですな……」


白い髭を撫でながら、ゆっくり言葉を探す。


「あそこが一番だとは思いますが……」


一拍の沈黙。


「しばし考えますので、今日はゆっくり休んでください」


信仰と現実の狭間で揺れている。


そんな迷いが、はっきりと滲んでいた。


エルナードは静かに一礼する。


「わかりました」


三人はそのまま部屋を出た。


廊下の先には、夕暮れの光が差し込んでいる。


白い壁が橙色に染まり、静かな影が床に伸びていた。


ソフィアは何も言わない。


ただ――


そっと拳を握りしめている。


その小さな仕草を、エルナードは横目で見た。


(祈りは、場所じゃない)


本当は、そう言ってやりたかった。


だが――


それを今、口にするべきではない。


信仰は、人の心を支える柱だ。


それを外から壊すことは、簡単ではない。


夕暮れの里は静かだった。


けれどその静けさの奥で、


確実に――


不安の種が芽吹き始めていた。


客間へ戻る途中、夕暮れの光が石畳をやわらかく染めていた。

白い丸屋根の家々の間を抜ける風は、どこか冷たく、里全体に落ち着かない気配が漂っている。


その中で、ガシュがそっとエルナードの服の裾を掴んだ。


「エル兄ちゃん、これからどうするの?」


無邪気な声だったが、その問いはまっすぐ核心を突いていた。


エルナードは一度足を止め、小さく息を吐く。


「どうすっかな」


空を見上げる。

夕焼けはすでに薄れ、藍色の空に星が一つ二つと浮かび始めていた。


「とりあえず部屋戻ろう。落ち着きたい」


ソフィアは静かに頷き、三人は客間へ向かった。


やがてソフィアと別れ、エルナードとガシュの二人は部屋へ入る。

戸を閉めると、外のざわめきは少し遠くなった。


部屋の中は静かだ。

窓から入り込む夕暮れの残り光が、淡い影を床に落としている。


エルナードは深くため息をつき、ベッドに腰を下ろした。


「はぁ……」


額を軽く押さえながら呟く。


「聖龍の言う通りにするならば、ソフィアさんを連れて行かなダメなんだろうけど……」


視線を天井へ向ける。


木の梁が静かに影を落としていた。


「連れ出せるかも問題だよな」


ガシュはベッドの端に腰掛け、足をぶらぶらさせながらぽつりと言う。


「チャモルのお兄ちゃんに、ものすごーく怒られそうだね」


エルナードは思わず苦笑した。


「確かに」


チャモルの怒った顔が頭に浮かぶ。


あの様子では、簡単に納得するとは思えない。


そのとき――


コンコン、と小さなノックの音が響いた。


控えめで、遠慮がちな音だった。


エルナードが顔を上げる。


「はい」


扉を開けると、そこにはソフィアが立っていた。


淡い夜の光を背にして、静かに立っている。


その表情は、どこか月明かりのように静かだった。


「少し、お話したくて」


エルナードはすぐに頷いた。


「ああ、いいよ」


三人は部屋に入り、それぞれベッドへ腰を下ろした。


エルナードとソフィアは並んで座り、

ガシュは向かいのベッドにちょこんと腰掛ける。


しばらく、沈黙が流れた。


窓の外では、夜風が木々を揺らしている。


やがて、ソフィアが静かに口を開いた。


「双龍のこと……」


少しだけ迷いながら言葉を続ける。


「私、破邪の力に心当たりがあるんです」


エルナードは身を少し前へ傾け、やわらかく促した。


「破邪の力に?」


ソフィアは頷く。


「はい」


指先をぎゅっと握りながら話し始めた。


「怪我をした鳩に、“元気になりますように”って抱きしめて祈ったら……怪我が治ったとか、たまにあるんです」


その言葉に、ガシュの目がぱっと大きくなる。


「凄ーい!」


素直な驚きの声だった。


ソフィアは少し照れたように笑う。


エルナードは顎に手を当て、静かに考え込んだ。


「破邪の力というか……」


少しだけ頷く。


「癒しの力だな」


ソフィアは続ける。


「双龍の言う破邪の力って、それしか思い当たらなくて」


エルナードはゆっくりと言った。


「聖なる力であることは確かだ」


視線が少し鋭くなる。


「魔法に治癒の魔法は無いからな」


ソフィアは目を瞬かせた。


「そうなんですか?」


窓の外では、夜の星が静かに瞬いている。


世界のどこかで、運命の歯車がゆっくりと回り始めていた。


ソフィアはしばらく考え込むように視線を落とし、指先を膝の上でそっと組んだ。

窓から差し込む夜の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。


やがて、小さく息をつきながら静かに口を開いた。


「双龍は……エルナードさんに力を貸せと言ってましたよね?」


その言葉は慎重だった。


「魔王を倒したいならって。何のことなんですか?」


部屋の空気が少しだけ重くなる。


エルナードは頬をぽりぽりとかき、困ったように笑った。


「なんて言ったらいいかな……」


その仕草は、いつもの落ち着いた彼とは少し違って見えた。


ソフィアは慌てて首を振る。


「ごめんなさい、言い難いこと聞いちゃったかな?」


「いや」


エルナードはゆっくり首を横に振る。


「言いにくいというか……」


少しだけ苦笑する。


「言って信じてもらえるかなと」


その言葉が落ちた――その瞬間だった。


“ドンッ!”


乱暴なノックが部屋に響いた。


それはノックというより、ほとんど扉を叩きつけるような音だった。


次の瞬間。


“バーン!”


扉が勢いよく開かれた。


冷たい夜風が部屋の中へ吹き込む。


入口に立っていたのは――


怒りに顔を歪めたチャモルだった。


肩を大きく上下させ、息を荒げている。


目は真っ赤で、怒りに燃えていた。


「ソフィアを部屋に連れ込むとは!どういう――」


怒鳴り声が部屋を震わせる。


ソフィアは驚いて立ち上がった。


「チャモル、違うの」


慌てて手を伸ばす。


だが、チャモルは聞く耳を持たなかった。


一歩で距離を詰めると、彼女の腕を強く掴む。


「きゃあ!」


ソフィアの体が引き寄せられる。


「やめてよ!」


ソフィアは必死に振りほどこうとする。


「痛い、離して!」


しかし力が違う。


チャモルの腕はびくともしない。


怒りで顔を歪めたまま、吐き捨てるように言った。


「ソフィアも、よそ者に何媚び売ってんだよ」


その言葉が落ちた瞬間――


部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


エルナードはゆっくりと立ち上がった。

その動きは静かだったが、迷いはなかった。


数歩でチャモルの前へ出ると、彼の腕をすっと掴む。


速く、そして正確な動きだった。


ぐっと力を込める。


チャモルの腕が止まる。


ソフィアを掴んでいた手が、自然とほどけた。


「女性に乱暴はダメだよね」


エルナードの声は穏やかだった。


だが――

その目はまったく笑っていない。


チャモルは顔を歪め、腕を振りほどこうとする。


「離せ!」


力を込める。


しかし――


動かない。


エルナードの握力は岩のようだった。


びくともしない。


解放されたソフィアは、思わず腕をさすった。


そこへガシュが駆け寄る。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


「う、うん……」


まだ驚きが残る声だった。


チャモルは歯を食いしばる。


「とにかくソフィア、こいつから離れろ!」


怒鳴るように言う。


ソフィアは、ゆっくりエルナードを見た。


その瞳は揺れている。


迷いと、申し訳なさと、戸惑いが混ざっていた。


「エルナードさん……ごめんなさいね」


悲しげな微笑みを残す。


そして静かに踵を返し、部屋を出ていった。


チャモルもエルナードを睨みつけたまま後を追う。


ドン、と扉が閉まる。


部屋に、静寂が落ちた。


ガシュが小さな声で言う。


「エル兄ちゃん……」


エルナードはゆっくり息を吐いた。


「……難しいな」


ぽつりと呟く。


ガシュは珍しく不安そうな顔でエルナードを見上げた。


「チャモルのお兄ちゃんはなんであんなに怒ってるの?」


少し間を置いて続ける。


「ガシュたち嫌われてるの?」


その声には戸惑いが混ざっていた。


エルナードはベッドの縁に腰を掛ける。


しばらく考えてから、ゆっくり答えた。


「あのお兄ちゃんはな」


少し遠くを見るような目になる。


「ソフィアさんが好きなんだよ」


ガシュは首を傾げる。


「すき?」


「そう」


エルナードは苦笑した。


「それでさ、ソフィアさんが僕に話しかけるだろ?」


肩をすくめる。


「だから……嫉妬ってやつだな」


「しっと?」


ガシュはさらに首を傾げる。


エルナードは言葉を探すように視線を泳がせた。


「う、うーん……」


少し困った顔で説明する。


「自分の大事な人が、誰か他の人と仲良くしてるとさ」


胸のあたりを軽く叩く。


「ここがモヤモヤして落ち着かなくなるんだ」


「怒りたくないのに怒っちゃうみたいな、そんな感じかな」


ガシュはしばらく考え込んだ。


それから小さく呟く。


「ふーん……なんか難しいね」


エルナードは苦笑する。


「難しいんだよ」


肩をすくめる。


「大人でもな」


しばらく沈黙が流れる。


やがてガシュがぽつりと言った。


「ガシュ疲れた」


エルナードは優しく頭を撫でる。


「朝も早かったからな」


柔らかい声だった。


「少し休むといい。僕も少し横になるよ」


二人はそれぞれのベッドに身を沈めた。


窓の外では夜風が家々の隙間を通り抜け、

小さく笛のような音を立てている。


里は静まり返っていた。


白い石の家々の間に、静かな夜が広がっている。


どれくらい時間が経ったのだろう。


エルナードはふと目を覚ました。


胸の奥に残る言葉。


――翠紅の巫女が必要だ。


双龍の声。


あの圧倒的な存在感。


エルナードはゆっくり体を起こした。


外はすっかり暗くなっている。


窓の外には夜空が広がり、

月が雲の切れ間から顔を出していた。


淡い月光が、白い石の家々を静かに照らしている。


横を見る。


ガシュはスースーと規則正しい寝息を立てていた。


幼い寝顔。


今日もよく戦った。


エルナードは起こさないよう静かに立ち上がる。


扉をそっと開けた。


客間を出て、広場へ歩く。


夜の里は静かだった。


家々の窓からは柔らかな灯りが漏れている。


どこかの家からは、食器の触れ合う小さな音。


誰かの笑い声が、遠くでかすかに聞こえる。


平穏な里の夜。


だが――


エルナードの胸の奥では、


新しい運命が、静かに動き始めていた。


そのときだった。


里の裏手――森へと続く細い小道へ、ふたつの影が走っていくのが見えた。


月明かりをかすめる白い衣と引っ張るように前を行く影。


ふわりと揺れるその布の動きが、夜の闇の中でひどく目立つ。


エルナードは思わず目を細めた。


「今の……ソフィアさん?と誰だろう?」


胸の奥がざわつく。


あの歩き方。

あの細い背中。


間違いない。


エルナードは躊躇なく足を踏み出した。


(こんな時間に森は危険すぎるよな)


昼間の戦いが脳裏によぎる。


巨大なゴモヒ。

砕けた祭壇。


もうこの森は、以前のような安全な場所ではない。


エルナードは足音を殺し、影の消えた方へと駆け出した。


夜の森は、昼とはまったく違う顔をしている。


風が枝を揺らし、

葉が擦れ合う音が暗闇の中でささやく。


闇は深く、

月光がまだらに地面を照らしている。


その奥へ――


ソフィアの影は消えていった。


エルナードは剣の柄に手を添える。


守ると決めた。


ならば――


今も、だ。


一方で。


ソフィアはチャモルに腕を引っ張られて森の奥に連れてこられた。


白い衣が月明かりの中で揺れる。


「チャモル、離して!」


チャモルは焦っていた。


今まで里に外から人が来ることじたいが珍しいことだった。


だからソフィアが他の男に取られるなど微塵も考えていなかった。


しかし、今まさによそから来た得体の知らない男に危機感を抱いていたのだ。


不意にチャモルの足が止まった。


「きゃ!」


ソフィアはチャモルの手で木の幹に肩を押し付けられた。


ソフィアの目が恐怖に怯える。


チャモルが吐き捨てるように言い放った。


「里にモンスターが出たのはお前の祈りが足りてない証拠だろ!」


ソフィアの心が凍りついたように固まる。


頬を伝う涙が、冷たい夜風にさらわれていく。


胸が痛い。


「お前は俺だけ見てればいいんだよ」


ソフィアの目が見開かれた。


「や、辞めて」


呼吸が乱れ、視界が滲む。


涙が止まらない。


そのときだった。


チャモルの体が乱暴にソフィアから引き剥がされて地面に投げ出された。


そこに立っていたのはエルナードだった。


月を背負うその姿。


静かで、頼もしく、


夢で自分に手を伸ばしてくれたあの勇者の姿だった。


ソフィアの喉から、小さな声が漏れる。


「あ……」


エルナードは深く息を吐いた。


チャモルは立ち上がりエルナードを睨みつけた。


だが直ぐに後ずさる。


エルナードの瞳が凍るような冷たく鋭く光っていたからだった。


チャモルはその場から逃げるように走り去って行った。


振り返る。


「大丈夫か?」


瞳は、優しかった。


「はい……」


ソフィアが答えた瞬間。


張り詰めていた心の糸が切れた。


ソフィアは思わずエルナードの胸へ飛び込んだ。


「……っ」


小さな肩が震える。


声を殺そうとしても、涙は止まらない。


エルナードは一瞬戸惑った。


だがすぐに周囲を警戒しながら、そっとその肩を抱く。


温もりが伝わる。


ソフィアは嗚咽混じりに言った。


「祈りが足りないから……モンスターが里に出たんだって……言われちゃった……」


声が震える。


エルナードは静かに答える。


「辛いよな」


その声はとても穏やかだった。


「一人で世界を背負わされるなんて」


その言葉に、ソフィアはさらに泣き崩れる。


「知らない人達のことを祈るのって……」


言葉が詰まる。


「よく分からないんだ」


涙が頬を伝う。


「祭壇に向かって毎日毎日……」


嗚咽が混じる。


「それに……」


胸の奥に溜め込んでいた想いが溢れる。


「世界が本当に平和になってるのかも分からないんだもん……」


それは――


初めて吐き出した本音だった。


誰にも言えなかった言葉。


巫女として生きる中で、


ずっと心の奥に押し込めていた想いだった。


夜の森は静かだった。


月光が木々の間から差し込み、


二人の影を長く地面に落としている。


エルナードは何も言わず、


ただ静かにソフィアの肩を抱いていた。


彼女の涙が止まるまで。


エルナードは、肩の震えが少しずつ落ち着いてきたソフィアを見つめながら、静かに口を開いた。


「ソフィアさんは――お祈り、辞めたい?」


その問いは、決して責めるものではなかった。

どこまでも優しく、まるで逃げ道をそっと差し出すような響きだった。


ソフィアはゆっくり顔を上げる。


涙で濡れた瞳。

月明かりを受けて、その瞳が淡く光っていた。


唇が震える。


そして――


小さく、けれど確かに言った。


「……やめたい」


その言葉が、夜の森に落ちる。


彼女は続けた。


震える声で。


「エルナードさん……お願い」


胸元でぎゅっと手を握りしめる。


「私を連れて行って」


月明かりが二人を静かに照らしていた。


森はしんと静まり返っている。

さっきまで聞こえていた風の音さえ、どこか遠くへ消えたようだった。


エルナードはゆっくり問い返す。


「里を出たい?」


ソフィアは迷わず答えた。


「出たいです」


その声には、もう迷いがなかった。


祈るだけの巫女ではなく――


自分の意思で未来を選ぼうとする、一人の人間の言葉だった。


エルナードはほんの少し目を伏せる。


考えるように、息を吐いた。


「僕はかまわないんだが……」


月光が彼の横顔を照らす。


「族長達に何て言うかだな」


現実が、そこに立ちはだかる。


里の掟。

巫女の役目。

人々の信仰。


簡単に越えられる壁ではない。


だが――


それでも。


エルナードの腕は、まだソフィアを支えていた。


彼はもう、心の中では答えを出している。


守ると。


そして――


共に行くと。


夜風が、二人の間をすり抜けた。


エルナードはそっと言った。


「里に戻ろ」


その声は静かだった。


ソフィアは涙の跡を袖で拭う。


そして小さく頷いた。


「はい」


二人は並んで森を歩き始めた。


夜は終わりかけている。


東の空が、わずかに白み始めていた。

暗い森の向こうで、鳥たちがぽつりぽつりと目覚め始める。


枝の上で羽音が響く。


長い夜が、静かに終わろうとしていた。


やがて森を抜け、里の入口が見えてくる。


その頃には、空は淡い藍色へと変わっていた。


白い丸屋根の家々が、朝の気配を受けてぼんやりと浮かび上がっている。


そして――


客間の前に、小さな影が立っていた。


ガシュだった。


心配そうに両手を握りしめ、じっと入口の方を見つめている。


二人の姿を見つけた瞬間、ぱっと顔を上げた。


「大丈夫だった?」


駆け寄ってくる。


エルナードはしゃがみ込み、ガシュと目線を合わせた。


そして、静かに言った。


「ごめんな、ガシュ」


その言葉には――


色々な意味が込められていた。


夜中にいなくなったこと。


危険な森へ行ったこと。


そしてきっと、これから始まる旅のことも。


朝の光が、三人の影を長く石畳に伸ばしていた。


そのとき――


静まりかけていた広場に、怒号が響いた。


「またキサマはソフィアを!」


荒い足音とともに、チャモルが駆けてくる。

顔は怒りで紅潮し、肩で息をしている。


その騒ぎに、周囲の家々の戸が開き始めた。

眠そうな顔の村人たちが次々と顔を出す。


やがて族長バーナードも、家の扉を押し開けて姿を現した。


「何事だ? チャモル」


低く重い声。


しかしチャモルは止まらない。


「族長! よそ者はもう追い出しましょうよ!」


エルナードを指差す。


「これ以上ソフィアを任せられません!」


広場の空気がぴんと張り詰めた。


村人たちがざわめく。


その時だった。


ソフィアが――


一歩前へ出た。


そして、これまで聞いたことのないほどはっきりとした声で言った。


「私、もうお祈りしない」


静まり返る広場。


風さえ止まったようだった。


ソフィアは続ける。


「エルナードさんに着いて行くから」


その言葉が落ちた瞬間、

空気が凍りついた。


族長の顔が強張る。


「何を言うか、ソフィア!」


怒りと焦りが混じった声だった。


「お前が祈りを辞めたら里はどうなる?」


拳を握りしめる。


「モンスターにやられてしまうぞ!」


ソフィアの肩は震えていた。


だが――


目は逸らさない。


まっすぐ族長を見て言った。


「私が祈ったって同じでしょ?」


その一言が、広場の空気を鋭く切り裂いた。


ざわめきが広がる。


エルナードは一歩前に出た。


「ゴモヒは縄張りを変える習性があります」


落ち着いた口調だった。


まるで事実を説明するだけのように。


「今まではこの地がゴモヒの縄張りから外れていただけだったのでしょう」


ゆっくり言葉を続ける。


「それが今回、この辺りが縄張りになってしまった」


村人たちがざわつく。


不安が広がる。


エルナードは静かに言った。


「だから祈りがあろうとなかろうと、これからゴモヒは頻繁に現れるでしょう」


族長の目が怒りに燃えた。


「ソフィアがちゃんと祈れば!」


声が広場に響く。


「聖龍の加護でこの地は守られるんだ!」


拳を握り締める。


「ソフィア、今から祭壇に向かいなさい!」


だが――


ソフィアは揺れない。


エルナードは一瞬目を伏せた。


そして彼女を見る。


「ソフィア」


静かな声。


「僕らと行こう」


その言葉には迷いがなかった。


確信だけがあった。


ソフィアは――


迷わなかった。


「はい、行きます」


その瞬間。


彼女は巫女ではなく、


一人の人間として立っていた。


エルナードは振り返る。


「ガシュ、行くぞ」


ガシュは元気よく答える。


「はーい!」


三人は里の出口へ向かって歩き出した。


だが――


鋭い金属音が響く。


チャモルだった。


剣を抜き、エルナードの前に立ち塞がる。


「ソフィアは渡さないぞ」


夜明けの光が刃に反射する。


冷たい光。


だが――


エルナードは剣を抜かなかった。


そのまま横を通り過ぎようとする。


チャモルが怒鳴る。


「おい! 無視するな!」


その瞬間。


エルナードの身体が流れるように動いた。


“シュン”


空気が切り裂かれる音。


一閃。


居合抜き。


チャモルの剣が弾き飛ばされた。


刃が宙を舞う。


カラン――


乾いた音を立てて地面に落ちた。


チャモルは呆然と立ち尽くす。


エルナードは何事もなかったかのように剣を鞘へ戻した。


「さ、行こ」


まるで散歩にでも出るような声だった。


ソフィアは一瞬だけ振り返る。


族長。


白い家々。


祭壇へ続く森の道。


すべてが、そこにあった。


そして――


歩き出した。


三人は里の石段を下りていく。


そのとき、朝日が山の向こうから昇った。


柔らかな光が三人の背中を照らす。


新しい旅の――


はじまりだった。


里を出て、しばらく歩いた。


森へと続く石段を下り、細い山道へ入る。

朝日が木々の葉を透かし、地面にまだらな光を落としていた。


湿った土の匂い。

枝の間を抜ける風。

どこか遠くで小鳥が鳴いている。


ガシュがくるりと振り返った。


「追ってこないね」


階段の上を見上げる。


だがそこには、もう誰の姿もなかった。

里の白い家々も、木々の向こうに隠れて見えない。


エルナードは目を細める。


「意外だな」


ぽつりと呟く。


チャモルなら血相を変えて追ってきてもおかしくない。

族長も引き止めに来ると思っていた。


だが、誰も来ない。


その沈黙が、かえって不思議だった。


ソフィアは少し俯きながら言った。


「なんか……すいませんでした」


その声には、里を捨てた後ろめたさが滲んでいた。


エルナードは、ふっと柔らかく微笑む。


「かまわないさ」


軽く肩をすくめる。


「むしろ着いてきてくれてありがとう」


そして少し首を傾げた。


「それより、何も持たずに出てきちゃったけど大丈夫か?」


ソフィアは森の奥へ続く道を見つめたまま答える。


「大丈夫です」


少し間を置いて続けた。


「部屋にたいして思い入れのある物なんて無いんです」


その言葉は軽いようで――

どこか寂しさを含んでいた。


ガシュが元気よく声を上げる。


「エル兄ちゃん、どこに向かう?」


エルナードは空を見上げる。


木々の隙間から太陽の位置を確かめた。


「とりあえず街道まで出たら考えよう」


ガシュは元気よく返事をする。


「はーい」


三人は森の細道を進んだ。


鳥のさえずり。

遠くで水の流れる音。

朝の森は、やわらかく目覚め始めている。


しばらく歩いたあと、ソフィアがそっと口を開いた。


「エルナードさんたちは……世界を巡ってるんでしたっけ?」


「ああ」


エルナードは頷いた。


そして、少し真面目な表情になる。


「ちゃんと説明しないとな」


歩きながら続ける。


「双龍が僕のことを“時を越えし者”って言ってたろ」


ソフィアは頷く。


「うん、覚えてます」


森の光が彼女の横顔を照らす。


エルナードは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。


「信じられないかもだけど」


足音だけが静かに響く。


「僕は現代の人間じゃない」


森の奥で風が揺れる。


「1000年前に魔王と闘い、封印したんだ」


ソフィアは小さく息を飲んだ。


だが――

何も言わない。


ただ静かに聞いている。


エルナードは続けた。


「僕は1000年の時を渡って、現代に蘇った」


遠くで鳥が羽ばたく。


「今度こそ魔王を討つために」


朝風が三人の髪を揺らした。


「まだ目覚めて日が浅い」


エルナードは少し苦笑する。


「だから1000年後の世界を知るために旅を始めたのさ」


ソフィアは静かに尋ねる。


「双龍が“魔王を倒したいなら”って言ってたのは、その事なんですね?」


「そうだ」


エルナードは頷く。


そして少し困ったように笑った。


「信じてくれるの? こんな与太話を」


そのとき――


ソフィアが立ち止まった。


エルナードも足を止める。


森の風が二人の間を通り抜けた。


「でも、本当なんですよね?」


ソフィアの瞳は真っ直ぐだった。


エルナードは苦笑する。


「本当だけど」


その瞬間。


ソフィアは、ふふっと小さく笑った。


朝の光の中、その笑顔はどこか透明だった。


「何でか分からないけれど……」


少し首を傾げる。


「嘘じゃないってわかるんです」


エルナードは少し驚いたように目を見開く。


「わかる?」


ソフィアは頷いた。


「はい」


そして静かに言った。


「エルナードさん、嘘をつく人の目じゃないから」


森の奥へと続く道は、まだ長かった。


木々の枝は空を覆い、細い小道には朝露を含んだ苔が柔らかく広がっている。

足元には落ち葉が積もり、踏むたびに小さな音を立てた。


それでも――


三人の歩幅は、もう自然と揃っていた。


誰かが急ぐでもなく、誰かが遅れるでもなく。

同じ速さで、同じ方向へ進んでいる。


そのときだった。


不意にガシュがぴたりと足を止めた。


そしてゆっくり振り返る。


「お兄ちゃん?」


その声には、いつもの無邪気さがなかった。


エルナードも歩みを止める。


振り向きはしない。


ただ視線だけを、後方へ向けた。


「わかってるさ」


低く、静かな声。


ソフィアが不安そうに二人を見る。


「どうしたんです?」


エルナードは短く答えた。


「里の者だ」


その一言で、ソフィアの肩がびくりと揺れた。


「え!」


エルナードは森の茂みに向かって言い放つ。


「出てきなよ。バレてんぞ」


しばしの沈黙。


森の空気が張り詰める。


やがて――


草むらががさりと揺れた。


男が姿を現す。


チャモルだった。


悔しさと焦りを滲ませた顔。


「くそ!感がいい奴だ」


吐き捨てるように言う。


「チャモル……」


チャモルはまっすぐソフィアを見つめる。


「ソフィアを連れていこうなんて、絶対にダメだ」


一歩、また一歩と近づく。


「な、ソフィア」


声の調子が変わる。


「もう祈らなくていいからさ」


その言葉は、優しさのようでいて――

どこか自分勝手だった。


ソフィアは首を横に振る。


「嫌」


はっきりと。


「私は帰らないわ」


きっぱりと言い切った。


チャモルの顔が歪む。


「そんなこと言わないでよ」


さらに近づき――


次の瞬間。


チャモルはソフィアに抱きついた。


「ソフィア!」


「きゃ!」


ソフィアの身体が引き寄せられる。


「嫌!辞めて!」


悲鳴が森に響く。


エルナードはすぐに動いた。


無駄のない動き。


強引すぎない、しかし確実な力でチャモルの腕を掴む。


そして引き剥がす。


ソフィアは震えながらエルナードの腕にしがみついた。


チャモルは歯を食いしばる。


「くそ!なんだってんだ」


エルナードは冷静に言う。


「本人嫌がってるの、わかろうよ」


チャモルの目に怒りが灯る。


再び剣を抜く。


構える。


「力ずくでもソフィアを連れて帰る!」


森の空気が一気に張り詰めた。


だが――


エルナードは小さくため息をつく。


そして。


剣を抜かなかった。


そのまま、ゆっくりチャモルに向かって歩み寄る。


それが逆に、チャモルの焦りを煽る。


「来るな!」


チャモルが剣を振り上げた。


振り下ろされる刃。


だが次の瞬間――


エルナードの足が閃いた。


鋭く、正確に。


チャモルの剣の柄を蹴り上げる。


ガキン!


金属音が響く。


剣は空中を舞い、


背後の地面へ突き刺さった。


チャモルは呆然と立ち尽くす。


エルナードは穏やかな声で言った。


「剣の使い方、ちゃんと学んだ方がいいぞ」


責めるでもなく。


見下すでもなく。


ただ事実を告げるように。


そしてソフィアの腰に手を回し、軽く引き寄せた。


「さあ、行こうか」


ソフィアは一瞬だけチャモルを見た。


それでも――


迷わず頷く。


「うん」


三人は背を向ける。


再び森の奥へと歩き出した。


チャモルは立ち尽くす。


拳を握りしめ、


唇を噛みしめながら。


追いかけることもできず。


止める言葉も出てこない。


ただ――


遠ざかっていく背中を見つめていた。


森の木々が、静かにざわめいた。


やがて森の木々が途切れる。


視界が一気に開けた。


夕暮れの街道が、橙色の光に染まっている。


広い道。


遠くまで続く土の道。


背後の森は静まり返り、


まるで三人を見送るように影を落としていた。


ガシュが大きく息を吐く。


「はあ」


肩の力が抜ける。


「森終わったね」


その声には、はっきりとした安堵が滲んでいた。


エルナードはふと足を止め、背後の森を振り返った。

夕暮れの影に沈みかけた木々が、静かに連なっている。


先ほどまで三人が歩いていた小道は、もう見えない。

ただ深い緑の壁のように、森がそこにあるだけだった。


「そうだな……」


小さく呟く。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回のエピソードでは、ベレヌーの里を舞台に大きな転機が訪れました。


聖龍の加護に守られているはずの里に現れた異変。

祈りの場での戦い。

そして、翠焔と紅嶺――二柱の聖龍との邂逅。


エルナードにとっては、千年前の戦いと現在を結ぶ新たな手掛かりとなり、

ソフィアにとっては、自らの運命と向き合う出来事となりました。


特に今回の物語の中心にあったのは、ソフィアの選択です。


巫女として生きること。

里の人々の期待に応えること。

そして、自分自身の願い。


その間で揺れ続けてきた彼女が、初めて自分の本音を口にしました。


「祈りをやめたい」


その言葉は決して無責任なものではなく、

長い間胸の奥に閉じ込めてきた苦しみと迷いの表れだったのだと思います。


誰かのために生きることは尊いことです。

けれど、自分自身の人生を選ぶこともまた大切なこと。


ソフィアはようやく、一人の少女として未来を選ぶ決意をしました。


また、エルナードとソフィアの関係も少しずつ変化し始めています。


まだ互いを深く知っているわけではありません。

それでも危険な戦いの中で互いを守り、

不安や本音を打ち明けることで、

少しずつ信頼が芽生え始めています。


一方で、魔王の封印が解け始めているという双龍の言葉は、

これから訪れる大きな戦いの予兆でもあります。


千年前に何が起きたのか。

失われた百年の真実とは何なのか。

そして、聖龍がエルナードとソフィアに託した願いとは何なのか。


物語はここから新たな旅へと進んでいきます。


ベレヌーの里を離れた三人の前には、

まだ見ぬ世界と数多くの出会い、

そして避けることのできない運命が待っています。


次回からは、いよいよ本格的な旅の始まりです。


これからもエルナード、ソフィア、ガシュの三人を温かく見守っていただければ幸いです。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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