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感情が字幕で見える俺には、彼女の本音だけが読めない  作者: たら


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第一話 読めない春

黒板の上に貼られた紙が、まだ少し波打っていた。

入学式のあとに急いで貼ったのか、端のセロハンテープが斜めになっている。

二年一組。三年三組。自分の名前は一年二組の列にあった。


廊下は新しいワックスのにおいがした。上履きの底が床に吸いついて、歩くたびに、ぺ、と薄い音を返す。窓の外ではケヤキの枝が揺れていて、校庭の砂が風に削られる音まで届いてきた。


一年二組の札を見上げて、名取恒一は教室に入った。


机と椅子はもう並んでいて、黒板には「入学おめでとうございます」と丸い字で書かれている。白いチョークの粉が下の溝にたまっていた。窓側の列では、日向の部分だけ机の木目が少し白く飛んでいる。


教室の中では、みんな似たような顔をしていた。制服だけ先に着せられて、中身がまだ追いついていない感じ。新品の鞄。固い襟。声の出し方を探るみたいな会話。


恒一には、それとは別のものも見えていた。


男子が二人、出席番号表をのぞきこんでいる。片方の頭の上に、小さく文字が浮く。

『話しかけるタイミングミスった』


もう一人は、

『背高いな、こいつ』


前の席の女子は、机に手を置いたまま、

『スカート長すぎたかも』


その隣は、

『誰か先に声かけて』


いつものことだった。

人の感情が、短い字幕みたいに見える。ずっと前から。


長い文章じゃない。断片だけだ。

うれしい。うるさい。帰りたい。その程度。

笑っていても『早く終われ』が出るし、平気な顔の横で『こわい』が薄くにじむこともある。


便利ではある。

人間関係で派手に転ぶことは、ほとんどなかった。

誰が今しゃべりかけられたいか、誰が放っておいてほしいか、そのくらいは先に分かる。嫌われ始めたのも見えるし、好かれているのもだいたい分かる。


その代わり、面白みは薄い。

封を切る前に中身が分かる手紙みたいなもので、驚きだけがきれいに抜けていく。最近はとくにそうだ。初対面の教室でも、浮かぶ言葉はたいてい似ている。緊張。期待。失敗したくない。友達ほしい。退屈。


恒一は自分の席に鞄を置いた。窓から三列目、前から四番目。悪くない。前すぎず後ろすぎず。クラスのどこにでも顔を向けられる位置だった。シャツの袖が少しだけ長く、手の甲の上で余っていた。


「そこ、名取?」


横から声がした。

振り向くと、短く切った髪の男子が自分の名札と恒一の机を見比べている。


『話しやすそうで助かる』

字幕が出ていた。

立ったままの姿勢は少し崩れていたのに、恒一が目を向けると、久我はほんの一瞬だけ背筋を戻した。

合わせてきた、と思った。こういうときの返しは、だいたい外さない。


「そう。久我?」


「当たり。よろしく」


「よろしく」


久我悠斗は鞄を机に引っかけて、椅子を引いた。金具が床をこすって、耳の奥に細い音が残る。


「こういうとき、隣が無言のやつだと地味に困るよな」


「分かる」


「よかった。ちゃんとしゃべるタイプだ」


ちゃんとしゃべるタイプ、という言い方が少し雑で、でも嫌じゃなかった。久我の字幕はすぐ次に切り替わる。


『とりあえず一人確保』


恒一は机の角を指でなぞった。ざらついた木のささくれが爪に引っかかる。後ろでは笑い声が二回つづいて、すぐ止まった。


担任が入ってきて、出席を取り、名前順に簡単な自己紹介をさせた。

声の大きさより、字幕の方がよく見える。


『名字でいじられませんように』

『噛むな』

『早く終われ』

『前の子かわいいな』


みんな似たようなものだ。


朝倉澪の番が来たのは、窓の外の雲が少しずれて、教壇の影が黒板の右下まで伸びたころだった。


「朝倉澪です。よろしくお願いします」


声は高すぎず、低すぎず。教室のざわつきに埋もれないくらいの細さだった。長すぎない黒髪。袖口から出た手首が白い。名札の刺繍糸だけ、紺に近い群青で見えた。


その頭の上に、字幕が出る。


『失敗するな』

『目立つな』

『普通でいろ』


恒一はそれを見て、少しだけ顔を上げた。珍しい文ではない。入学初日に珍しい感情なんて、そうない。


朝倉が教壇から自分の席に戻る。通路を歩く速さもふつうだった。靴下の黒と上履きの白、その境目はきれいに揃って見えて、左だけがほんの少し下がっていた。席は恒一の斜め前だった。


椅子を引いて座る。そのとき、朝倉がほんの少しだけ横を向いた。視線が合った。


字幕が乱れた。


『近づくと終わる』

『こっちを見るな』


恒一は一度まばたきをした。


普段、感情が混線している相手はいる。うれしいのに不安だとか、話したいのに逃げたいとか。そのくらいなら珍しくない。けれど、こういう乱れ方は見慣れていなかった。普段は一行ずつ、駅の電光掲示板みたいに出る。今のは違う。濡れた紙にマジックを走らせたときみたいに、輪郭がにじんでいた。


朝倉はもう前を向いていた。首筋にかかった髪を、指先で二本だけ払う。動作は落ち着いている。肩も揺れていない。周りから見れば、ただ席に着いただけだ。


久我が小声で言った。


「朝倉、感じよさそうじゃね?」


『ちょっと話してみたい』

字幕がそのまま出ている。


「そうかも」


恒一はそれだけ返した。

口の中に、朝の歯みがき粉の薄い苦みみたいな感情がまだ残っていた。


ホームルームが進む。提出物の確認、校内案内の説明、明日の予定。担任の声は少しかすれていて、黒板にチョークが当たるたび乾いた音が弾けた。誰かがプリントをめくるたび、紙の縁が空気を切る。


朝倉の字幕は、前を向いているあいだ見えなかった。

たまに横顔がこちらをかすめる。そのたび、短く出る。


『平気』

『大丈夫』

『見るな』


平気と大丈夫の下に、細いひびみたいなものが混じっている。普通の感情表示じゃない。感情そのものより、貼りなおしたラベルの方が前に出ていた。


ホームルームの最後、担任が「近くの人と連絡先を交換してもいいぞ」と言った。教室の空気が一段だけ動く。机が鳴る。椅子がずれる。何人かが一斉に声の高さを上げた。


久我がスマホを出しながら、恒一の肩を軽くつついた。


「名取、先やっとく?」


「いいよ」


連絡先を交換しながら、恒一は斜め前を見る。

朝倉は後ろの女子に話しかけられていた。笑っている。口元だけなら、ちゃんと自然に見える。


字幕。

『ここは大丈夫』

『普通に返せ』

『続けられる』


その後、半拍遅れて、


『名取くんとはだめ』


恒一の指が画面の上で止まった。

久我が首を傾ける。


「どうした?」


「いや」


「フリーズしてるぞ」


「ごめん」


送信ボタンを押す。通知音が鳴る。小さくて乾いた音だった。

朝倉の方では、女子が二人増えていた。牧瀬由奈、と自己紹介していた子が輪の真ん中で笑っている。手振りが大きい。明るいが、押しつける感じはない。


朝倉もそこにいる。

馴染んでいるように見える。少なくとも、浮いてはいない。


『普通にやろう』

『今日は大丈夫そう』


どこにでもいる、高校の入学初日の女子の感情だ。

そのはずなのに、恒一の視線が触れた瞬間だけ、字幕がまた乱れた。


『こっち見ないで』

『でも話したい』


どちらかが本当で、どちらかがノイズ、というふうには見えなかった。両方がそのまま、同じ場所に押し込まれている。


久我が弁当の箸を持ったまま言う。


「今、朝倉さんのこと見てた?」


「見てない」


「目、合ってたじゃん」


「たまたまだ」


久我は「ふうん」とだけ言って、深追いしなかった。

『嘘ついてる』

字幕は出ていたが、その先までは入ってこない。そういう引き際が分かるやつだった。


恒一は唐揚げを一つ口に入れた。少し冷えていて、衣が硬い。咀嚼しながら、さっきの字幕を頭の中で並べる。


近づくと終わる。

名取くんとはだめ。

こっち見ないで。

でも話したい。


矛盾している。

でも、こうも揺れたまま残るのは珍しかった。体育館で目が合ったとき。昼休み、窓際から視線が触れたとき。それぞれで字幕が切り替わっていた。他の誰にも、そんなことはなかった。俺と目が合った瞬間にだけ、彼女の表示が崩れる。


俺が、ということだ。

俺が朝倉澪の字幕を乱している。


その事実が、机の角に貼りついたガムみたいに指先へ残った。剥がれない。きれいにしようとすると、余計に気になる。


放課後、下駄箱で靴を履き替えていたとき、朝倉が隣に来た。

偶然だろう。向こうも俺に気づいて、一瞬だけ手が止まる。


「……同じクラスだね」


声はごく普通だった。教室で聞いたときと同じで、細くて、無理に明るくしていない。


「そうだね」


恒一は答えた。

反射で字幕を見る。


『この人は危ない』


そこに出ていた。


恒一は少しだけ黙った。危ない、という言葉が自分に向いているとはすぐ分かる。けれど、それが嫌悪や警戒と同じ線にないことも分かった。棘のある色じゃない。もっと別の、触ると棚ごと崩れる箱に貼る注意書きみたいな出方だった。


朝倉は靴べらを戻して、顔を上げた。


「名取くん、だよね。朝倉です。よろしく」


「うん、よろしく」


それだけの会話だった。

朝倉は先に外へ出ていく。春の光が下駄箱の床に斜めに乗って、彼女のローファーの先だけを白くした。


恒一は靴のかかとを直しながら、その背中を見る。

嫌われているわけじゃない。そこは間違えようがない。けれど警戒されている。しかも、普通の初対面の警戒とは少し種類が違う。


俺が危ないんじゃない。

俺という存在が、あいつの中の何かに触る。


そこまで考えて、恒一はやめた。

分かったつもりで決めつけるのは簡単だ。今までずっと、見えた言葉を手がかりにそうしてきた。けれど、朝倉澪に関しては、それをやるほど遠ざかる感じがした。


下駄箱の外に出ると、四月の空気が顔に当たった。校門の脇では桜がまだ残っていて、枝先の花びらが風に揺れている。グラウンドの土と、植え込みの沈丁花が混じったにおいがした。


今日一日で、恒一が読んだ字幕はたぶん百を超えている。

緊張、期待、安堵、焦り、好奇心。新学期らしい感情が並んでいて、そのほとんどは予測の範囲内だった。読めるし、だいたい分かる。だから大きく驚かない。


でも朝倉澪だけが、手の中に入らない。

読めている。文字は見えている。なのに意味がつかめない。そんなことは、これまでほとんどなかった。


校門の手前で、朝倉が一度だけこちらを振り返った。

ほんの一瞬だった。すぐに前を向く。そのあいだに浮いた字幕は、短かった。


『少し遅かった』


恒一はその文字を見たまま、歩いた。

意味は分からない。


分からないまま残る文字は、靴の裏についた小石みたいに歩きづらい。

それでも、もう気にしないふりはできなかった。

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