空白の100年と翠紅の巫女
世界の歴史は、九百年前から始まった。
そう記された書物を、誰も疑わなかった。
けれど、その歴史には空白がある。
語られなかった時代。
消された戦い。
忘れられた者たち。
千年前、魔王プリムナードとの戦いの果てに眠りについた青年、エルナード。
彼は長い時を越え、再びこの世界に目覚める。
傍らにいるのは、神人族の幼子ガシュ。
二人が降り立った地上は、エルナードの知る世界とは大きく姿を変えていた。
街は発展し、技術は進み、人々は新しい時代を生きている。
だが、その平穏の影で、失われた真実が静かに息づいていた。
翠の龍。
紅の龍。
世界に一人だけの巫女。
そして、夢の中で響いた魔王の笑い声。
千年の時を越えた旅は、まだ始まったばかり。
エルナードとガシュは、消された歴史の謎を追い、
聖龍の伝承が残るベレヌーの里へと向かう。
その先で待つ出会いが、
やがて世界の運命を大きく動かすことになるとも知らずに――。
白い光に包まれた。
視界が一瞬、やわらかな光で満たされる。
身体がふわりと浮いたような感覚。
重力が薄れ、足元の感覚が消える。
そして――
次の瞬間。
光の回廊を抜けた先に広がっていたのは、静かな草原だった。
やわらかな風が頬を撫でる。
足元には、背の低い草が一面に広がっていた。
その草原のあちこちには、崩れかけた石柱が立っている。
かつての建物の一部だったのだろう、半ば土に埋もれた石の壁も見える。
石の表面は長い年月に削られ、苔と草に覆われていた。
そこは――
何かがあった場所の名残を留める、遺跡だった。
周囲には低い木々がまばらに生えている。
遠くまで見渡しても、建物らしいものは見えない。
人の気配もない。
ただ、風だけが草を揺らしながら通り過ぎていく。
ざあ、と草が波のように揺れる。
静かな世界だった。
「……」
隣で、ガシュが目を丸くしていた。
エメラルドグリーンの瞳を大きく見開き、
きょろきょろと辺りを見回している。
初めて見る景色に、完全に目を奪われていた。
エルナードはその様子を見て、小さく笑う。
「地上は、初めてか?」
ガシュはすぐに頷いた。
「うん。来たこと、ないよ」
「そうか」
エルナードはゆっくりと草原を見渡す。
風の匂い。
土の匂い。
遠くの空の広がり。
どれも、どこか懐かしい。
だが同時に、わずかな違和感もあった。
千年前とは、どこか空気が違う気がする。
「僕も……1000年ぶりだ」
そう呟く。
少しだけ苦笑して続けた。
「あまり頼りにはなれないかもしれないな」
ガシュは小さく頷きながら、何かを思い出したように言った。
「あ、そうだ」
エルナードを見る。
「東に、街道があるんだったよね?」
「そのはずだ」
エルナードは空を仰いだ。
青い空が広がっている。
雲がゆっくり流れていた。
太陽の位置を確かめる。
しばらく見上げてから、視線を戻す。
「今は昼前か……」
そして指で方向を示した。
「なら、東はこっちだな」
そう言って、ゆっくりと歩き出す。
草を踏む音が、静かに響いた。
その後ろで、ガシュが不思議そうな顔をしていた。
首をこてんと傾げる。
「……東が、こっちって分かるの?」
エルナードは足を止めた。
そして地面を指さす。
「太陽と影の位置で、だいたい分かるんだよ」
足元に落ちている影を示す。
「午前中なら、影が向いてる方が西になる」
そして反対側を指す。
「だから、その逆側が東向きってことさ」
少し肩をすくめて笑う。
「……まあ、だいたいだけどな」
「へぇ……」
ガシュの瞳が、ぱっと輝いた。
新しいことを知った時の顔だった。
「エルナード様って、何でも知ってる!」
「何でも、ってわけじゃないけどな」
エルナードは苦笑した。
そして、ふと思い出したように言う。
「あ、そうだガシュ」
ガシュが顔を上げる。
「僕のこと、様は付けないでほしいな」
「え? なんで?」
「道中、他の人間に会うこともあるだろ?」
草原を見渡しながら続ける。
「その時に“様”で呼ばれると……なんとなく、な」
ガシュは少し考え込んだ。
そして首を傾げる。
「ふーん」
少し悩むように唇を動かす。
「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」
エルナードは少しだけ空を見上げた。
昔の記憶を辿るように。
「そうだな……」
小さく呟く。
「昔は、“エル”って呼ばれてたな」
ガシュがその言葉を繰り返す。
「エル……」
一拍、間があった。
そして――
ガシュは、にっこりと笑った。
「エルお兄ちゃん!」
エルナードは思わず吹き出した。
「ははは……お兄ちゃんか」
少し肩を揺らして笑う。
だが、嫌そうではない。
むしろどこか嬉しそうだった。
「いいよ。それで」
そう言って歩き出す。
ガシュも、その隣に並んだ。
風が草原を渡る。
遠くの空は広く、青かった。
こうして――
1000年ぶりの地上で、
二人の旅は静かに、しかし確かに始まった。
遺跡を背に、東へ。
崩れた石柱と静かな草原が、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていく。
まだ見ぬ世界と、出会うべき人々のもとへ向かって――
二人は並んで歩き続けていた。
草原の風が足元の草を揺らし、ざわりと波のように広がっていく。
空は高く、青く澄んでいる。
ときおり鳥が遠くを横切り、影が地面をかすめた。
そんな静かな道を進んでいると、不意に――
ガシュの足が小石に引っかかった。
「わあっ!」
短い悲鳴と同時に、身体が前へつんのめる。
小さな体が大きく揺れ、そのまま地面へ倒れ込みそうになった。
だが、その瞬間。
「おっと!」
エルナードの腕がすっと伸びた。
反射のような動きだった。
ガシュの身体をしっかりと支える。
小さな体が胸元に軽くぶつかり、
かろうじて踏みとどまった。
草がささやくように揺れる。
「……大丈夫か?」
エルナードが静かに尋ねる。
ガシュは少し照れたように笑った。
「えへへ……」
頭をかきながら、照れくさそうに立ち直る。
エルナードはその様子を見て、穏やかに言った。
「急ぐ旅じゃない」
ゆっくりと続ける。
「疲れたら、ちゃんと言いなよ」
ガシュは元気よく頷いた。
「うん!」
その声に、エルナードの口元が思わず緩む。
二人は再び歩き出した。
しばらく進むと、足元の感触が変わってきた。
柔らかな草の地面から、少し硬い土へ。
踏み固められた地面が、だんだんと続いていく。
そして――
一本の道が姿を現した。
幅の広い土の道。
ところどころに、車輪の跡が残っている。
人の足跡も重なり、何度も行き来された形跡があった。
道は左右へと伸びている。
どちらも同じように遠くへ続いており、
今は人影は見えない。
風だけが、その上を静かに通り抜けていく。
「……これが、街道か」
エルナードは立ち止まり、道の先を見つめた。
千年前にも、似た道を歩いたことがある。
だが、どこか雰囲気が違う。
時の流れが、そこにも残っている気がした。
「どっちに進むの?」
ガシュが隣から尋ねる。
その声には、不安と期待が少しずつ混ざっていた。
エルナードは腕を組んで、少し考える。
「どうすっかな……」
しばらく道を見つめたあと、肩をすくめた。
「とりあえず、昼飯にしよう」
ガシュの顔がぱっと明るくなる。
「ガシュも、お腹空いてる!」
「だろ?」
エルナードは小さく笑った。
「休みながら、考えような」
二人は街道の脇へ腰を下ろした。
草の上に座ると、風が頬をやさしく撫でる。
エルナードはソルから渡された魔法の箱を取り出した。
手のひらほどの小さな箱。
側面のボタンを押す。
カチリ、と軽い音が鳴る。
すると箱はゆっくりと元の大きさへ戻り、
静かに蓋が開いた。
中には、整然と旅の道具が収められている。
エルナードはそこから携帯食料を取り出した。
「今回は、簡単で悪いな」
そう言いながら、食料をガシュへ差し出す。
ガシュは嬉しそうに受け取った。
「ガシュ、これ好き!」
ビスケットのような形をしたエスタムを、両手で持つ。
大事そうに口へ運ぶ。
一口かじる。
表情がすぐに緩んだ。
エルナードも一つ手に取る。
そして一口。
「……確かに、うまいな」
思わず素直な感想が漏れる。
味は素朴だ。
だが、噛むほどに力が湧いてくるような、不思議な満足感があった。
旅人のための食料なのだろう。
二人の間を、街道を渡る風が静かに通り抜ける。
草が揺れる。
空は広い。
千年ぶりの地上の旅は――
こうして、ゆっくりと進み始めていた
簡単な昼食を終えると、エルナードはゆっくりと立ち上がった。
街道の脇に広がる草が、風に揺れてさざめいている。
乾いた土の道の上を、昼下がりの風が静かに通り過ぎていった。
遠くでは木々の葉が擦れ合い、さらさらと柔らかな音を立てている。
空は高く、澄み渡っていた。
流れる雲もまばらで、太陽は穏やかな光を大地に落としている。
旅を始めるには、悪くない昼下がりだった。
エルナードは軽く身体を伸ばし、肩を回す。
長く眠っていた身体も、少しずつ旅の感覚を思い出しているようだった。
そして、隣で立ち上がるガシュに目を向ける。
ふと、思いついたように問いかけた。
「なあ、ガシュ。左利きか?」
「……ひだりきき?」
ガシュは言葉の意味がよく分からないようで、首をこてんと傾げる。
エルナードは笑いながら説明する。
「フォークとか、スプーンは左手で使う?」
「あ、うん」
ガシュは迷いなく頷いた。
さっき食事をしていたときのことを思い出しているようだった。
その様子を見て、エルナードは満足そうに笑う。
「よっしゃ。じゃあ、左に進もう」
そう言って、街道の分かれ目を指し示す。
二つに分かれた道のうち、左へ伸びる街道へ視線を向けた。
道は緩やかに続き、遠くで小さく曲がっている。
その先は草原と木々に隠れて見えない。
ガシュは一瞬きょとんとした。
そして、にこにこと笑いながら尋ねる。
「そんなんで、いいの?」
エルナードは肩をすくめた。
「いいの、いいの」
朗らかな声だった。
「街道を進んでりゃ、そのうち街なり村なりに着くだろうさ」
どこか気楽な言い方だったが、
長い旅をしてきた者の実感も混ざっていた。
目的地は、まだ決まっていない。
だが――
歩き出さなければ、何も始まらない。
エルナードは一歩、左の道へ踏み出した。
乾いた土が、軽く靴の下で鳴る。
ガシュもすぐ隣に並んだ。
二人の影が、街道の上に長く伸びている。
こうして二人は、左の街道へと歩き始めた。
行き先も、出会う人々もまだ知らないまま。
それでも――
新しい旅は、確かに動き出していた
二人が街道を進んでいると、前方に一台の馬車が見えてきた。
街道の先に、小さな影のように見えるそれは、荷を積んだ商人の馬車のようだった。
だが――
どこか様子がおかしい。
次の瞬間、風に乗って音が届いてくる。
金属がぶつかり合う鋭い音。
荒々しい怒号。
そして空気を裂くような叫び声。
――戦いの音だ。
エルナードは即座に足を止めた。
目を細め、前方へ視線を凝らす。
風が草を揺らし、視界の邪魔をする。
だが、その隙間から戦場の様子が見えた。
馬車の周囲には、異形の影が蠢いている。
豚のように突き出た鼻。
小さく光る目。
そして、山羊のような身体。
二足で立ち、粗雑な石の斧を振り回している。
――ゴブリラ。
エルナードの表情がわずかに引き締まった。
数は十体ほど。
それを囲むようにして、五名の兵士が必死に応戦していた。
兵士たちは盾を構え、剣を振るう。
だが、盾にはすでにいくつもの傷が走っている。
呼吸も荒く、体勢も崩れかけていた。
明らかに数で押されている。
このままでは、長く持たない。
エルナードは迷わず剣を抜いた。
鞘から滑り出た刃が、陽光を受けて一瞬きらりと光る。
その光が、戦いの始まりを告げているようだった。
エルナードは横目でガシュを見る。
「ガシュ。行けそうか?」
ガシュは一瞬だけ息を呑んだ。
目の前の戦いの光景に、ほんのわずか躊躇いが浮かぶ。
だがすぐに、その瞳が引き締まる。
強く頷いた。
「……う、うん!」
「無理はするなよ」
それだけ言うと、エルナードは地面を蹴った。
身体が一気に前へ飛び出す。
草原の草をかき分け、風を切るように駆ける。
混戦の後方。
一体のゴブリラが仲間へ怒鳴りながら、指示を飛ばしていた。
他の個体よりも一回り大きい。
明らかに、指示役だった。
エルナードは草陰を利用しながら、一気に距離を詰める。
気配を殺し、音も立てずに接近する。
そして――
次の瞬間。
剣閃が走った。
鋭い一太刀。
ゴブリラの首が、あっけなく宙を舞った。
身体が崩れ落ちる。
指示役を失った瞬間――
ゴブリラたちに動揺が広がった。
怒号が悲鳴に変わる。
隊列が乱れ、動きがばらばらになる。
エルナードは振り返り、叫んだ。
「今です!」
その声が戦場に響く。
兵士たちは顔を見合わせた。
そして次の瞬間。
「行くぞ!」
一斉に攻勢へ転じた。
士気が戻り、剣と槍が次々と振るわれる。
その一方で――
ガシュも、決して遅れを取ってはいなかった。
長い槍をしっかりと握る。
自分の背丈よりもはるかに長い槍を、器用に操った。
突き出すのではなく――
足を払う。
槍の柄を滑らせ、ゴブリラの足に引っかける。
バランスを崩したゴブリラが、地面に倒れ込む。
起き上がろうとした、その瞬間。
ガシュは背中のボウガンを構えた。
カチッ、と小さな音。
自動装填装置が作動する。
矢が放たれた。
一直線に飛んだ矢は、正確にゴブリラの頭部を撃ち抜いた。
その場に崩れ落ちる。
エルナードはそれを横目で見て、思わず目を細めた。
「……なかなか、やるね」
戦いは一気に傾いた。
ゴブリラの数は、やがて三体まで減る。
形勢不利を悟ったのか、
残ったゴブリラたちは低い唸り声を上げながら、森の方へ散り散りに逃げ出した。
エルナードはそれ以上追わなかった。
剣を下ろし、周囲を見渡す。
戦いは終わった。
「ガシュ。大丈夫か?」
振り返って声をかける。
ガシュは少し息を切らしながらも、しっかり頷いた。
「うん。平気だよ」
戦いが終わると、兵士たちがこちらへ歩み寄ってきた。
顔には安堵の色が浮かんでいる。
「ありがとうございます!」
「助かりました!」
口々に礼を言いながら、何度も頭を下げた。
エルナードは軽く手を振る。
「いえ。怪我人はいませんか?」
兵士の一人が答える。
「お陰様で、大丈夫です」
別の兵士がガシュに目を向けた。
そして、にこりと笑う。
「坊やも、強いんだね。ありがとうな」
その言葉を聞いた瞬間。
ガシュの顔が赤くなった。
急に恥ずかしくなったのか、
エルナードの脚の後ろにぴたりと隠れる。
ぴたっとくっついて動かない。
エルナードは苦笑いした。
「ガシュ? 今さら人見知りか?」
その様子を見て、兵士たちは思わず笑い声を上げた。
ついさっきまでの緊張が、
嘘のようにほどけていった。
エルナードは剣を鞘に収めると、兵士たちの方へ向き直った。
戦いのあとで荒れた地面には、踏み荒らされた草が広がっている。
倒されたゴブリラの残骸を、風が静かに撫でていった。
遠くでは馬が不安げに鼻を鳴らし、馬車の車輪がきしむ音が小さく響いている。
エルナードは落ち着いた声で尋ねた。
「この辺りに、街や村ってありますか?」
兵士たちは互いに顔を見合わせたあと、一人が前に出る。
「大きな街なら……」
そう言って、街道の先を指差した。
兵士の指の先には、ゆるやかに続く土の道が遠くまで伸びている。
「このまま北に進むと、右手に分かれ道があります」
彼は続けた。
「そのまま北へ行けばリヴァティスの街、
右へ行けばアルセフィラの街です」
少し考えるように言葉を選びながら付け加える。
「距離的には、アルセフィラの方が近いですね」
「ありがとうございます」
エルナードは軽く頭を下げた。
兵士は胸に手を当て、丁寧に礼を返す。
「我々は南へ向かいますので……」
その言葉には、改めての感謝が込められていた。
「本当に、ありがとうございました」
兵士たちは深く頭を下げる。
やがてそれぞれ馬車に乗り込み、
御者が手綱を引いた。
馬車はゆっくりと動き出す。
車輪が土の道を軋ませながら、
やがて街道の向こうへと遠ざかっていった。
再び静けさが戻る。
草原には、夕方に近づいた風が吹き抜けていた。
エルナードはその場に膝をついた。
そして、ガシュと目線を合わせる。
まだ戦いの熱が残る草原の空気の中で、
風が草を揺らしている。
「ガシュ、強いな」
穏やかな声だった。
「正直……予想以上だよ」
そう言って、ガシュの頭をやさしく撫でる。
金色の髪が指の間でふわりと揺れた。
「えへへ」
ガシュは照れたように笑う。
そして少しだけ胸を張った。
エルナードは槍を軽く指差す。
「槍はな、前に突くだけじゃない」
自分の手で、ゆっくりと動きを示す。
地面すれすれから持ち上げるような動き。
「下から、すくい上げるように使うのもありだ」
さらに続ける。
「足元を狙ったり、体勢を崩したりな」
ガシュの瞳がぱっと輝いた。
「そっか!」
目をきらきらさせながら言う。
「今度、やってみる!」
「うん。焦らずでいい」
エルナードは立ち上がった。
草原の向こう、街道の先を見据える。
夕方の光が、道の上に長い影を落としていた。
「さあ、進もうか」
ガシュもすぐに立ち上がる。
「どっちの街に行くの?」
エルナードは少しだけ考えたあと、肩をすくめた。
「とりあえず……近い方だな」
ガシュはにっこり笑う。
二人は再び街道へ歩き出した。
遠くの空は、ゆっくりと夕方の色へ変わり始めていた。
しばらく北へ進むと、兵士の言っていた通り、街道が右手へと分かれていた。
土の道がゆるやかに二つに分かれ、右へ伸びる道は木々の間へと続いている。
夕方の光が斜めに差し込み、分かれ道の土を黄金色に染めていた。
エルナードは足を止め、その道を見つめる。
「……ここを右に行けば、アルセフィラの街か」
小さく呟く。
風が街道を通り抜け、草がさらさらと揺れた。
そのとき、ふと隣を見ると――
ガシュが目をこすっていた。
小さな手で何度も目元を拭いながら、ふらりと足取りが揺れている。
どうやら、相当眠いらしい。
「疲れたか?」
エルナードが声をかける。
ガシュは慌てて首を横に振った。
「つ、疲れてないよ!」
そう言いかけた――
次の瞬間。
大きな欠伸が口から漏れた。
「……あふぅ」
本人も驚いたように口を押さえる。
「……はは」
エルナードは思わず苦笑した。
「ほらほら」
優しい声で言う。
「今日はもう休もうな」
少し空を見上げて続けた。
「ヴァル=エデンから来てるんだ。無理はよくない」
二人は街道の脇へ移動した。
街道から少し外れた場所には、柔らかな草が広がっている。
近くには低い木もあり、夜風を少し防げそうだった。
エルナードは腰を下ろし、魔法のボックスを取り出す。
小さな箱のボタンを押す。
カチリ、と音が鳴り、箱が元の大きさへと戻った。
中から薪を取り出す。
慣れた手つきで火打ち石を打ち、焚き火を起こす。
火花が散り、小さな炎が生まれる。
やがて、ぱちぱちと音を立てながら火が育っていった。
その間も――
ガシュは今にも座り込んでしまいそうだった。
槍を杖代わりにして、なんとか立っている。
瞼はすでに半分閉じている。
「おいおい……」
エルナードは苦笑しながら急いで寝袋を取り出した。
地面に広げる。
そして小さな身体をそっと抱き上げた。
ガシュはすでに半分夢の中だった。
「もう……休みな」
優しく言う。
「……うん」
ガシュは小さく頷いた。
寝袋に横になる。
その瞬間。
すぐに、すー……すー……と規則正しい寝息が聞こえ始めた。
ほんの数秒だった。
「早いな……」
エルナードは小さく笑う。
その横に腰を下ろす。
焚き火の炎がゆらゆらと揺れていた。
火が消えないよう、静かに薪をくべる。
ぱちり、と火が弾ける。
揺れる炎の向こうで――
ガシュの寝顔は、驚くほど安らかだった。
長いまつ毛が影を落とし、胸が小さく上下している。
子供らしい、穏やかな寝顔だった。
エルナードは火を見つめながら、静かに思う。
(……成すべきこと、か)
ソルの言葉が、胸の奥で響く。
魔王を討つ。
それは変わらない目的だ。
だが――
エルナードはゆっくりと自分の手を見る。
(でも……今のままじゃ足りない)
剣を握る手に、わずかに力がこもる。
千年前と同じでは、きっと届かない。
(強くならなきゃな……)
小さく息を吐く。
焚き火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
空を見上げると、夜の帳がゆっくりと降りてきている。
空の端には、すでに最初の星が輝いていた。
静かな夜が、世界を包み込んでいく。
こうして――
旅の一日目は、静かに終わりを迎えた
空はまだ、淡く白み始めたばかりだった。
夜の名残を残した空の端が、ゆっくりと薄い青へと変わり始めている。
太陽はまだ地平線の向こうに隠れたままで、朝の冷たい空気が草原を静かに包み込んでいた。
草には夜露が残り、風が吹くたびに小さく震える。
遠くでは、目覚めたばかりの鳥が短く鳴き声を上げていた。
その静かな朝の中で――
エルナードは一人、剣を振るっていた。
一振り。
また一振り。
鋭く振り抜かれる剣が、空気を裂く。
シュッ――と乾いた音が規則正しく響き、剣筋は一切乱れない。
踏み込み、振り下ろす。
足の運びも、呼吸も、無駄がない。
素振りは、すでに何百回目か分からないほど続いていた。
やがてエルナードは動きを止める。
剣を軽く構えたまま、静かに目を閉じた。
――仮想の敵を思い描く。
そこに敵がいるかのように、身体が自然に動く。
前へ踏み込む。
鋭く斬る。
次の瞬間、身体をひねり、横一線に薙ぎ払う。
さらに一歩引き、間合いを取り直す。
連続する動きは滑らかで、途切れることがない。
まるで実際の戦場で戦っているかのようだった。
頬を伝った汗が、顎先からぽたりと落ちる。
だがエルナードは拭おうとしない。
ただ黙々と剣を振るい続ける。
その背中には、
「強くならなければならない」
という、静かな焦りが滲んでいた。
そのとき――
「……お兄ちゃん?」
眠たげな声が、背後から響いた。
「……!」
エルナードははっとして動きを止める。
振り返る。
そこには、寝袋から這い出したばかりのガシュが立っていた。
金色の髪が寝癖で少し跳ねている。
まだ半分眠そうな目をこすりながら、ふらふらとこちらへ歩いてきた。
「ガシュ!」
エルナードは少し慌てて言う。
「ごめん、起こしたか?」
ようやく腕で汗を拭いながら、ガシュを見る。
ガシュは首を振った。
そして突然、元気な声を出す。
「ガシュも……やる!」
「おっ」
その言葉に、エルナードは思わず笑みを浮かべた。
「よーし」
剣を軽く肩に乗せながら言う。
「じゃあ、毎朝一緒に稽古しようか」
「……!」
ガシュの表情が、ぱっと明るくなる。
だが次の瞬間、少し不安そうに眉を寄せた。
「でも……このままやったら、怪我しない?」
槍と剣。
本気でぶつかれば危ない。
その心配だった。
エルナードは落ち着いた声で答える。
「大丈夫」
剣を軽く持ち上げる。
「魔法で、刃を保護するさ」
そう言って、剣先にそっと手を当てた。
次の瞬間――
指先から淡い光が滲み出した。
柔らかな光が、ゆっくりと刃を包み込んでいく。
まるで水が流れるように、光は剣全体へ広がった。
エルナードはそのまま、自分の手に刃を当てる。
刃は触れている。
だが――
皮膚はまったく傷つかない。
「ほら。な?」
ガシュは目を大きく見開いた。
「わあ!」
驚きと感動が混ざった声が上がる。
「本当に切れない!」
エルナードは笑いながら頷く。
「ガシュの槍にも、ちゃんとやろうな」
「うん!」
ガシュは元気よく頷いた。
エルナードは槍にも同じ魔法をかける。
淡い光が槍の穂先を包み込み、やがて静かに落ち着いた。
朝の空気の中。
二人は向かい合う。
エルナードは軽く剣を構える。
ガシュも槍を握り直した。
そして――
こうして二人は並び、
新しい朝の稽古を始めた
朝の稽古を終えると、エルナードは火のそばへ戻り、静かに鍋をかけた。
夜の名残を少し残した空気はまだひんやりとしている。
焚き火の上に置かれた鍋の底を炎が舐め、ぱちぱちと薪が小さく爆ぜた。
やがて鍋の中の水が温まり始め、
湯気が細く立ち上る。
白い湯気は朝の空気の中でふわりと揺れ、
ゆっくりと空へ溶けていった。
エルナードは布袋からタオルを取り出し、
温まった湯にそっと浸す。
じゅわりと布が水を吸い込む。
それを両手で持ち上げ、きゅっと絞った。
温かい湯気が指先を包む。
「ガシュ。服脱ぎな。体、拭こう」
「うん」
ガシュは素直に頷いた。
そして上着に手をかける。
だが――
小さな指ではボタンがなかなか外せない。
ぎこちなく引っ張ったり、押したりして、
もたもたと格闘している。
その様子を見て、エルナードは思わず微笑んだ。
「ほら、ここ」
そう言って、そっと手を添える。
器用な指先でボタンを外してやる。
ガシュの上着がするりと脱げた。
エルナードは温かいタオルで背中を拭いてやる。
肩から背中へ。
腕も、丁寧に。
朝の冷えた空気の中で、温かい布が心地よかったのか、
ガシュは少しだけくすぐったそうに身をよじった。
戦いの最中では、あれほど頼もしく見えた。
だがこうして見ると――
まだ小さな子供なのだと改めて実感する。
着替えようとする動作も、どこかぎこちない。
袖に腕を通すのにも少し時間がかかる。
エルナードは自然と手を貸していた。
「ほら、腕こっち」
ガシュは素直に従う。
着替えが終わる頃には、
朝の冷たい空気の中でも身体が少し温まっていた。
エルナードも自分の体を手早く拭き終える。
タオルを畳み、火のそばへ腰を下ろした。
「昨日、晩飯食べてないだろ?」
火を見ながら言う。
「朝は少し多めに食べような」
ガシュの顔がぱっと明るくなる。
「お腹、ペコペコだよー」
その声に、エルナードは小さく笑った。
魔法のボックスから食材を取り出す。
羊肉だ。
ナイフで手際よく食べやすい大きさに切り分ける。
小さな鉄板を火にかけ、
その上に肉を並べた。
乾燥させたスパイスを指先で振りかける。
すると――
じゅう、と心地よい音が立ち上った。
肉の脂が弾け、香ばしい匂いが広がる。
隣では、パンもゆっくりと焼き始めていた。
火の熱で表面が少しずつ色づいていく。
その様子を――
ガシュはじっと見つめていた。
エメラルドグリーンの瞳をきらきらと輝かせながら。
完全に食べ物の動きを追っている。
エルナードは苦笑しながら言った。
「ガシュ。お皿、用意してくれる?」
「はーい!」
元気よく返事をする。
ガシュはすぐにボックスを開けた。
中を覗き込み、木の器を二つ取り出す。
小さな手で丁寧に地面へ並べた。
「水はどうする?」
「あ……そっか」
またボックスを開ける。
今度はコップを二つ取り出した。
エルナードは水筒の筒から水を注ぐ。
透明な水が、静かにコップへ満ちていった。
肉が焼き上がる。
エルナードは鉄板から肉を取り、
焼き上がったパンと一緒に器へ盛る。
それをガシュに渡した。
「熱いからな」
「うん。ふーふーするよ」
ガシュはフォークで肉を刺す。
小さく息を吹きかける。
「ふー……ふー……」
少し冷ましてから口へ運ぶ。
次の瞬間。
「……おいしい!」
顔がぱっと輝いた。
エルナードも肉を一口かじる。
「たくさん動いた後だからな」
少し笑いながら言う。
「一段と美味いだろ」
二人は並んで腰を下ろした。
焚き火のそば。
ゆっくりと朝ごはんを食べる。
焚き火の音。
香ばしい肉の匂い。
空腹が満たされていく感覚。
そして――
旅の中で生まれる、静かな安心感がそこにあった。
野営の跡を前に、エルナードは腰を落とし、念入りに後始末をしていた。
昨夜焚き火をしていた場所には、まだ灰がうっすらと残っている。
エルナードは小枝で灰を崩し、残り火がないか慎重に確かめた。
ぱらり、と灰が崩れる。
赤く燻るものはない。
それでも念のため、水を少しずつかけていく。
じゅ、と小さな音がして、灰が湿った土へと変わる。
さらにその上から土を被せ、手で押さえて踏み固める。
周囲に焦げ跡が残らぬよう、草の様子まで確認する。
旅人の手際だった。
「焚き火の後は、しっかり消さないとな」
その様子を少し離れた場所から眺めていたガシュが、首を傾げる。
「なんで?」
エルナードは手を止めずに答えた。
「少しでも火が残ってたら、火事になるしな」
土をならしながら続ける。
「それに、モンスターにも“誰かがここに居た”って、すぐバレるだろ?」
最後に周囲を見回し、痕跡が残っていないか確かめる。
そして振り返り、にっと笑った。
「なるべく痕跡を残さない」
少し肩をすくめる。
「……旅人のマナー、ってやつだな」
「そっかぁ」
ガシュは納得したように頷いた。
まだ理解しきれていない部分もあるが、
それでもエルナードの言葉をしっかり覚えようとしている様子だった。
ひと通り確認を終え、エルナードはゆっくり立ち上がる。
朝の光が草原を照らしていた。
「さて……こんなもんかな」
「出発?」
「ああ、出発だ」
二人は荷物をまとめ、街道へ戻った。
そして肩を並べて、東へと歩き出す。
朝の涼しさは次第に薄れ、
日差しがじわじわと強くなっていく。
草原の空気も少しずつ温まり、
風の匂いが変わっていくのが分かった。
しばらくは順調だった。
二人はときどき話をしながら、街道を進んでいく。
だが――
昼前になった頃。
突然、ガシュがその場にしゃがみ込んだ。
「……疲れた」
小さな声だった。
その言葉を聞いた瞬間。
エルナードは足を止めた。
そして、ためらいもなく――
ひょい、とガシュを抱き上げる。
軽い。
まだ小さな体だった。
「やったー!」
ガシュはすぐに嬉しそうな声を上げた。
そしてエルナードの首にぎゅっと抱きつく。
「毎回できるわけじゃないぞ?」
エルナードは歩きながら言う。
「でも、疲れたらちゃんと“抱っこ”とか“おんぶ”って言えよ」
ガシュは元気よく答えた。
「うん!」
その声はやけに元気だった。
そのまま二人は歩き続けた。
昼過ぎまで、ゆっくりと。
丘をひとつ越える。
さらに進む。
そして――
やがて視界が大きく開けた。
丘の頂きに立った瞬間。
眼下に広がる景色が、ぱっと視界へ飛び込んできた。
そこには――
街があった。
大きな城壁に囲まれた都市。
石造りの壁が街全体を守るように囲んでいる。
その内側には、規則正しく並ぶ建物の屋根。
煙突からは、細い煙がいくつも立ち上っていた。
人々の暮らしが、遠くからでも感じ取れる。
それなりに大きな街だ。
エルナードは目を細める。
「……あれが、アルセフィラかな?」
静かに呟く。
ガシュは抱っこされたまま、身を乗り出した。
目を丸くして街を見下ろす。
「おっきいねぇ」
その声には、純粋な驚きがこもっていた。
二人の旅は――
いよいよ、最初の街へと辿り着こうとしていた。
丘の上から見えた街は、思った以上に大きかった。
石の城壁は厚く、規則正しく並んだ塔が外敵を見張るように立っている。
城門へ続く道には、人や荷馬車が行き交った跡があり、土が固く踏み締められていた。
エルナードは街を眺めながら、ふと思いついたように言う。
「街に着いたら、世界地図があるといいんだけどな」
「ちず?」
ガシュが首を傾げる。
エルナードは歩きながら説明した。
「世界のどこに、何があるか書いてある紙だよ」
少しだけ遠くを見るような目になる。
「……今は、紙じゃないかもしれないけどな」
千年前とは違う世界。
そのことを、ここへ来るまでに何度も思い知らされていた。
ガシュは小さく頷く。
「ふーん……あると便利なんだ」
「そうだな」
エルナードは視線を街へ続く道へ戻した。
街門が少しずつ近づいてくる。
石造りの建物の屋根や、城壁の細かな装飾も見えてきた。
「旅には、必要なアイテムだよ」
そう言って、軽く息を整える。
「さあ、街までもうすぐだ」
丘を下りる二人の足取りは、軽かった。
疲れがないわけではない。
だがそれ以上に――
新しい場所、新しい人々との出会いへの期待が胸に満ちていた。
やがて二人は、アルセフィラの街の入口へと辿り着く。
エルナードは少し意外そうに周囲を見回した。
普通なら、城門には兵士が立っているはずだ。
だが――
そこには、兵士の姿がなかった。
代わりに立っていたのは――
石柱だった。
門の脇に設けられた石柱の中に、薄い板のようなものが埋め込まれている。
それは淡く光っていた。
まるで、薄い水面のような光。
近づくと、その表面が静かに揺れる。
次の瞬間――
澄んだ声が空間に響いた。
『案内に従い、必要事項を入力してください』
突然の声に、ガシュがびくりと肩を震わせる。
そして慌ててエルナードの背中に隠れた。
「な、なにこれ……!」
エルナードも一瞬戸惑った。
しかしすぐに戸惑いの中に好奇心をくすぐられてる瞳になった
すぐに落ち着きを取り戻し、ゆっくりと画面へ手を伸ばす。
そっと触れる。
すると光の画面が柔らかく波打った。
文字が浮かび上がる。
――人数
――滞在予定日数
――来訪目的
問いは簡潔だった。
指でなぞるたびに、文字が滑らかに切り替わる。
まるで水の上を触っているような感覚だった。
「……すごいな」
エルナードは小さく呟く。
千年前には存在しなかった技術だった。
最後の項目が表示される。
代表者の確認。
『手をかざしてください』
画面の下に、小さく表示が浮かんでいた。
エルナードは言われるまま手を伸ばす。
光の板の上にかざす。
すると――
画面が淡く脈打った。
次の瞬間。
隣にあった石造りの扉が、低い音を立てて動き出す。
ゴゴ……と重い音。
扉が左右に開いていく。
その向こうには、街の中の通りが広がっていた。
エルナードは小さく息を吐く。
そしてガシュに向かって頷いた。
「……へぇ」
感心したように言う。
「便利な世の中だな」
ガシュも背中から顔を出し、興味津々といった様子で辺りを見回していた。
「ほかの街も、みんなこんな感じなのかな?」
エルナードは少し考える。
城壁、門、装置。
どれも普通の街とは少し違う気がした。
「さあな」
肩をすくめる。
「ここは学問の街らしいし、特別かもしれない」
そう言って、前へ歩き出す。
ガシュもその隣に並んだ。
二人は扉をくぐる。
そして――
アルセフィラの街の中へ、足を踏み入れた。
そこに広がっていたのは、静かで洗練された光景だった。
街へ一歩足を踏み入れた瞬間、外の草原とはまったく違う空気が流れているのを感じる。
道は滑らかに舗装されていた。
石畳は均一に整えられ、歩くたびに靴底へ穏やかな感触が伝わる。
通りの両側には建物が並んでいる。
だが、それらはどこか独特だった。
直線だけではなく、柔らかな曲線を描く外壁。
塔のように高く伸びる建物や、幾何学的な形をした建築が整然と配置されている。
白や淡い砂色を基調とした壁面には、
装飾のように魔法陣や文様が刻み込まれていた。
光を受けると、それらの刻印がほんのわずかに輝いて見える。
街のあちこちには小さな広場が設けられていた。
噴水のある場所もあれば、木陰の下にベンチが置かれている場所もある。
そこでは、人々が静かに過ごしていた。
ベンチに腰を下ろし、本を読む人。
巻物ではなく、薄い板状の書を開いている者もいる。
羊皮紙を広げ、筆を走らせながら何かを書き留めている者。
立ったまま議論している学者らしき人々もいた。
人々の身なりは整っており、動きも落ち着いている。
街には確かに多くの人がいる。
だが――
賑やかではあるのに、騒がしさがない。
まるで街全体が、知識と理性の空気に包まれているかのようだった。
ガシュは思わず小さく息をのんだ。
「……なんか、すごいね」
きょろきょろと辺りを見回している。
見たことのない建物。
見たことのない道具。
すべてが新鮮だった。
「ああ」
エルナードも街並みをゆっくり見渡しながら答える。
その表情には、驚きと感心が混ざっていた。
「ここなら……世界のこと、色々わかりそうだ」
千年前の記憶と照らし合わせながら、静かに街を観察する。
しばらく通りを歩いていると、
広場の一角にあるものが目に入った。
街の入口で見た装置と、よく似たものだ。
石柱の中央に、平らな板状の部分が埋め込まれている。
その表面が、淡く光を放っていた。
エルナードが近づく。
すると装置は反応したように、静かに輝きを増した。
次の瞬間――
宙に光の線が走った。
空間に、立体的な光が浮かび上がる。
それは――
街の地図だった。
アルセフィラの街全体が、光の立体模型のように空中に映し出されている。
「へぇ……」
エルナードは思わず感嘆の声を漏らす。
「地図まで見られるのか」
街の形が俯瞰で表示されている。
現在地には小さな光点が瞬いていた。
通りの名前。
施設の区分。
建物の配置。
すべてが細かく表示されている。
まるで街そのものを上空から見ているかのような精密さだった。
「ガシュも!」
そう言ってガシュが背伸びをする。
だが、小さな体ではよく見えない。
エルナードは苦笑しながら、軽く抱き上げた。
「ほら、ここが今いる場所だ」
光の地図の一点を指差す。
ガシュの目がぱっと輝いた。
「わあ……!」
空中に浮かぶ街を夢中で見つめる。
「おうちみたいなのがいっぱい!」
小さな指で光の建物を指差している。
エルナードは地図の文字を読み取るように指をなぞった。
施設名が次々に表示される。
そして一つの名前が目に止まる。
「……図書館、か」
説明文が浮かび上がった。
古い書物から新しい研究書まで揃っています。
エルナードは小さく息を吐く。
学問と研究の街。
その名にふさわしい施設だった。
自然と興味が湧いてくる。
千年前の世界。
そして、そこから千年の間に何が起きたのか。
それを知るには――
これ以上ない場所かもしれない。
ふと顔を上げると、空はすでに橙色に染まり始めていた。
高い建物の間から差し込む夕日が、白い壁をやわらかく照らしている。
街全体が金色の光をまとい、昼間とはまた違う穏やかな表情を見せていた。
石畳の道にも長い影が伸び、
行き交う人々の足音がゆっくりと遠ざかっていく。
「今日はもう遅いな」
エルナードは静かに言った。
夕空を一度見上げてから、ガシュの方へ視線を戻す。
「今日は休んで、図書館は明日にしよう」
「どこで休むの?」
ガシュが首を傾げる。
「宿があるだろ」
エルナードは再び光の地図へ視線を戻した。
指で表示をなぞりながら、宿泊施設の印を探す。
やがて一つの表示に目を止めた。
「あった。西の通りだな」
ガシュは抱えられたまま、こくりと頷く。
「お泊まりだ!」
その声には少し弾んだ期待が混じっていた。
エルナードは軽く笑う。
「そうだな。今日はゆっくり休もう」
そう言ってガシュを地面に下ろし、手を取る。
二人は光の地図が示していた西の通りへと歩き出した。
夕暮れのアルセフィラは、昼間とはまた違う静けさをまとっていた。
人々はまだ通りを行き交っている。
だが声は落ち着いており、街には穏やかな空気が流れていた。
まるでこの街では、
知と時間そのものがゆったりと流れているかのようだった。
しばらく歩いていると――
ふと、香ばしい匂いが漂ってきた。
思わず足を止める。
通りの一角に、小さなパン屋があった。
石造りの建物の窓から、温かな灯りが漏れている。
中では焼きたてのパンが並び、湯気とともに香ばしい香りが夕暮れの空気へ溶け込んでいた。
「ここで晩飯を買っていこう」
エルナードは店の前に並べられたパンを眺める。
丸いパン。
細長いパン。
表面に種がまぶされたものもある。
いくつか選び、紙袋に入れてもらう。
袋からは、焼きたての温もりが伝わってきた。
ガシュはその袋を覗き込み、鼻をひくひくさせる。
「いい匂い……」
その様子にエルナードは少し笑った。
パンを抱えたまま、二人は再び歩き出す。
ほどなくして、目的の宿へと辿り着いた。
落ち着いた外観の建物だった。
派手な装飾はない。
だが整えられた壁と、入口に灯る柔らかな灯りが、旅人を拒まない温かな雰囲気を醸し出していた。
二人は扉を押して中へ入る。
すると――
外観からは想像できないほど、ロビーは広々としていた。
木目調の受付カウンターが正面に置かれている。
その左右には緩やかな階段が伸び、二階へと続いていた。
壁際には白いソファがいくつも並び、
静かな空間の中に二人の足音だけが響く。
だが――
受付には人影がなかった。
代わりに、カウンターの上に二つの光る画面が整然と置かれている。
「またこれか……」
エルナードは苦笑いを浮かべた。
それでも、もう少し慣れてきている。
画面の前に立ち、操作を始めた。
人数。
滞在日数。
支払い方法。
淡々と入力を終えると、画面に部屋番号が表示された。
「これで泊まれるみたいだ」
画面を見ながら言う。
「302号室か」
「すごいね……」
ガシュは感心したように画面を見上げていた。
二人は階段を上がる。
三階へ。
廊下は静かで、足音だけが控えめに響く。
やがて、302と書かれた扉の前に辿り着いた。
ドアには小さな画面が埋め込まれている。
エルナードが手をかざす。
ぴ、と控えめな音が鳴る。
鍵が解錠された。
ドアを開けると――
清潔な空気がふわりと流れ出た。
部屋の中には、白いシーツがきちんと整えられたベッドが二つ並んでいる。
壁際にはクローゼット。
さらに奥には、ガラス張りのシャワールームまで備えられていた。
旅人には十分すぎる設備だった。
「……ふう」
エルナードは肩の力を抜いた。
「何とか街にたどり着いたな」
その言葉が終わるより早く――
ガシュが勢いよくベッドへ飛び乗った。
ぼすん、と柔らかく沈む。
そのまま、ころころと転がる。
「ガシュ、疲れたぁ……」
「ひと眠りしてから飯にするか?」
エルナードがそう声をかける。
だが――
返事は返ってこない。
代わりに、小さな寝息が聞こえてきた。
「……早いな」
エルナードは思わず笑った。
ベッドに近づき、ガシュをそっと抱き起こす。
寝ぼけた身体を布団の中へ入れてやる。
肩まで掛け布団をかける。
そして、頭を軽く撫でた。
「おやすみ」
ガシュは無意識に寝返りを打つ。
そのまま、静かな呼吸を続けていた。
部屋の中には、穏やかな夜の気配がゆっくりと広がっていった。
エルナードはパンの入った紙袋をテーブルの上に置き、軽く背筋を伸ばした。
長い旅の疲れが、じんわりと身体に残っている。
肩を回しながら、ふう、と息を吐いた。
ジャンバーを脱ぎ、椅子の背にかける。
それからベッドの端に腰を下ろした。
柔らかなマットレスが、身体を静かに受け止める。
「……僕も今日は寝るか」
ぽつりと呟く。
本当に、長い一日だった。
千年ぶりの地上。
戦い。
街への到着。
慣れないものばかりだった。
灯りを落とすと、部屋は柔らかな闇に包まれる。
窓の外からは、遠く街の気配がわずかに届いていた。
エルナードはゆっくりと横になる。
そして――
深い眠りへと落ちていった。
⸻
エルナードは、深い夢の底にいた。
夜。
星々が無数に瞬く、静かな空の下。
どこまでも広がる暗い空。
その中で――
ひとりの女性が立っていた。
長い髪が、夜風に揺れている。
淡い月光がその姿を照らしていた。
彼女は空を見上げている。
どこか悲しげな表情で。
右目と左目の色は違っていた。
片方は淡い蒼。
もう片方は、わずかに金色を帯びた光。
その瞳は、静かに輝いていた。
まだあどけなさを残す顔立ち。
だが、その姿はあまりにも美しく――
思わず目を奪われてしまうほどだった。
その時だった。
夜空から、二つの光が舞い降りてくる。
ひとつは翠。
ひとつは紅。
流星のように空を裂きながら、ゆっくりと降りてくる。
そして――
光が形を持った。
二匹の龍だった。
一匹は、蒼翠の焔をまとっている。
空を司る存在のように、優雅に空を舞っていた。
もう一匹は、紅き嶺のような威厳を帯びている。
大地そのものの力を宿しているかのようだった。
――翠焔と紅嶺。
その二匹の聖龍は、女性の周囲をゆっくりと旋回する。
守るように。
包み込むように。
やがて――
二匹の視線が、こちらへ向いた。
エルナードの存在に気づいたように。
(……何か、言っているのか?)
声は聞こえない。
だが、確かに――
“意思”だけが胸に直接流れ込んでくる。
言葉ではない。
それでも、はっきりと伝わる。
――その娘を、探せ。
そう告げられた気がした。
その瞬間。
くつり、と。
小さな笑い声が響いた。
聞き覚えのある声。
冷酷で、嘲るような響き。
闇の奥から、ゆっくりと滲み出るような声だった。
その声が――
夢の世界を塗り替えた。
⸻
エルナードは、はっと目を覚ました。
胸が大きく上下している。
喉の奥がひりつくように乾いていた。
暗い部屋の中で、ゆっくりと身体を起こす。
まだ夢の余韻が残っている。
「あの声は……忘れもしない」
低く、噛みしめるように呟く。
「魔王プリムナード……!」
無意識のうちに、手を強く握りしめていた。
爪が掌に食い込む。
じん、とした痛みが現実を引き戻す。
エルナードは小さく息を吐いた。
「……あの娘は、誰だったんだ」
夢に現れた女性。
聖龍に守られていた、あの存在。
探せと言われても――
手がかりは何一つない。
思考を巡らせていた、その時だった。
――ドスッ。
鈍い音が部屋に響いた。
「痛てー……」
間の抜けた声。
エルナードは視線を向ける。
ベッドの横。
そこには、床に座り込んだガシュがいた。
どうやら、またベッドから転げ落ちたらしい。
エルナードは一瞬きょとんとする。
そして――
思わず笑ってしまった。
「……この広いベッドでも、落ちるのか?」
呆れたように言いながらも、声はどこか優しい。
ガシュを軽く抱き上げる。
そして元のベッドへ戻してやる。
布団を整えてやると、ガシュはまたすぐに丸くなった。
その時だった。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込む。
朝だった。
淡い朝の光が部屋をゆっくり照らしていく。
静かな宿の一室に――
新しい一日が、静かに訪れていた。
エルナードはゆっくりと身を起こした。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をやわらかく照らしている。
白いシーツの上には、まだ丸くなったまま眠っているガシュの姿があった。
小さな身体が布団にすっぽり包まれ、寝息が静かに続いている。
エルナードはベッドの端に腰を下ろし、ガシュの肩を軽く揺すった。
「ガシュ。そろそろ起きようか」
「うーん……まだ眠たいよー……」
ガシュは布団に顔を埋め、もぞもぞと動くだけだった。
髪が少し乱れ、寝ぼけた声がくぐもって聞こえる。
どうやら、まだ夢の中から抜け出す気はないらしい。
エルナードは苦笑した。
「朝飯、食べようよ」
少し間を置いてから、わざと軽い調子で続ける。
「先に食べちゃうぞ?」
その一言で――
ガシュはぱっと飛び起きた。
「ガシュもー!」
勢いよく起き上がり、布団を跳ね飛ばす。
その反応の早さに、エルナードは思わず笑ってしまった。
「眠気より、食い気か」
そう言いながら、ガシュの頭をくしゃっと撫でる。
ガシュは少し照れくさそうに言った。
「だって……」
そして、少しお腹を押さえる。
「昨日、昼も晩ご飯も食べてないだろ?」
エルナードも小さく頷いた。
「さすがに僕も腹減ったよ」
「昨日、パン焼きたてだったのにね」
「ははは。仕方ないさ」
エルナードは立ち上がり、備え付けの小さなポットを手に取る。
水を入れ、火にかけた。
しばらくすると、鍋の底が温まり始める。
小さな音が立ち、やがて湯気がふわりと立ち上った。
部屋の中に、ほのかな温かさが広がる。
エルナードは袋から豆を取り出した。
小さな手挽きの器具で、ゆっくりと挽く。
ゴリゴリ、と静かな音が響く。
香ばしい香りが、少しずつ空気に混ざり始めた。
挽いた豆に湯を注ぐ。
すると――
ほろ苦く深い香りが部屋いっぱいに広がった。
ガシュが興味津々で覗き込んでくる。
「ガシュは……珈琲、飲めないよな」
「なにそれ?」
ガシュは背伸びをしてカップを覗き込む。
エルナードは笑った。
「苦いやつだよ」
「……飲む!」
即答だった。
「ちょ、ちょっとだけだぞ」
エルナードは苦笑しながら、自分のカップを少し傾ける。
ほんの一口だけ、ガシュの口へ。
次の瞬間――
ガシュの顔が、くしゃっと歪んだ。
「うぇー……苦い……!」
目をぎゅっと閉じて、顔をしかめる。
エルナードは声を上げて笑った。
「だろう?」
そう言いながら、テーブルの上に置いていたパンをちぎる。
シュガーが軽くまぶされた甘いパンだ。
ぽん、とガシュの口へ放り込む。
「ほら。口直しに甘いやつ」
ガシュはすぐにもぐもぐと噛み始めた。
表情が一気に戻る。
「……おいしい」
頬をいっぱいに膨らませながら咀嚼する。
その様子を見て、エルナードの表情も自然と緩んだ。
エルナードは湯気の立つカップを手に取る。
香りを一度吸い込み、ゆっくり口をつける。
「今日はな」
静かに言った。
「飯を食べたら、図書館に行くぞ」
ガシュはまだパンをもぐもぐと食べ続けている。
返事はまだない。
だが――
その瞳はすでに期待で輝いていた。
やがて朝食を終えると、二人は身支度を整えた。
荷物をまとめ、扉を開ける。
静かな廊下へ出る。
こうして――
新しい一日の始まりとともに、
二人は宿を後にした。
外へ出ると、空はどんよりとした曇り空だった。
重たい雲が低く垂れ込め、街全体を灰色の光で覆っている。
太陽の姿は見えず、空気にはわずかに湿り気が混じっていた。
今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
石畳の通りを踏みしめながら、二人は歩き出す。
昨日の夕暮れとは違い、街は少し落ち着いた雰囲気をまとっていた。
人々は静かに通りを行き交い、手には書物や巻物を抱えている者も多い。
学問の街らしい朝の光景だった。
エルナードは通りの脇に設置された地図の装置の前で立ち止まる。
光の地図が淡く浮かび上がる。
現在地を示す光点と、街の区画が立体的に表示されていた。
指で現在地をなぞる。
そこから図書館の位置へ、ゆっくりと線を辿る。
進むべき通りを確認すると、軽く頷いた。
「こっちだな」
ガシュも背伸びをして地図を覗き込む。
二人はそのまま図書館へと向かった。
しばらく歩くと、やがて視界の先に大きな建物が現れる。
周囲の建物とは、明らかに違っていた。
濃い緑色の外壁をした六角形の建築物。
まるで巨大な結晶のような形をしている。
八階建てのその建物は、周囲の建物より一回りも二回りも大きく、
街の中でもひときわ目を引く存在だった。
重厚でありながら、どこか知的な気配を漂わせている。
「あれか……」
エルナードは小さく呟いた。
近づくと、入口の扉が二人の気配を察知したかのように、音もなく左右に開いた。
静かな歓迎だった。
二人は中へ足を踏み入れる。
その瞬間――
独特の匂いが鼻をくすぐった。
インクの匂い。
古い紙の匂い。
長い年月を経た書物の匂い。
それらが混ざり合った、落ち着いた香りだった。
中は驚くほど静かだった。
天井は高く、広々とした空間が広がっている。
壁際から中央へ向かって、無数の書棚が整然と並んでいた。
そのすべてに書物が詰め込まれている。
革装丁の古い本。
薄い研究書。
巻物。
さまざまな形の知識が、そこに収められていた。
ガシュは思わず足を止める。
そしてそっとエルナードのズボンの裾を握った。
小さな声で囁く。
「……広いね。なにを読むの?」
エルナードは周囲を見回した。
膨大な書棚の列。
どこを見ても本ばかりだ。
「とりあえず、歴史書だな」
静かに答える。
「どこにあるか、聞いてみよう」
入口近くの受付には、年配の女性が座っていた。
落ち着いた表情で、何かの書類に目を通している。
エルナードは一歩前へ出る。
声を落として、丁寧に話しかけた。
「すみません。歴史系の書物は、どの辺にありますか?」
女性はゆっくり顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が穏やかに笑う。
「歴史コーナーは、エレベーターで四階へ上がっていただいて、右側にございますよ」
落ち着いた声だった。
この場所の静けさに、よく馴染んでいる。
「ありがとうございます」
エルナードは軽く頭を下げる。
そしてその場を離れようとした、その時だった。
女性がふと思い出したように声をかけた。
「坊やが読めそうなものなら」
ガシュに視線を向ける。
「同じ四階の左側にキッズコーナーがありますよ」
ガシュは少しだけ照れたようにエルナードの後ろへ隠れる。
エルナードは微笑んだ。
「そうなんですね」
もう一度、ぺこりと一礼する。
それからガシュの手を取り、図書館の奥へと歩き出した。
エレベーターに乗るのは、エルナードにとって初めての体験だった。
入口の前に立ち、静かに上下する扉を眺める。
箱のような小さな空間が人を乗せて階を移動する――
そんな仕組みのものなど、千年前には存在しなかった。
だが、他にも利用者がいた。
何人かの人々が自然な様子で中へ入り、
壁の一角に並んだ小さな板に触れている。
エルナードは一歩引いて、その様子を観察した。
(なるほど……)
壁に並ぶ数字。
それぞれが階を示しているらしい。
利用者の一人が「4」と書かれた場所に触れると、
すぐに扉が静かに閉まった。
(階数のボタンを押せばいいのか)
小さく納得する。
エルナードはガシュを先に入らせ、自分も後から中へ入った。
内部は思ったよりも広く、
四方を金属の壁に囲まれている。
床は静かに揺れ、わずかな振動が足裏へ伝わってきた。
ガシュは落ち着かない様子だった。
箱のような空間の中で、
天井や壁をきょろきょろと見回している。
「これ……動くの?」
小さな声で尋ねる。
その瞬間――
エレベーターがゆっくりと上昇を始めた。
ガシュは少しだけ身体を固くした。
エルナードは苦笑する。
「大丈夫だ」
やがて、静かな機械音とともに動きが止まる。
扉が音もなく左右へ開いた。
四階に到着していた。
エルナードはガシュを先に降ろし、
周囲を一度見渡す。
図書館の四階は、下の階と同じように静まり返っていた。
高い書棚が整然と並び、
ところどころに読書用の机や椅子が置かれている。
足音さえ吸い込まれてしまいそうな静けさだった。
エルナードはガシュの前にしゃがみ込み、目線を合わせる。
「いいか」
少し真剣な声だった。
「ここでは、絶対に離れるなよ」
ガシュもその表情を見て、こくりと頷く。
エルナードはエレベーターの前を指差した。
「もしはぐれたら――ここだ」
静かに言う。
「ここに戻ってくるんだ。分かったな?」
「はーい!」
ガシュは元気よく返事をした。
その声が、静かな空間に少しだけ響く。
エルナードはすぐに人差し指を立て、口元へ持っていった。
「……小声でな」
小さく囁く。
「ここは静かにする場所だ」
ガシュは慌てて口を押さえる。
そして小さく言い直した。
「……はーい」
今度は、きちんと小声だった。
エルナードは微笑みながら立ち上がる。
四階の奥へ歩き始める。
ほどなくして、目的の場所が見えてきた。
歴史書コーナーだった。
背の高い書架が、壁のように並んでいる。
棚には分厚い本がぎっしりと収められていた。
革の表紙のもの。
金の文字が刻まれたもの。
古い装丁の本も混じっている。
長い年月の知識が、そこに詰め込まれているようだった。
エルナードはゆっくりと書棚を眺める。
その中から、一冊の本を引き抜いた。
厚い本だった。
背表紙には、はっきりとした文字でこう刻まれている。
『世界の歴史』
エルナードはその文字を見つめた。
「……これを、読んでみようかな」
そう呟き、近くに置かれていた木製の椅子へ腰を下ろす。
椅子が小さく軋んだ。
ガシュもその横に、ちょこんと座る。
そして身を乗り出すようにして、本の中を覗き込んだ。
これから二人は――
千年の歴史を、知ることになる。
静まり返った図書館の空気の中で、
エルナードはゆっくりと本を開いた。
厚いページが、かすかな音を立ててめくれる。
古い紙とインクの匂いが、ほのかに立ち上った。
そして――
最初の一文を目にした瞬間。
エルナードは思わず目を疑った。
世界のはじまりは、今から九百年前――
「……なんだって?」
思わず声が漏れる。
すぐに周囲を気にして声を落としたが、
驚きは隠せなかった。
「歴史が……九百年前からだと?
そんな馬鹿な話が、あるか……」
指先でページをなぞりながら、眉をひそめる。
紙の上の文字は、はっきりとそう記されていた。
ガシュが小さく言った。
「ガシュも……それ、知らない」
隣で本を覗き込んでいたガシュは、少し困った顔をしている。
「そうか……」
エルナードは静かに息を吐いた。
「ガシュは、ソルさんから直接歴史を習ってるんだったな。
それなら、知らなくても辻褄は合う……」
だが、胸の奥に奇妙な違和感が広がっていく。
エルナードは次のページをめくった。
そこには、ノースゼム大陸と、
このエルディア大陸の成り立ちが記されていた。
都市の建設。
王国の誕生と滅亡。
交易路の発展。
年代ごとに整理された出来事が、整然と並んでいる。
だが――
エルナードの視線が止まった。
「……魔王のことが、どこにも書いてない……」
さらにページをめくる。
だが、どこを読んでも同じだった。
プリムナードの名は、一度も出てこない。
エルナードの指先が、ぴたりと止まる。
「……九百年前より前の話が、何もない……?」
図書館の静寂が、やけに重く感じられた。
エルナードの胸に、じわじわと怒りが湧き上がる。
(アルベルトをはじめ……
あれだけ多くの犠牲があって――)
血の匂い。
戦場の炎。
倒れていった仲間たちの顔が、脳裏に浮かぶ。
(その上に、今の世界があるというのに……)
記録から消されている。
あるいは――
最初から、“無かったこと”にされている。
それ以上読む気になれなかった。
エルナードは、ばさりと本を閉じた。
重い音が、小さく響く。
しばらくの間、黙ったまま椅子の背もたれに体を預け、
高い天井を仰ぐ。
図書館の天井は遥か上にあり、
柔らかな光が静かに降り注いでいた。
その静寂の中で――
今朝見た夢の光景が、ふっと蘇る。
夜空。
星々の光。
悲しげに空を見上げていた、あの美しい女性。
そして彼女の周囲を巡っていた、
翠の光と紅の光。
二匹の龍。
エルナードは視線を落とし、ガシュを見た。
「……なあ、ガシュ」
低い声で問いかける。
「この世界に、
二匹の龍が出てくる話……知らないか?」
「龍……?」
ガシュは少し首を傾げる。
うーん、と考え込むように唸り、
記憶を探るように目を細めた。
やがて、何かを思い出したように顔を上げる。
「……翠の龍と、紅い龍のこと?」
エルナードは、はっとしてガシュを見る。
「……それだ」
小さく、だが確信を込めて頷いた。
「そう、それだよ。
今朝の夢に……出てきたんだ」
ガシュは言葉を選びながら、ゆっくり続ける。
「えっとね……」
少し考えてから、言った。
「聖龍、って名前だったと思う」
「聖龍……」
エルナードは小さく呟く。
その言葉は、胸の奥で不思議な重みを持って響いた。
ガシュは申し訳なさそうに肩をすくめる。
「でも、それ以上は……詳しく知らないの」
「いや、それで十分だ」
エルナードの表情が、少しだけ明るくなる。
「そうか……」
静かに頷く。
「じゃあ、次は“聖龍”で調べてみればいい」
歴史が消されているなら――
別の場所に残されているはずだ。
神話。
伝承。
古い物語。
真実は、そういう場所にひっそりと生き残ることがある。
エルナードは再び本棚を見上げた。
千年の謎を解く鍵が、
この図書館のどこかに眠っているかもしれない。
エルナードは、再び書架へと視線を向けた。
高く並ぶ本棚には、数えきれないほどの書物が整然と並んでいる。
革張りの重厚な本、金文字の背表紙、古びた装丁の書物――
知識の重みそのものが、静かな壁となってそこに立っているようだった。
「……聖龍の話、か」
エルナードは書架を見渡しながら、低く呟く。
「分類は何になるんだろうな。
歴史というより……伝承に近いのかもしれない」
ガシュが少し考えるように首を傾げた。
金色の髪がふわりと揺れる。
「ガシュね、人間が作った……絵本、読んだことあるよ」
「絵本?」
エルナードは意外そうにガシュを見る。
「そうか……」
少し考え、ゆっくり頷いた。
「昔話みたいな形で残ってるのかもしれないな」
エルナードは立ち上がり、軽く背伸びをする。
「よし。キッズコーナー、行ってみるか」
先ほど読んでいた歴史書を丁寧に書架へ戻し、
エレベーターを挟んで反対側のフロアへとガシュを連れて行った。
そこは、歴史書の並ぶ一角とは雰囲気がまるで違っていた。
棚は低く作られており、
背の低い子どもでも手が届く高さになっている。
色とりどりの背表紙が並び、
表紙には龍や王子、森や星空、魔法の城が描かれていた。
柔らかな色彩の絵本が並ぶその場所は、
同じ図書館の中とは思えないほど、温かな空気に包まれている。
「……なるほどな」
エルナードは周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「ガシュも探してくれ。
聖龍と関係がありそうな絵本」
「うん、わかった!」
ガシュは元気よく返事をすると、
棚の端から端まで、一冊ずつ指でなぞるように見ていく。
ページをめくる音。
紙が触れ合う柔らかな音。
子ども向けの挿絵の鮮やかな色彩が、
静かな図書館の空気の中で小さくきらめいている。
この一角だけが、
ほんの少しだけ柔らかい空気に包まれていた。
――しばらくして。
「あっ!」
ガシュの声が、思わず少し大きく響いた。
はっとして、
すぐに自分の口を両手で押さえる。
エルナードは周囲を気にする様子もなく、
ゆっくりとガシュのもとへ歩み寄った。
「見つけたか?」
ガシュは棚から一冊の本を引き抜き、
表紙をこちらに向ける。
「……『2ひきのりゅうと みこさま』、だって」
色あせた表紙には、
夜空の下を舞う二匹の龍と、
白い衣をまとった少女の姿が描かれていた。
翠色の龍と、紅色の龍。
エルナードの胸が、わずかにざわつく。
「……いいじゃん」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「それ、読んでみようか」
手に取ったその絵本は、
子ども向けにしては少し分厚く、ずっしりとしていた。
長い間、何度も読まれてきたのだろう。
背表紙は色あせ、
角は丸く擦り減っている。
近くに置かれていた木製のベンチに、二人で腰を下ろす。
エルナードはゆっくりと最初のページをめくった。
――歴史から消えた真実は、
物語の形を変えて、ここに残っているのかもしれない。
エルナードは、ガシュの手から受け取った絵本をそっと開いた。
分厚い表紙がかすかに軋み、
紙の擦れる音が静かな図書館に溶けていく。
背表紙は色あせ、角は丸くなっている。
何度も、誰かの手によって開かれてきたのだろう。
エルナードはガシュの隣に腰を下ろし、
小さな声で、ゆっくりと読み始めた
「すいえん と こうれい と
ひかりの みこ の おはなし」
エルナードは、声を落としてゆっくりと題名を読んだ。
隣ではガシュが身を乗り出し、
大きな瞳を輝かせながら絵本の中を覗き込んでいる。
図書館のキッズコーナーは静かで、
遠くで誰かがページをめくる音だけが、かすかに響いていた。
エルナードは次の行を指でなぞりながら読み進める。
「むかし むかし、
まだ そら と だいちが
いまみたいに わかれて いなかった ころの ことです――」
ページをめくる。
ぱらり、と柔らかな音。
そこには色鮮やかな挿絵が描かれていた。
青みがかった夜空を大きく羽ばたき、
みどりの光をまとった龍。
星々の間を泳ぐように舞う、優雅な姿だった。
「おそらには、
みどりの ひかりを もつ りゅう、
すいえん が いました」
次のページ。
赤く温かな大地の上を、
ゆっくりと歩く龍の姿。
その体は山のように大きく、
足元には草や花が芽吹いている。
「だいちには、
あかい ひかりを もつ りゅう、
こうれい が いました」
エルナードは、読みながら息を呑んでいた。
――見覚えがある。
あまりにも、はっきりと。
夢で見た光景と、
あまりにも似ていた。
「すいえんは、
おそらを とびながら
ほしや くもを まもっていました」
「こうれいは、
だいちを ゆっくり あるきながら
くさや どうぶつ、
みんなの いのちを まもっていました」
絵本の中の二匹の龍は、
寄り添うように描かれている。
空と大地。
まるで、世界の両側を支える柱のようだった。
「ふたりの りゅうは、
いつも いっしょ」
「おそら と だいちの あいだで、
せかいが こわれないように
ずっと みまもって いたのです」
エルナードは、ゆっくりと次のページをめくった。
その指先が――
ほんのわずかに震えていた。
「でも、あるとき――」
挿絵の色が、少し暗くなる。
人々の影が増え、
空や大地の色に濁りが混じっていた。
「ひとが たくさん ふえて、
かなしい きもちや
こわい きもちが
せかいに ひろがって しまいました」
エルナードは無意識に唇を噛んだ。
その言葉は、
まるで遠い戦場の記憶を呼び起こすようだった。
「すいえんと こうれいは
かんがえました」
「『ぼくたち だけじゃ、
せかいを まもりきれないかも……』」
そして――
次のページ。
中央に、小さな光。
夜の中で、
ひとつだけ優しく輝く光だった。
「そこで、
ふたりは ひとつの ひかりを
えらびました」
「それが――
すいこうの みこ です」
白い衣をまとった幼い少女。
二匹の龍に守られるように、
その中心に立っていた。
柔らかな光に包まれている。
「すいこうの みこは、
せかいに ひとりだけ」
「すいえんの ひかりと、
こうれいの ちからを
こころに もった
やさしい こ でした」
ガシュは、じっとその絵を見つめている。
まばたきも忘れたように。
エルナードは、静かに読み続けた。
「みこは、
たたかったり しません。
つるぎも もちません」
「ただ――」
「『みんなが えがおに なりますように』
『せかいが しあわせで ありますように』」
「そうやって、
いのる だけ です」
次のページ。
空から光が降り、
大地が柔らかく輝いている。
「すると――」
「すいえんは
おそらから きらきら ひかりを ふらせ」
「こうれいは
だいちに ぽかぽかの ちからを
めぐらせました」
「そうして、
せかいは また
やさしい ひかりに つつまれました」
エルナードは最後のページを、そっと閉じた。
古い紙が、かすかに鳴る。
「だからね」
「すいこうの みこは、
みんなが まもらなくちゃ いけない
だいじな そんざい なんだよ」
「そして いまも――」
「どこかで
すいえんと こうれいは
そっと せかいを みまもって いるんだ」
読み終えた瞬間。
エルナードは、息を忘れていた。
胸が静かに上下する。
そして、はっとしたように顔を上げた。
「……翠の龍と、紅い龍」
声が、わずかに震える。
「夢に出てきた……あの二匹の龍だ」
すると、ガシュがぽつりと呟いた。
「……ソル様が言ってた」
その声はとても小さく、
静かな図書館の空気の中に溶けるようだった。
エルナードはゆっくりとガシュを見る。
「ガシュはね、
聖龍様が えらんだ子なんだって」
「……え?」
思わず声が裏返る。
周囲の静けさに気づき、慌てて声を抑えた。
「ま、まじか?」
ガシュは少し困ったように笑った。
「でもね……」
指先で絵本の端をなぞりながら、静かに続ける。
「ガシュ、聖龍は
まだ みたこと ないよ」
図書館のキッズコーナーは相変わらず静かだった。
低い棚の向こうでは、
誰かがページをめくる音がかすかに響く。
木のベンチに並んで座る二人の前には、
今しがた読み終えた絵本が置かれていた。
絵本の中の物語。
エルナードが見た夢。
そして、ガシュが語った現実。
それらが、ゆっくりと重なり始めている。
エルナードは、胸の奥で何かが確かに動き出したのを感じていた。
――これは、ただの昔話じゃない。
エルナードは、読み終えた絵本をそっと閉じた。
分厚い表紙が静かに重なり、
その音は図書館の静寂の中に吸い込まれていく。
そのまましばらく、言葉を発さず考え込む。
視線は本の表紙に落ちたまま。
けれど、意識は遠くへと向かっていた。
(……世界に一人だけの巫女、か)
絵本の中では、巫女はまだ幼い娘として描かれていた。
二匹の龍に守られ、
ただ祈る存在。
(でも、僕が夢で見た彼女は……)
夜空を見上げていた、あの女性。
長い髪を風に揺らし、
悲しげな瞳をしていた。
確かに若さはあったが、
幼いというほどではなかった。
むしろ――
どこか覚悟を秘めたような、
静かな強さを感じさせる眼差し。
(同一人物、なのか……?)
エルナードは思考を振り切るように顔を上げた。
そしてガシュを見る。
「なあ、ガシュ」
ガシュはまだ絵本の挿絵を見つめていたが、
すぐに顔を上げた。
「次はさ……」
エルナードは少し考えてから言った。
「世界に一人だけの巫女の話を、
もう少し詳しく知りたいな」
「巫女さま……」
ガシュは小さく首を傾げた。
金色の髪がふわりと揺れる。
「世界の……どこかに、いるのかな?
巫女さま」
「……居るとしたら、だけどな」
エルナードは少し間を置いて、静かに言った。
「会ってみたいな」
「巫女さまに?」
「うん。なんとなく……だけど」
それは説明できない衝動だった。
夢の余韻なのか。
それとも聖龍の導きなのか。
理由は分からない。
ただ一つ――
会うべきだという感覚だけが、胸の奥に残っていた。
その時だった。
書架の向こう側を、静かに歩いていく人影が目に入った。
落ち着いた色の衣服をまとい、腕には数冊の本を抱えている。
――司書だろう。
エルナードは椅子から静かに立ち上がり、足音を抑えて近づいた。
「すみません」
声をかけると、その人物は足を止め、ゆっくりと振り返った。
年配の男性だった。
丸い眼鏡の奥の瞳は穏やかで、図書館に長く身を置く者特有の静かな落ち着きを感じさせる。
「はい?」
エルナードは軽く頭を下げてから尋ねた。
「聖龍と……巫女について書かれた本って、他にありますか?」
司書は少し考え込むように顎に手を当てた。
周囲の書棚を一度見回し、記憶を辿るように目を細める。
「うーん……」
短く唸ってから、やがて首を横に振った。
「本として残っているのは、今お読みになっているその絵本だけですね」
エルナードの表情が、わずかに曇る。
やはり簡単には見つからないか――
そう思った瞬間だった。
司書はふと思い出したように言葉を続けた。
「ただし……」
エルナードは顔を上げる。
司書は少し声を落として話した。
「この街から南西に少し行った森の中に、
ベレヌーの里という村があると聞いています」
「ベレヌーの里……?」
聞き慣れない名前に、エルナードは小さく繰り返す。
「ええ」
司書は頷いた。
「双龍信仰の里だそうです」
「双龍……?」
「聖龍を信仰している、少し珍しい集落ですね」
その言葉を聞いた瞬間――
エルナードの胸が、わずかに高鳴った。
翠焔と紅嶺。
夢の中で見た二匹の龍の姿が、脳裏に浮かぶ。
司書は穏やかな口調のまま続けた。
「そこなら、何か分かるかもしれません。
行ってみてはいかがでしょう?」
エルナードは静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
深く一礼する。
司書は柔らかく微笑み、軽く頷くと、
再び静かな足取りで書架の奥へと消えていった。
やがて図書館の空気は元通りの静けさに戻る。
エルナードは振り返り、ガシュの方を見る。
ガシュはずっと話を聞いていたらしく、
期待に満ちた瞳でこちらを見上げていた。
エルナードは穏やかに微笑む。
「……次の目的地が、決まったな」
その言葉に、ガシュの顔がぱっと明るくなる。
「ベレヌーの里、だね!」
「ああ」
エルナードは小さく頷いた。
静かな図書館の窓からは、
曇り空の光が淡く差し込んでいる。
二人は絵本を元の棚へ戻し、
静かに図書館を後にした。
そしてそのまま、街へと足を伸ばす。
石畳の道を行き交う人々は、相変わらず多かった。
白い建物の間を、絶え間なく人の流れが動いている。
書物を抱えた学者風の者、荷車を引く商人、
旅装束のまま地図を広げている旅人らしき姿も見える。
遠くからは市場の呼び声、
近くでは誰かが議論を交わす声。
落ち着いた街並みの中にも、確かな活気が満ちていた。
アルセフィラは、ただの学問の街ではない。
多くの人と知識と物資が集まる、大きな都市なのだと改めて実感させられる。
人の流れを眺めながら、エルナードがぽつりと呟いた。
「……もう少し、金が欲しいな」
「おかね?」
ガシュが首を傾げて聞き返す。
「お金って、どうやってもらうの?」
エルナードは歩きながら答えた。
「普通はな、何か仕事をして、そのお礼に貰うんだ」
少し考えてから続ける。
「それか……モンスターを倒して、素材を売るとかだな」
「へぇ……」
ガシュは感心したように頷いた。
エルナードはふと足を止める。
通りの脇に、あの光る案内板が設置されているのを見つけたのだ。
石柱に埋め込まれた薄い板が、淡く光を放っている。
エルナードが指で触れると、
空中に光の線が走り、街の立体地図が浮かび上がった。
「世界地図とか、売ってないかな……」
指先で地図をなぞりながら呟く。
「あと、食料だよな」
街の区画が細かく表示され、
建物の種類や店舗の名前が光で浮かび上がっていた。
その中の一角に、ひときわ大きな目印がある。
「あ……」
エルナードは指を止めた。
「商業施設があるな」
少し口元を緩める。
「行ってみるか」
ガシュも嬉しそうに頷いた。
二人は宿とは反対側、
大きな建物がいくつも並ぶ商業通りへと向かう。
通りに入ると、雰囲気は一変した。
ガラス張りの建物。
広い出入口。
人々が絶えず出入りしており、
中からは賑やかな話し声が漏れてくる。
エルナードたちは、その中でも一際大きな建物へ足を踏み入れた。
中に入った瞬間、空気が少し変わる。
広い空間の中に、整然と並ぶ売り場。
道具、衣類、食料、書物、装飾品――
ありとあらゆる商品が、所狭しと並んでいた。
香ばしい食べ物の匂い。
革製品の匂い。
新しい布の香り。
様々な匂いと音が混ざり合い、
まるで小さな街のような賑わいを作り出している。
「わぁ……」
ガシュは目を輝かせ、きょろきょろと見回す。
見慣れないものばかりだった。
エルナードはその手をそっと握る。
「人が多いからな。迷子になるなよ」
「うん。……いろいろ売ってるね」
「だな」
エルナードは天井を見上げた。
高い吹き抜けの壁に、階層案内の光板が表示されている。
一階、食料と日用品。
二階、衣類と生活用品。
三階、書物と道具。
四階、装備と工房。
「一番上の階から、順番に見ていこうか」
エルナードはそう言って、
エレベーターの方へ歩き出す。
ガシュもその後ろをぴょこぴょことついていく。
二人はエレベーターに乗り込み、
最上階へと向かった。
エレベーターの扉が静かに開いた瞬間――
ふわりと、空気が変わった。
そこは、他の階とは明らかに雰囲気の違う場所だった。
天井から吊るされた魔法灯が、柔らかな光を放っている。
床は淡い石で磨き上げられ、静かな輝きを帯びていた。
並んでいるのは、日用品ではない。
――魔法道具だ。
光を帯びた杖。
淡く蒸気を吐く魔法の釜。
文字が勝手に並び替わる羊皮紙。
透明な瓶の中で、小さな雷のような光がぱちぱちと弾けているものもある。
それらが整然と並べられているにもかかわらず、
どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。
「すご……」
ガシュが思わず声を漏らす。
小さな体で辺りを見回し、
目を丸くして棚の間をきょろきょろと見渡していた。
エルナードはそんなガシュを横目に、
ゆっくりと店内を見渡す。
そして、壁際に並べられている品の中で、
ひとつの棚に視線が止まった。
そこには、いくつもの地図が並べられていた。
ただし、普通の紙ではない。
薄い板のような形をした、二つ折りの地図だった。
エルナードは一つ手に取り、そっと開いてみる。
すると――
淡い光が広がり、
その板の上に地図が浮かび上がった。
街の形。
街道の線。
山や川の位置。
そして、小さな光点が現在地を示している。
「……これは便利だな」
指先で触れると、
地図が拡大され、さらに細かい情報が表示される。
どうやら目的地を指定することもできる仕組みらしい。
だが――
値札を見た瞬間。
エルナードの眉がぴくりと動いた。
「……これ買ったら、食料が買えないな」
「えー!」
ガシュが思わず声を上げる。
慌てて口を押さえるが、
驚きは隠しきれていなかった。
エルナードは苦笑する。
「食料は、まだ多少ある」
少し考えながら言う。
「現地調達すれば……何とかなる、かな」
森や川があれば、
食料を得る方法はいくらでもある。
ガシュは少し考えてから、ぽつりと呟いた。
「でも……」
「お金、要るね」
「……要るな」
エルナードは苦笑いを浮かべる。
しばらくの間、
その魔法地図をじっと見つめた。
この世界は広い。
千年前とは、まったく違う。
道を間違えれば、
どこへ辿り着くか分からない。
やがてエルナードは、小さく息を吐いた。
そして決心したように言う。
「でも、今は……地図が大事だ」
目的地を見失えば――
この広い世界で、
本当に迷うことになる。
エルナードは地図を店員に渡し、
支払いを済ませた。
魔法地図は薄く折りたたまれ、
小さな袋に収められる。
「……地図も買えたし、そろそろ宿に戻るか」
エルナードがそう言うと、
ガシュはこくりと頷いた。
「明日、出発?」
「ああ。明日だな」
二人は商業施設を後にし、
夕暮れのアルセフィラの街へ戻る。
空はすでに橙色に染まり、
白い建物の壁に柔らかな光が反射していた。
通りには灯りが少しずつ灯り始め、
街は昼とは違う落ち着いた表情を見せている。
帰り道の途中。
通り沿いの店から、
香ばしい匂いが漂ってきた。
焼いた肉の匂い。
香草の香り。
エルナードは足を止め、
いくつか簡単な晩ご飯を買い求める。
紙に包まれた温かな料理を抱え、
二人は宿へ向かった。
街の灯りが一つ、また一つと点り始める頃――
アルセフィラの夜が、
ゆっくりと始まろうとしていた。
宿の部屋に戻ると、外の賑わいが嘘のように静けさが広がった。
廊下の足音も遠く、柔らかな灯りだけが部屋を照らしている。
エルナードは扉を閉めると、肩に掛けていた荷物を脇に置き、ベッドの端に腰を下ろした。
今日一日歩き回った疲れが、ようやく足から抜けていく。
そして、購入したばかりの魔法地図を取り出す。
二つ折りの板をゆっくりと開くと、
淡い光がふわりと広がり、空中に立体的な地形が浮かび上がった。
山脈、川、街道、街の位置。
細かな起伏まで再現された地形が、静かに輝いている。
ガシュも我慢できない様子で近づき、
エルナードの肩に寄り添うように覗き込んだ。
「これが……?」
興味と驚きが混ざった声だった。
「現在地が、ここだな」
エルナードが指差す。
そこには青い光点があり、静かに明滅していた。
「べレヌーの里、だよね」
「そうだ。南西の山奥だって言ってたな」
エルナードは地図の操作部分に指を触れ、
文字を入力する。
ベレヌーの里
すると――
地図の一角、山々に囲まれた場所に、
赤い点がゆっくりと浮かび上がった。
「……ここか」
エルナードは小さく頷く。
「赤い点が目的地ってわけだ」
ガシュは地図の山並みを見つめながら呟いた。
「遠そう……何日かかるかな?」
その問いに、エルナードは腕を組んで考え込む。
「徒歩ってのが、正直もどかしいな」
窓の外に視線を向ける。
街の灯りが、遠くに瞬いていた。
「せめて馬が欲しいところだけど……」
小さく息を吐く。
「結局、全部は金次第だな」
ガシュは少し考えてから言った。
「お馬さん以外にも、乗るものってあるのかな?」
「あるなら、乗ってみたいね」
エルナードがそう言うと、
ガシュの目がぱっと輝いた。
「じゃあさ!」
身を乗り出し、嬉しそうに言う。
「おおきな鳥さんの背中に乗せてもらえたら、
おそらを びゅーんって飛べるよ!」
両手を広げ、空を飛ぶ真似をする。
「ははは」
エルナードは思わず笑った。
「それはまた、壮大な夢だな」
だが、ふと何かを思い出したように言う。
「でもさ、街中で見ただろ?」
「ん?」
「動いてた……箱みたいな乗り物」
「あった!あった!」
ガシュも勢いよく頷く。
「ガーッて動いてたやつ!」
「多分……魔法の力で動いてるんだろうな」
エルナードは地図の光を眺めながら呟く。
「もし、ああいうのを手に入れられたら……」
少し遠い目になる。
「旅は、ずいぶん楽になるんだけどな」
ベッドの上で、二人は並んで地図を見つめた。
青い点――アルセフィラ。
赤い点――ベレヌーの里。
その距離は、まだ遠い。
静かな時間が流れる。
やがてエルナードは地図を閉じ、ランプの明かりを少し落とした。
「明日は早いぞ」
穏やかな声で言う。
「もう休んでおこうな」
ガシュはすでに布団に潜り込んでいた。
「はーい」
元気よく返事をする。
エルナードもランプを消す。
ぱちり、と小さな音。
部屋は一気に静けさに包まれた。
窓の外では、アルセフィラの街灯が遠くに瞬いている。
やがてそれも、夜の闇の中へ溶けていった。
二人の呼吸が、ゆっくりと揃っていく。
――旅立ち前の夜。
その静かな時間は、
穏やかに、そして確かに更けていった。
――その頃。
ソフィアは、今夜も窓辺に立っていた。
開け放たれた窓から、夜の冷たい空気が静かに流れ込んでくる。
遠くの森からは虫の声が微かに聞こえ、
空には無数の星が瞬いていた。
澄みきった夜空は、どこまでも深く広がっている。
ソフィアは胸の前でそっと手を組み、
小さな声で呟いた。
「……かっこいい勇者様が、いつか私を迎えに来てくれますように」
願いというより、
まるで子どもの頃から続く習慣のような祈りだった。
自分でも分かっている。
それは、叶うはずのない、あまりにも淡い夢。
だからこそ――
誰にも聞かれない夜の時間だけ、そっと口にする。
星は、何も言わずに瞬き続けている。
ソフィアはしばらく空を見つめていたが、
やがて小さく息を吐いた。
「……もう、休もうかな」
名残惜しそうに夜空をもう一度見上げる。
それから窓を閉め、
静かな足取りでベッドへ向かった。
柔らかな布団に身を沈めると、
一日の疲れがゆっくりと体から抜けていく。
やがて瞼が重くなり、
意識は静かに夢の底へと落ちていった。
――ソフィアは、夢を見た。
翠の光。
紅い光。
二つの柔らかな輝きが、
まるで羽のようにふわりと漂いながら、
優しくソフィアの体を包み込んでいる。
その光に導かれるように歩いていくと、
周囲の景色が少しずつ変わっていく。
やがて辺りは、
白く、まばゆく輝き始めた。
光の世界。
静かで、温かい空間。
その光の先に――
一人の男性が、静かに佇んでいた。
漆黒の長い髪。
凛とした立ち姿。
精悍でありながら、どこか懐かしさを感じさせる顔立ち。
翠と紅の光は、
まるで当然のようにその男性のもとへ吸い寄せられていく。
男性が、ふと振り向いた。
視線が合う。
その瞬間――
ソフィアの胸が、どくんと強く鳴った。
優しく微笑むその表情。
それを見ただけで、
理由もなく頬が熱くなる。
男性は何も言わなかった。
ただ、静かに手を差し伸べる。
まるで「こちらへ」と促すように。
ソフィアは、迷わなかった。
その手へ、ゆっくりと指を伸ばす。
あと少しで触れられる――
そう思った瞬間。
世界が、突然真っ暗に変わった。
光が消える。
温もりも消える。
代わりに耳へ届いたのは――
不気味で冷たい、
嘲るような笑い声。
ぞくり、と背筋を震わせるような声だった。
その瞬間――
ソフィアは、はっと目を覚ました。
勢いよく上体を起こす。
暗い部屋の中で、荒い呼吸だけが響く。
額にはうっすらと汗が滲んでいた。
胸は早鐘のように鳴っている。
「……なに、今の……?」
小さく呟く。
部屋は静かだった。
窓の外から、虫の声だけが聞こえる。
「あの声は……誰?」
少し震える声で続ける。
「……あの男の人は……?」
夢の中の男性の姿を思い出す。
漆黒の髪。
優しい微笑み。
それを思い浮かべただけで、
頬がじんわりと熱くなる。
ソフィアは小さく息を吐いた。
そして、思わず本音が漏れる。
「……かっこよかったな」
星明かりだけが差し込む部屋。
静かな夜の中で、
ソフィアはまだ、夢の余韻に包まれていた。
翌朝。
澄みきった空気の中で、エルナードとガシュは宿を後にした。
朝のアルセフィラはすでに目を覚ましている。
通りには行き交う人々の姿があり、店先では商人たちが準備を始めていた。
焼きたてのパンの香りや、遠くから聞こえる会話の声が、街に活気を与えている。
けれど二人は、その人の流れを横切るようにして歩き、
まっすぐ街の門へと向かっていた。
やがて石造りの大きな門が見えてくる。
門をくぐった瞬間――
街の喧騒は背後へと遠ざかった。
代わりに広がるのは、
風が草を揺らす音と、鳥のさえずりが響く静かな街道だった。
「行くぞ」
エルナードの声に、ガシュは元気よく頷く。
「うん!」
朝の光を浴びながら、二人は街道を歩き出した。
しばらく進むうちに、ガシュは足元の石ころを見つけては
ころころと蹴りながら歩いている。
石は道の上を転がり、
軽やかな音を立てて前へ進んでいく。
エルナードはそれを見て、ふっと笑った。
「それ、どこまで飛ばせるか競争するか?」
「やる!」
ガシュはぱっと顔を輝かせる。
そんな他愛ない会話を交わしながら、
やがて以前通った街道の分かれ道へと辿り着いた。
エルナードは迷いなく左へ折れる。
進路は――南。
目的地、ベレヌーの里の方向だ。
昼過ぎ。
太陽は高く昇り、
街道の先は陽炎でゆらゆらと揺れていた。
その時だった。
エルナードの視線が、前方で止まる。
道の脇に、見覚えのある乗り物が止まっていた。
街で見かけた、魔力で走る箱型の乗り物だ。
だが様子がおかしい。
片側の車輪が、
道端のぬかるみに深く沈み込んでいた。
半分ほど埋まった状態で、
完全に立ち往生している。
ガシュが首を傾げた。
「休憩してるのかな?」
「いや……違うな」
エルナードは地面を一目見ただけで判断した。
「タイヤが、ぬかるみにハマったんだ」
乗り物の近くでは、二人の女性が困った様子で立っていた。
どうやら運転していたのは彼女たちらしい。
エルナードは足早に近づき、声をかける。
「大丈夫ですか?」
女性の一人が振り返り、少し困った顔で答えた。
「ええ……どうしても抜けなくて」
ぬかるみに取られた車輪は、
押してもびくともしないようだった。
エルナードは少し地面を確認すると言った。
「手伝いましょう」
そう言って迷いなく車の後方へ回り込み、
腰を落とす。
泥に足を踏み込み、両手で車体を支える。
「……っ」
筋肉が軋む。
ぐっと力を込めると、
重い車体がゆっくりと浮き上がった。
女性たちが驚いた声を漏らす。
エルナードはそのまま慎重に横へとずらし、
ぬかるみから外れた場所へ移動させる。
そして安定した地面へと、そっと下ろした。
車輪はもう沈んでいない。
「わお……!」
若い方の女性が目を丸くする。
「力持ちね!」
もう一人の女性も、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
エルナードは少し照れたように笑った。
「どういたしまして」
すると、若い女性が興味深そうに尋ねる。
「お兄さんたち、どこへ向かってるの?」
エルナードは答える。
「僕らは……ベレヌーの里へ」
その言葉を聞いた二人の女性は、顔を見合わせた。
そして若い女性が、にっこりと笑う。
「それなら――」
楽しそうに言った。
「お礼に、森の入口まで乗せていってあげますよ」
「え?いいんですか?」
「もちろん」
女性は軽く肩をすくめる。
「お兄さんかっこいいし、お礼よ」
そう言って、ガシュの方を見て優しく声をかけた。
「可愛い坊やも、どうぞ」
ガシュは一瞬、エルナードを見上げる。
それから――
ぱっと嬉しそうに笑った。
エルナードとガシュは、魔道車の後部座席に並んで腰を下ろした。
外から見たよりも、車内はずっと広い。
座席は柔らかな革でできており、体を預けるとゆっくり沈み込む。
そして足元から、低く唸るような振動が伝わってきていた。
ぶうん、と静かな音。
それは機械の音というより、どこか生き物の呼吸のようにも感じられる。
どうやら魔力の流れが、この車を動かしているらしい。
窓の外では、街道の景色がゆっくりと後ろへ流れていった。
草原が広がり、
風に揺れる草が波のようにうねる。
石畳だった道も、やがて土の街道へと変わり、
遠くの丘や木々が少しずつ近づいてくる。
前の座席に座る女性が、振り返って穏やかに話しかけた。
「私たちはね、南東にある エル=カナン王国 に向かっているの」
「エル=カナン王国……」
エルナードは興味深そうにその名を口にした。
聞き慣れない地名だが、
この世界にはまだ知らない国がいくつもあるのだろう。
女性は続ける。
「大河の下流に広がる、肥沃な土地の国よ。
作物も人も多くて、賑やかな大国なの」
「なるほど……」
エルナードは静かに頷いた。
話を聞きながら、
この世界の広さを改めて実感していた。
千年前の世界とは、もう別の時代なのだ。
一方――
ガシュは座っていられない様子だった。
窓の外へ身を乗り出し、
流れていく景色を夢中で眺めている。
草原。
揺れる野花。
遠ざかっていく街道。
すべてが新鮮でたまらないのだ。
「ガシュ、あんまり乗り出すなよ」
エルナードは慌ててガシュの服の裾を掴み、軽く引き戻す。
「危ないからな」
それを見て、前の座席の女性たちはくすくすと笑った。
「坊や、魔道車は初めて?」
ガシュは少し照れたように、こくりと小さく頷く。
「……うん」
「そうでしょうね」
女性は楽しそうに言った。
「目が輝いてるもの」
ガシュはますます恥ずかしそうになり、
エルナードの腕にぴたりと寄り添った。
その様子を見ながら、エルナードはぽつりと呟く。
「……魔道車か。正直、欲しいな」
女性はくるりと振り返って答えた。
「南のエル=カナン王国や、北の ルメナール王国 みたいな大きな国なら売ってるわよ」
「ただし――」
少し肩をすくめる。
「魔力を使って動かすから、結構疲れるの。
長距離だと、慣れてない人はへとへとになるわね」
「なるほど……」
エルナードは納得したように頷く。
「便利だけど、万能じゃない……か」
そんな会話を交わしているうちに、
景色が少しずつ変わり始めていた。
遠くに見えていた木々が、
だんだんと近づいてくる。
やがて街道の両側に木が増え、
森の影が道へ落ち始めた。
空気も少しひんやりしてくる。
湿った土と葉の匂いが漂っていた。
魔道車はゆっくりと速度を落とし、
やがて森の手前で静かに止まった。
低く響いていた魔力の振動が、すっと静まる。
「ここが、森の入口よ」
女性がそう言った。
エルナードは車から降り、
深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
女性はにこやかに言った。
「助けてくれてありがとう」
そしてガシュに手を振る。
「じゃあね、坊や」
「バイバイー!」
ガシュも両手をぶんぶん振って応えた。
再び魔道車の低い音が鳴る。
ぶうん、と魔力が巡り、
車はゆっくりと動き出した。
やがて街道を南東へ向かって走り去り、
その姿は次第に小さくなっていく。
森の入口には、二人だけが残された。
目の前には、
深い緑に覆われた道が続いている。
――ベレヌーの里へ続く森が、静かに口を開けていた。
エルナードは、走り去っていく魔道車の背をしばらく見送っていた。
やがて車の姿は街道の向こうで小さくなり、
低い唸りのような魔力の音も、風に溶けて消えていく。
静けさが戻る。
ふと、エルナードは空を見上げた。
太陽はすでに西へ傾き、
空は柔らかなオレンジ色に染まり始めている。
森の影は長く伸び、
黒い帯のように地面へと落ちていた。
「……さてと」
エルナードは小さく息を吐く。
目の前には、深く暗い森の入り口。
木々は密に重なり、
その奥には昼間の光さえ届かないように見える。
「森に入るのは、明日だな」
その夜。
森の手前の草地には、
小さな焚き火が灯っていた。
パチパチ、と薪が弾ける音。
夜の空気はひんやりと冷たく、
遠くでは虫の声が静かに鳴いている。
火の揺らめきが、
草地と二人の影をゆっくりと照らしていた。
エルナードは手際よく寝袋を整え、
火の周りを確認している。
その横で、ガシュは薪を抱えて運びながら、
ふと顔を上げて尋ねた。
「ねえ、今日は……森に入らないの?」
「入らない」
エルナードは即答した。
そして森の暗い影へ視線を向ける。
「もうすぐ暗くなるだろ」
木々の奥はすでに黒く沈み始めている。
「未知の森だ。
暗闇の中で踏み込むのは、危険が多すぎる」
「……そっか」
ガシュは納得したように、大きく頷いた。
幼いながらも、その声色から
“本当に危ない場所”なのだと感じ取ったのだろう。
やがて準備を終え、
二人は焚き火を挟んで腰を下ろした。
簡素な晩ご飯を口に運ぶ。
だが自然と、二人の視線は森へ向いていた。
木々の輪郭はすでに曖昧になり、
奥へ奥へと闇が溜まっていくように見える。
ガシュが、ぽつりと聞いた。
「モンスターって……1000年前と同じなの?」
「どうだろうな」
エルナードは少し考えてから答える。
「この前のゴブリラは、1000年前からいた」
焚き火の炎が、エルナードの横顔を揺らした。
「でも、今は魔王の影響はなさそうだったな」
ガシュはじっと話を聞いている。
エルナードは続けた。
「昔のモンスターは、魔王に術をかけられていた」
火の中の薪が、ぱちりと弾ける。
「意思を奪われて、手駒として使われてたんだ」
ガシュは、ごくりと喉を鳴らした。
森の闇をちらりと見てから、
エルナードは静かに言う。
「この森なら……」
少し考え、言葉を続けた。
「ゴモヒか、ラビーガがいる可能性が高い」
「ゴモヒとラビーガって……どんなの?」
ガシュは膝を抱え、
真剣な表情で耳を傾ける。
「ゴモヒはな」
エルナードは説明する。
「人間の大人より少し小さい。
体は暗い藍色で、硬い毛に覆われてる」
焚き火の炎が揺れ、
影が森の方へ伸びる。
「集団で動いて、
旅人から奪った武器も使う」
少し苦笑して言った。
「ズル賢くて、厄介なやつだ」
ガシュは無意識にエルナードの袖を握った。
エルナードはそれに気づきつつ、続ける。
「ラビーガは体長二メートル以上ある犬型だ」
「皮膚は腐っていて……
近づくと、嫌な臭いがする」
「うぇ……」
ガシュは思わず顔をしかめた。
しばらく考えてから聞く。
「どっちが……怖い?」
エルナードは少し考えた。
そして答える。
「どっちもだが……ゴモヒかな」
森の暗がりを一瞥する。
「奴らは木の上から来る」
焚き火の光の向こう、
森の奥には静かな闇が広がっていた。
「森に入ったら、絶対に警戒を怠るな」
「……うん」
ガシュは小さく、しかしはっきりと頷いた。
その夜、焚き火の火はゆっくりと小さくなり、
森の入り口には静かな闇が満ちていった。
「よし。今日はもう休め」
焚き火の向こうで、エルナードが静かに言った。
「兄ちゃんは……寝ないの?」
寝袋に潜り込みかけていたガシュが、不安そうに顔を上げる。
「僕は見張りだ」
エルナードは焚き火の火を軽くつつきながら答えた。
「朝になったら交代しよう」
炎が小さく揺れ、橙色の光が草地を淡く照らす。
その先では、森が黒い壁のように広がっていた。
風が木々を揺らすこともなく、
虫の声も遠くでわずかに聞こえるだけ。
焚き火の音がなければ、
この場所は完全な沈黙に包まれていたかもしれない。
だが――
その静けさこそが、どこか不気味だった。
エルナードは剣にそっと手を添え、
森の闇を睨み続ける。
まるで、その奥に何かが潜んでいることを知っているかのように。
夜はゆっくりと流れ、
星々が空を横切っていく。
やがて――
夜がほどけ始めた。
空の色が、深い藍から淡い青へ変わり、
地平の向こうから白い光が滲み出す。
焚き火の名残はすでに消え、
草地には朝露を含んだ冷たい空気が漂っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
エルナードが千年の眠りから目覚め、ガシュと共に地上へ降り立ってから、物語は少しずつ動き始めました。
失われた百年の歴史。
書物から消えた魔王プリムナードの存在。
夢に現れた聖龍と巫女。
まだ多くの謎は残されたままですが、二人は確かにその真実へ近づき始めています。
今回の物語では、激しい戦いよりも、未知の世界を歩く旅の始まりを大切に描きました。
千年後の世界に戸惑いながらも前へ進むエルナード。
幼さを残しながらも懸命についていくガシュ。
二人が少しずつ絆を深めていく様子を感じていただけたなら嬉しく思います。
そして物語の終盤では、ついに聖龍の伝承と「巫女」の存在が姿を見せ始めました。
夢の中で出会ったエルナードとソフィア。
まだ互いの名も知らない二人ですが、その運命は少しずつ交わろうとしています。
ベレヌーの里には何が待っているのか。
聖龍とは何者なのか。
消された千年の歴史の裏には何が隠されているのか。
旅はまだ始まったばかりです。
これからエルナードたちが出会う仲間や人々、
そして彼らが辿る運命を、温かく見守っていただければ幸いです。
また次の物語でお会いしましょう。




