落人伝説 2
中庭に面した廊下は、まるで蒸し風呂のようだ。目の前のほんの少し先に、陽炎が立ち上ってゆらゆらと揺れている。額に浮く汗をハンカチで押さえつつ、ふたりは小松のネームプレートを探して歩く。果たして、そのプレートが掲げられたドアは廊下の一番奥で見つかった。頷き合ったあと、そっとノックをして返事を待つ。
「はい」
するとすぐに返事があった。
「短大一年の、秋山まりあと石田幸代です。この間はお世話になりました。その件でご相談があって来ました」
「どうぞ」
小松の声は穏やかだ。それを聞いているだけで肩に入った無駄な力が抜けていく。「失礼します」と言ってからドアを開け、ふたりは小松の研究室へ足を踏み入れた。
部屋の中は雑然としている。入ってすぐに備え付けの円形のテーブルあり、椅子が何脚か置かれていた。その一脚に背の高い男性が窮屈そうに腰掛けている。衝立があって向こう側は見えない。テーブルセットを囲む背の低い棚の上には、書類や本が山積みとなっていた。
「おや、ちゃんと先生をやっているんだな」
茶化すような低音に驚き、声がした方に視線を向けると、足を組んで座っている男性が口元に笑みをたたえている。
切れ長の双眸と通った鼻筋はどこか甘やかで、かなり端正な容姿をしている男性だ。緩やかなパーマが掛かった髪を片方耳にかけており、こんな整った容姿の男性がなぜ小松の研究室にいるのか不思議でならない。
「そこの空いている椅子に座って。君たち運がいいね。今、コーヒーを淹れているところなんだ。そこにいる古沢准教授のご要望でね」
「ひどいな、口に出して強請ってはないぞ」
まりあと幸代は入り口すぐにある椅子にそれぞれ腰掛けた。軽口をたたき合うところをみると、ふたりは随分と気心がしれているようだ。衝立の向こうからは、徐々に香ばしい匂いが漂ってくる。それから数分も経たないうちに、小松はトレーに色と形がバラバラのマグカップを乗せて出て来た。
「それで、この間のことの何を相談したいんだい」
向かいの椅子に座った小松は、マグカップ片手に水を向けてくる。カップに手を伸ばしかけていたまりあは、一旦手を引っ込めた。
「先生、この間は相談に乗って頂いてありがとうございました。今日は幸代自身が相談に乗ってもらいたいということで、こちらにお伺いしました」
「そうだったんだね。石田くん、何か気になることがあるの?」
「それなんですけど! 眠ると、あの時に会った男の子の夢を見るから、怖くて眠れないんです。それに、まだなんか……おかしな感じがするっていうか。終わってない気がして」
小松がいい終わらないうちに、幸代の声が重なる。俯いてしまった肩は小刻みに震え、あまり記憶がなくても、自分に尋常ではないことが起こっていたのは理解しているようだった。先ほどまで陽気に喋っていたはずなのに、今は顔から血の気が失せてしまっている。こんな友人の姿などついぞ見かけたことはなく、まりあはただ瞬きを繰り返した。
「差し支えなければ、一体何があったのか聞かせてもらっても?」
様子のおかしな生徒を前にして、古沢はこの学校の准教授らしく質問を投げかけてきた。こちらに向けられる小松の視線に気がつき、頷く。幸代からも「大丈夫です」と答えが返ってきた。
「そう、じゃあ話そうか。実はこの間……」
小松は的確に、誇張することなく淡々と事件について話した。そうして古沢に話し終えると、幸代にこう続ける。
「そんなに気になるなら、お祓いを受けてみるのはどう?」
「お祓い、ですか?」
世間話を続けるような気安さで、小松が口にしたことに驚く。そんな近所のコンビニに行くような気軽さで、お祓いというのは受けられるのだろうか。
「M市にもお祓いをしてくれる神社はいくつかあるんだけど、石田くんはM浜のI神社に行くといいよ」
「え、先生、それはなんで?」
先ほどまで俯いていた幸代は、音がしそうな勢いで顔を上げ、食い気味に質問を続ける。小松はコーヒーをまた一口啜り、「なんで、か」と呟いた。
「石田くんがまみえた相手の、縁の神社かもしれないからかな」
「もう! 先生、それじゃぁわかんない!」
前のめりになった幸代は、シルバーサテンのサンダルを履いた足をばたつかせて抗議し始める。確かに、とまりあも隣で頷いた。『まみえた相手』というのは、多分、団地で会った少年のことを指している。しかし、その少年に所縁があるとは一体どういうことなんだろうか。
「石田くんの様子がおかしい時にね、『やすのり』という名前の少年の話をしていたんだけど、覚えてる?」
「え、私そんなこと言ってたんだ。すみません、覚えてないです」
「先生、私は聞き覚えがあります」
こちらを見て頷く小松は、テーブルの上に置いてある大きめの端末を取ると、そこに漢字ふた文字を書いた。それをふたりと古沢の前に差し出し、「ううーん」と唸る。
「やすのりって、漢字で書くとこうも書ける。安いに、徳。別の読み方は『あんとく』だね」
「え、それってどこかで聞いたことあるような……」
「うん、平家物語に出てくる『安徳』帝のことだね。史実では、壇ノ浦で身を投げたと書かれていることが多い。でも、この地域では別の落人伝説が語り継がれているんだ。S市のK山地区にね、M鍋家住宅という建物がある。ふたりは知っているかい?」
「おや、ここでその話が出るとは思わなかったな。面白そうだ、一体どんな仮説を立てたんだか」
興味津々といった様子を隠さない古沢は、マグカップを片手にそう笑う。まりあはこちらを見る幸代に首を振り、「いいえ、知りません」と答えた。
「そう、では少し昔話をしようか」
こちらを見て微笑んでいる小松の表情は、授業中とは違ってどこか生き生きとして見える。やはり、彼はこういった研究を好んでやっているようだった。そうして、昔話として小松が語ったのは次のような伝承である。




