陰陽衆
人気の無い天幕に足を踏み入れた貝塚は周囲を見渡した。血色の悪い顔にクマで縁取られた目は険しくすわっており、全面に不機嫌を滲ませている。
視線は支柱に貼り付けられた掛け算表で止まる。紙をしばし見つめた少年は、そのまま真下へと視線を下げた。積み重ねられた衣服の頂には小学生向けの漢字ドリルがあった。上には手慰みにしては凝った造りのオリガミが乗っている。海鷲とまでは気付かないまでも力強く飛ぶ鳥だという印象をもつだろう。それは今にも止まりかけていたが翼を上下させてひとりでに動いている。
海鷲を拾った貝塚は何かに気づいて鳥を光に透かしてみた。中で糸が這いまわるように蠢いている。しかし、この不可思議な光景を後回しに少年はその下にある変哲のない漢字ドリルを捲った。そこには機械的な緻密さで仕掛けられた札術が幾重にも挟まれており、互いに干渉することで脳を不快に搔きまわす不協和音を発している。有効なものに当たりをつけて複数備えておいたのだろうが術にも相乗効果というものがある。この周到性は迷惑極まりない。
「結界を超えられた理由は目印か。悪筆で模倣すらできない丸金じゃ成功しない。独学で術を習得した死神がいるのか。……あの短期間で?」
フワフワと不格好に空中を浮遊させ札を運ぶ少女に比べて、鳥に擬態させる手遊びまで加えられているのが気障ったらしい。
海鷲を手首で勢い良く振ると折り込まれた紙が綺麗に解けて手に収まる。それを合図に紙の上を這っていた線が不気味に形を変え、文字になりかけたところで暴れ出し、熱を持った時点で貝塚は破り捨てた。
この呪符は失敗だ。
「お ニ ぃ ぢャ」
人影の無い天幕で不快に濁りを持った声が足元から這い登ってくる。高音と低音が一音毎に入り混じり、声帯でないモノを震わせ音を作ってまで言葉を作ろうとする何かに貝塚は目を瞑り応える。
「どんな犠牲を払っても絶対に取り返してやる。お前だけでも。今度こそ」
疲れの見えるおぼつかない足取りで少年は天幕から出る。その手が遥々届いた札を無造作に手放すと瞬時に炎で包まれ消し炭となり風へ同化した。
すぐそこまで貝塚の絶望が帰ってきている。
地上から天上に向かって雨が降る。ビー玉の如き大粒が彩り豊かで幻想的な光景だ。水玉の中心には必ず暗紫色の円盤が内包されている。アスファルトから次々染み出す雨は看板に触れるなりドロリと金属を腐食した。屋根も、枝も、信号機も、天への道を阻むものすべてが蹂躙される。一帯が極彩色の雨に埋め尽くされている。
この密集する水玉が一直線に破裂する。
できた隙間に身を躍らせる黒い影は厚みで残っている安全な屋根を正確に蹴っては流れるように突き進んだ。素手から放たれるには強烈な石礫が散弾銃の如く水玉の核を貫けば泡立って霧散する。無害な残り香に構わない荒妻は全速力で自由に溶ける町を駆け抜けた。
この単騎一閃を強烈な風圧が頭上から抑え込む。重力に逆らう周辺の水玉ごと地上へ叩き落とされると、降って湧いた布引に間髪入れず額を捕捉されていた。
「どさくさに紛れて丸金を連れ去っちゃダーメ」
デコピンというには凶悪な撃鉄の如き衝撃は荒妻という化け物をもってしてものけぞらせた。黒く変貌した腕に抱えられていた少女は無茶な縦横無尽に付き合わされたせいで哀れにも白目を向いていた。
一時的に風圧でアスファルトに圧し戻された虹色の水玉は汚泥となって周辺を液状化させた。
「異常気象の大盤振る舞いだねえ」
靴底が溶けだすのを感じて各自屋根まで退避するが、連鎖反応なのか地上は泥沼を広げて周辺を陸の海へと変え始めた。家が傾きながら沈んでいく光景はさながら沈みゆく船だ。
その船の周りを泳ぐ外殻が背をのぞかせた。数えきれない灰色の甲殻類が子供なら丸のみできる大口で泥を飲んで地面の下に再び潜る。そこに残された波紋から、餌がドロドロになって落下してくるのを今か今かと待ちわびる虫の消化液が盛り上がって球体として地上から離脱する。
「地中魚群中心部に下方四十五度、ダイナマイト漁りゅう弾、集中」
遠方から村上のよく通る声が届く。
「射て!!」
爆音と共に低い放物を描いた砲弾が柔らかなっていた地中に潜り込み、時間をおいて鈍い音と激震を起こす。路面は先程の比ではなく沸騰して泡立つと湯気を立てながら緩やかに奇妙な形で固まった。
しばらくすると前衛的な廃墟と化した波立つ道を穴だらけの車体が底を擦りながら強引に現れた。破裂したタイヤを転がす動力は望月による人力で押し車のていもなしていない。
車の天井に立った仲前は厳つい砲撃を抱えたままへの字口の渋い顔で悪態をつく。
「畜生が」
車中で父親の奮闘だけを傍観していた茉莉が、安全になったのを察知して割れ窓から身を乗り出すと曲線を描きながら地面を覗く。車体の下には騒動の下手人が転がっていた。巨大過ぎるダンゴムシに似た何か。茉莉は虫の周辺に蔓の先端を漂わせ、無害とみるや打ち据えた。
無邪気か嫌悪か死骸をちぎっては投げる娘に気づいた望月は慌てて止めに入る。
「こら茉莉、死体損壊は止めなさい!」
荒ぶる茉莉花を抱き上げた望月は膝をついて哀れな死骸に片手を添える。
「……すまない、どうか安らかに」
この群衆が元はなんだったのか調べる術はない。虫だったにしろ、人だったにしろ、咲いた娘を抱える望月は奪うことになってしまった大量の命を悼んだ。娘の方は相変わらず我関せず定位置になりつつある父の肩に戻って満足したのか硬い頭に花を置いて花弁を揺らす。
そして彼の愛犬は車の反対側で人知れず別のダンゴムシを分解して遊んでいた。
傾いた電柱から村上が豪快に飛び降りて合流する。腹の傷に響いたのか一瞬顔を顰めたが、消化液でやられた服の一部を払い落しながら容赦なく虫を踏みつける。微動だにしないが外見通りの生態ならダンゴムシは死を迎えると退色する。地面を掘り返してすべて駆除できたのか確認する芸当はもちろんのこと、各所で浮上している虫群にトドメを刺してまわるのも不可能だろう。災害級の化け物が渾身の擬死を演じていないことを祈るばかりだ。
「行きはよいよいなんとやら。お片付けされて過疎ってた化け物が見回りをさぼってる間に充填されちまったんかねえ」
「いや」
望月は厳しく周囲を見据える。
「これは自然に増えたというよりは……」
アスファルトを泳ぐダンゴムシだけではない。連戦に次ぐ連戦でここら一帯は死骸だらけになっていた。多様性に富んだ暴力的な殺戮者ばかりが一丸となって基地の周りに集結しており、勾月村に至るまでの閑散とした廃墟と比べればここは燃え上がる戦場だ。
「基地にいた連中が変貌したかコウモリ野郎がステルス基地の攻略でばら撒いてる、ってところか?」
雨後の筍が如く、四方八方の裂け目や隙間から暗紫色の針金がギチギチと音を立てながら不気味な動きで現れる。
「私は後者だと嬉しいな」
一面から生える鉄線はジグザグと家を覆わんばかりの高さまで延伸していく。生物のようでいて機械的なそれらは空間を塗り潰すようにこちらを囲い込むと鋭い先端を一斉に中心に注目させ、花開くように表面を裂いて有刺鉄線の形状へと変容させた。
「害獣から来てくれるなら探す手間がない」
未知の敵に一分の躊躇いもなく布引は正面に踏み込む。巻き付けば人など簡単に引き裂くだろう鉄の異形であろうとも、腕に切断機でも備えているような女傑を前にしては雑草を刈る要領で一凪ぎに
していただろう。
強烈な刃が届く寸前で有刺鉄線は炎に包まれた。分厚く空までドーム状に覆い尽くす真紅の空から火の粉がチリチリと舞い落ちてくる。丸金に降りかかる火の粉を荒妻が払う。眼前を焼かれた布引は棒立ちのまま炎の壁の奥へと逃げ去る異形を見送ると、踊り狂う火に素手を差し入れて掬い上げた。
「熱くない」
赤い光は触れたそばから退色して空気に溶ける。
炎からスライム状の巨大な異形が現われた。中の泡沫が表層を破っていくつもの音を繋げ言葉を発する。
「数の不均衡ゆえの異変と説明を受けながら大量に魍魎共を滅する愚行を冒すとは乱世を長引かせるつもりか!?」
地面から針金とは違う数多の枝が互いに絡み捻じれ合いながら見上げる程の人面樹と化す。
「分霊体も根底は悪鬼羅刹の類。変貌を前後しようと素質は変わらぬのでしょう。丸金の管理では当然の帰結。陰陽五行の教えすら修業していないのだから」
マンホールの穴から泥が噴き上がり悪臭を放つ汚泥で人の形が練り上げられていく。陶器を焼き固める前のような老人が出来上がると、粘土劇の作り物めいた動きで首が傾ぐ。
「相変わらずの一騎当千ぶり大いに結構。目的にさえ通じれば万物の才知は求めん。鳥が密談を持ち寄ったと聞いて老体に鞭打ち出向いたぞ。要件はおおよそ察しもつくが」
炎の頂点から薄い板が落下する。掌サイズの安っぽいバッテリーだが、その表面には緻密な線が刻まれており、その溝に赤い光が流れて全て埋め尽くしたかと思うと内側から暴発して燃え上がる。
天上には黒い影が居た。詰襟を閉じる神経質な学ランの着こなし、不機嫌に歪んだ眉間、苛烈な感情の灯る目。貝塚は燃える靴で中空に立っていた。赤い光を一層強く纏ってはいるが異体で現れた集団の中で炎に照らされ色づきながらも唯一生身そのものに見える。
少年陰陽師の視線は仇とする少女にのみ向いていた。彼にとっては死神カマイタチの姿すら一分の興味も引いていない。
久しぶりの圧に酔いも忘れて丸金は荒妻に吊るされた不恰好な姿勢で気まずく地面一点凝視に逃げてしまう。
少年は口を開いたが発する暇を与えず、粘土の老人がいやに造形の細かい口をドロリと動かす。
「密談とは秘密の共有ではなく裏取引であり、本質は駆け引きとも言い換えられよう。さて、丸金」
「うぁはい!」
油断しきっていた丸金は声を裏返して息を呑む。大和は目の位置を左右に移動させて面妖な形相にて問う。
「まずはこの惨状について報告を聞いてみたいが?」
それは陰陽師として変貌者の数の優位性を傾けたことについてか。
死神という強力な使鬼を有しながらの満身創痍の様子についてか。
いや当然、死神に変貌した荒妻の顕現を解かずいるかについての詰問だ。おまけに人喰花に化犬まで引き連れて戻ってきた。使命の本質を考えれば事は裏切りに等しい。
仲前が大和の前に出る。
「ご覧の通りだ。変貌者は出したが」
「まず我が傘下にある菅原丸金の言葉でもって事情を説明させたまえ。卓越した論者から紡がれる要約や注釈の後では必要な情報が由々しきまでに埋もれかねない」
隠すことを諦めた自衛官は正直に舌打ちを漏らし、丸金の全身からは汗が噴き出す。駆け引きのためには伏すべき話もあるだろう。
その内容を丸金に判断できるか。
何より相手は丸金がどのように嘘をつくのか幼少期より知り尽くしている知己である。大人達の会話の中では話を擦り合わせていたのかもしれないが丸金はそれを理解できなかった。
愚直な言葉しか思いつけず喉が引き攣る。犬でも抱えるように丸金をぶら下げた荒妻の腕を強く握っても人ではない皮膚の感触が返ってくるだけで、変貌してしまった当人はどこまでも無関心で。
「丸金」
こうして困ると助け舟は必ず布引から出される。
「ズルい大人のマネをしなくたってそのまんま話せば良いんだよ。今までだって味方になって欲しい人には誠実にお願いしますが言えたじゃないか。駄目ならこのまま逃げちゃえばいいだけなんだから」
事もなげに言い切られた言葉には横槍も出ない。
「ね?」
得も言われぬ安心感が丸金を落ち着かせた。どんな失敗をしようと天真爛漫な笑顔を浮かべる鉄壁の暴君がなんとかしてくれる。そもそも菅原家は妖を使役する術師だ。人そのものを弄る行為こそが禁忌。この形こそが本来でもある。
力強く視線を上げた丸金に大和は片眉を上げる。
「荒妻さんと茉莉さんは危なくありません。悪い人に酷い事されたせいで変貌したけど姿が変わっただけで仲良しです! ジャスも良い子です! でもこのまま基地に帰ったらまた処分って言われるから助けてください!!」
荒妻にぶら下げられたまま言い切ったぞとばかりに力強く口を引き結んだが、あまりにも結論と要望しかない稚拙な内容で陰陽衆は押し黙る。
村上がしれっと話を繋げる。
「監視映像をもとにコウモリを追跡中、カマイタチ、タイタン、シザーの順に交戦する羽目になった。どいつも仕留め損ねたが致命的な情報がいくつか集まったから基地に報告しに戻りたいが御覧の通り都合が悪くてねえ」
スライムが威嚇を放つ。
「おい、今は丸金から話を聞くと大和様がおっしゃっているだろう。勝手に口を聞くな。隠し事で都合良く話を通す算段とみなすぞ」
「邪推ってもんだわ。どう考えてもマル語で難しい長話に翻訳なしは辛かろうとふんだ親切心だったのにぃ」
時系列が大事なのかと閃いた丸金は荒妻の腕を抜け出して大地に降り立つと一層熱を込めて身振り手振りで事情を説明する。
「ショッピングモールの監視カメラでお城にコウモリが映ってて、車で一回お城を見に行くことになったけど、お城にはコウモリじゃなくてカマイタチがいたので荒妻さんと布引さんが戦ったけど逃げられたので別の監視カメラ調べようってなって、地下鉄スラムに行ったらタイタンが現われたので、あれ? なんでヘリコプターで海に沈めたはずなのにいるのかなって分からなかったけど望月さんが引きつけている間に逃げることになって。あ、地下鉄スラムっていうのは地下鉄でいっぱい人が住んでるから人が住んでるよって判り易い名称にしてるらしくて」
「関係ない与太話は挟まなくていいから、致命的な話とやらに何故死神へ変貌するに至ったか、顕現解呪していないのかについてを端的に詳しく話せ!」
怒鳴られた丸金は肩を竦ませて縮こまる。
布引の眉尻がピクリと反応する。
仲前は深い溜め息をついて深刻な顔で口をはさむ。
「コウモリは姿こそ変貌しているが中身は村上海舟のままで意図的に人間を変貌させてることが判明したんだよ。この遠征自体が奴の罠だった。策謀を巡らせる人間が敵とくれば致命的に戦略が変わってくる。これはもう一刻も早く勝間陸佐に報告をしたいところだが、見りゃ解るだろ?」
「戻らない奴がいると怪しまれ、変貌しているのがバレたら糾弾される。進退窮まっちゃったんだよなあ、マル?」
「そ、そ、そうなんです!」
「だから菅原丸金の口から説明をさせろと大和様がおっしゃっているだろう! 全部お前達が話すんじゃない!」
元より報告は丸金の苦手分野だ。話はいつだって途中で取り上げられて推測の元で要約される。辛抱強く最後までニコニコ聞くのは布引くらいだ。長くなれば擬音と身振り手振りが増え始めて最終的には何を話したいのか分からなくなり目が泳ぐ。
もういいだろうとばかりに村上と仲前の連携で経緯の全貌が悪意と裏切りと危うかった部分を取り除いて語るので、丸金も「そんな感じでした」「怖かったです」「大変でした」という雑な相槌で話している体を装う。
「だから、そうではなく!!」
命令が蔑ろにされている事を厳しく追求するスライムと人面樹が恐ろしく、徐々に荒妻の後ろへ隠れつつある丸金は大和を盗み見た。老獪な陰陽師の見立て通り嘘の上手な大人達は仲違いや離反という危険な事実を握り潰し、避けようのない不幸な事故で変貌したかのように軽微な言葉に置き換えている。
これは無責任な逃げか、味方の背後を撃たない賢明なる撤退か。
力を借りにきている立場で怒らせてしまうのは悪手ではないかと不安になるが、後ろで刃物を素振りしている布引も何の準備をしているのかと別の意味で怖い。言葉を尽くし人懐っこく社交的な女性ではあるが最終的には暴論と拳で解決しがちなのが布引という人だ。聖が慕いながらも鬼畜と称する理由が最近ジワジワ身に染みつつある。
経緯と要望が伝わると大和は大仰に頷いた。
「善かろう。言い分を理解した」
そこに快諾や解決策といった求めるものは即座に続かず、人面樹は枝を広げて反対すら示した。
「あの基地において変貌者は処分の決まり。烏合の衆で公平性を失えば反発は必至。仕方がないというギリギリで保たれている人心を壊しかねない。私は反対です。カマイタチが戦力として必要なら解呪後に今一度顕現し直せば良い」
「然り。術に介入して分霊体の記憶を弄れるか試せる良い機会だ。荒魂を検体とするなら異議などありますまい。変貌を繰り返す原因が消せるとなれば、このくだらない茶番も必要なくなるでしょう。お許しいただけるなら俺が媒体を提供しても構いません」
スライムの申し出に対して人面樹も恭しく大和に頭を垂れる。
「この先に陰陽術の体系を絶やさぬ為にも優先すべきは貝塚の命です。この綱渡りを終わらせ、あらゆる術を継承する事に注力させられるなら私は五臓五腑とて捧げて構いません。どうかいい加減に貝塚をおたしなめください」
全身は冷たく頭には血がのぼり感覚を見失う。
ようやく繋ぎ留めることができた荒妻が危険かどうかに関わらず処分されようとしている。荒妻は哀れな身の上であるものの、残虐で悪の一面も色濃く含んだ人物だという事は理解している。
それでも丸金にとってこの荒妻晋作は死神でもイツビでも殺し屋でもなく、仇討ちを捨てて身を投げ出してまで守ってくれた裏切ってはならない人になっていた。
強く力をこめて荒妻の服を握り締めて丸金が半身を乗り出し必死に声をあげる。
「あの、解呪、あ、解呪、したりは、嫌、で」
悲惨な最後を遂げた父と母の顔が浮かばないわけではない。だが、どうあっても丸金に荒妻を手放す気はない。
「帰還したいが変貌者の存在は隠したく保護を求めるか。仇敵の再現者では受け入れられぬも道理。さりとて御した鬼を使うは陰陽師の根源である。その陳情しかと承ろう。腹黒狸となって数十年、化かすのは大和家の専売特許じゃからな」
望月は顔を曇らせる。
「無理難題に快諾いただき感謝しきれませんが、勝間一等陸佐は自分達に死神討伐を任せるのに初めから懐疑的です。どう言い訳したところで変貌や離反を疑われるでしょう。自分としては彼らに存在を譲歩してもらえるよう専門家として間に入っていただきたく」
「清廉潔白は時に災いをもたらす。此度のように真実は人を選んで明かさねば均衡が崩れ殺し合う相手が増えるぞ」
それは顕現されたことが公開された後に起きた血の光景を思い出させた。真実も理解も関係ない。変貌に感情が付き纏う限り死神の姿は誰かを絶望に追いやり犠牲を出すだろう。
「疑わせておけば良い。核心をつかまなければ処断できまいよ。堅牢であった基地もいまや貝塚陽炎という天才なくしては守護もまままならんのだからな」
この狂乱の時代に基地を実力で維持している部隊だ。期限付きの結界を猶予とは考えても疑惑に目を瞑る価値があるとするかは際どい。
だが、確定しなければ希望が残るのも人の性。陸佐は必ず被害の少ない方を選ぶだろう。本人がどちらを真実だととらえたとしても。
あれだけ反対していたスライムと人面樹は黙って恭順を示した。言動からして納得はしていないが決定には逆らわないらしい。
望月が触手を使って巻きついてくる芝犬と肩を定位置に咲く茉莉に手を添える。
「では自分が荒妻君を引き取って結界のどこかに身を潜め事態に備えよう」
仲前はうんざりしながら親指を荒妻に向ける。
「接着剤並みの粘着度でロリ丸にへばりついてるロリコンをどうやって引き離そうってんだ?」
「お巡りさんさぁ、そこの悪い虫が騒動に紛れて何度マルの誘拐を試みたか数えてる?」
そうなのだ。
勾月村を出てからというもの荒妻はまったく丸金から離れようとしない。犯行を試みては布引に取り押さえられているがトイレすらままならないのはさすがの丸金も閉口している。
悪びれた様子もなくあらぬ方角を見ている荒妻に大和は肩をすくめる。
「妖に憑かれるとはそういうものよ。どれほど人に似通い心を通わせたと思うても、騙し、かどわかし、人を喰らう。理からはずれ相容れぬが故に殺し合っているのだと努々(ゆめゆめ)忘れぬことじゃ」
「そもそも望月ちゃんだとあいつに触ろうとするだけで爪を立てられるだろ。お守りに適任なのはギリ布引ちゃん辺りだろうが今度は茉莉嬢が食料から離れらんねえときた」
会話できないのは茉莉も同じだが彼女の態度は雄弁で、機嫌次第ではあるのだが言葉に耳を傾けている節がある。それに引き換え荒妻は発声しないどころか何か伝える様子までない。丸金は掌をなぞる指文字で今まで通り対話できると主張するが、試しに差し出した布引の掌は見下ろすだけで、望月の掌はズタズタにされた。
「私も丸金と離れる気はないから待機組に回すのなら、いっそ仲前君と村上君だけで基地に行ってくれないかな」
「ご主人様の誘拐犯のお守りの見張りも必要、と。地獄の数珠繋ぎが完成しつつあるな」
「そこまで分散したら陸佐が目を瞑りたくても潰れなくなるわ」
丸金は荒妻の手を引いて視線を合わせる。
「あの、もしかしてお願いしたら私と離れて望月さんとお留守番してもらえたりは」
小さく首が振られる。
スライムは苛立ちを隠さず高説を述べる。
「使鬼は本来なら出しっぱなしにするものじゃない。必要に応じ道具として封じ召喚するもの。始めに習うような基本を使鬼術家本元である管原直系が知らんとは。甘やかされた娘だとは思っていたが先代からしてどういう躾をしてきたのやら」
「え!? いや、そ、それは、私が」
教えられていたとしても聞き流したか興味を持たなかったから。
記憶にカケラも掛からない知識に滝汗が流れる。家族郎党侮辱されているとはいえ聞かぬは一生の恥にして人命に関わる己が不始末。解決の糸口になりそうな悪口ならへりくだるしかない。この問題の解決策は当たり前のものとしてあるようなのだから。
上腕がスライムの上半身を薙ぎ払う。
体積の大半を失ったスライムは形を失って垂直落下で水溜まりとなる。薙いだ布引は拳を握ったまま笑顔で振り返る。
「躾の力加減はこのくらいかな?」
「布引君!」
望月が肩を押さえて布引の腕を捻り取り押さえる。しかし口元を押え白目を剥く丸金の慌てようとは違い他の大人は醒めたもので、何事もなかったように仲前が片手を大和に向ける。
「それで何を準備すりゃいいんだ?」
「古式ゆかしく妖怪を封じるとあらば禁則地を作り岩で塞ぐところだが、持ち歩いて手軽に召喚までしたいと申すなら陰陽術よりは仙術の類であろうな。五行各家でやりようが変わるゆえ菅原の秘術など教えられるべくもないが、ワシならば封じた者を呼び覚ます際には大仰な儀式を要する」
炎天から少年が地面に着地する。
「古い手法に寄らず術を道具へ付与するのが天才的に上手い現代っ子が一人身内におったような気もするな」
貝塚は正面から丸金を睨む。人面樹が恭しく大和に枝を差し出して滑らかな丸い木玉を三つ渡す。
「貝塚にアレをやらせるなら相生が媒体として御しやすいでしょう。私も先に戻り冷静を欠いた愚者を諫めてまいります。最良とは思えませんが後継である貝塚の患いが失せるなら協力は惜しみません。どうか優先すべき者をお間違えなきよう信じております」
樹木の繊維が枯れ細り解け落ちる。
貝塚が丸金から一切目を離さないまま大和の手の上で転がる玉に手を向けると、真っ直ぐに貝塚の手に飛来して握り込まれる。
「黄泉平坂」
木玉に火花一粒程度が点火する。鮮烈な赤い光は物理法則にそぐわない動きで表面に焦げ目をつけて丸を重ねた明瞭な紋様を描きあげた。細く立ち昇る白い煙を千切る勢いで丸金の正面に媒体が突き付けられた。
「地縛ではなく物に禁則地を作り妖を縛る。通常の封印より脆弱な代わりに放つのと封ずるのは簡易でいちいち儀式も要さない。ただし、封じた妖に首輪をつけられる都合の良い代物じゃないから安易に放てば使うどころか自由になった妖に殺されるだろうけどな」
「調伏していれば問題がないわけだ。やっぱり陰陽術ってのは媒体か術を構成する紋様の崩壊速度が強度と比例するって解釈で良かったみたいだな」
村上の呟きに、貝塚は初めて丸金から視線を外して他人を見た。
大和は丸金に命じる。
「顕現術と同様に術者と妖に共通した目印を刻み通じることで動力と鍵が成立する。新しく図案を生み出す労力は要すまい。顕現術で作った自作紋を流用しなさい」
「は、はい!」
丸金は貝塚に駆け寄り荒妻を封じるために作られた小さな玉を大事に受け取った。しかし、この扱いように微塵の抵抗も示さず聞いているのかすら怪しい荒妻にこのまま術を行使して良いものか不安と重圧で丸金は苦渋の梅干し顔で荒妻を見上げて固まった。
平和的に進行する話と、抵抗も暴れもしない布引の様子でもって望月は安堵の溜め息と共に謝りながら手を引いた。そこに茉莉が何を感じての行動か、布引の首に蔓で絞めて引き離しながら威嚇する。「暴力は止めなさい!」と望月は諫めるが、手を後ろに組んで無抵抗を示しながら布引は「ごめんね。茉莉のパパだから離れようね」と宥め理解を示す。
人の理から外れた同行者は荒妻だけではない。
大和は妖に憑かれたもう一人に焦点を向ける。
「優雅に図案を練る暇をとれず花の娘には不粋かも知れぬが、名が判っているなら文字そのままを紋にして執着先である望月羽秋に繋ぐとしよう。どう見ても丸金では手に余る」
茉莉は独占欲が強く丸金が望月に近づくと酷く荒ぶる。憑いていない時の茉莉は草を引き抜いたり木にぶら下がったり暇そうにしているので隣で一緒に留守番もできるが、そうすると今度は丸金の隣に憑いている荒妻の暴挙を思い出すのか思い出したように怪我のある背中を蔓で打つ。
周囲の人間関係や相性が日増しに複雑と化していく。仲裁役だった望月すら今や、とまで考えてすべきことから逃避にふける頭を振って荒妻に慎重に問答を仕掛けた。
「そういえば荒妻さんに聞かなきゃと思っていたことがあって」
目が合ったのを確認して、返事を聞くために荒妻に掌を向ける。
「荒妻さんの本当の名前は、イツビさん、なんですよね? その、今まではなんとなく嘘の名前で呼んでたけど、そろそろ変えた方が良いのかなって」
黒い指が丸金の小さな手に乗って『なんでもいい』と答える。
荒妻、イツビ、雨継、カマイタチ。すべての名前に後ろ暗い影がチラついて最適解を求める丸金自らでは選びにくい。常識としては不都合がなければ本名を選ぶべきだろうが。
困り顔になった丸金に荒妻は少し考える素振りをみせ、文字を綴る。
『どうせイツビも六十干支からとられた死ねば次に移る番号に過ぎない』
勾月村の男達は六十までが人員として数えられ、殺し屋として認められた時にイツビの呼称を移されたが番号はもはや必要ない。晋作もしつこい布引用に即興で考えたもので、彼女は高杉晋作からとったのかと笑い偽名と知りながら使う。
戸籍のない存在を秘匿された忍者に本名なんてものは無い。使い捨ての名を幾重にも上書きしては殺して捨てる。
だが優柔不断で正しい答えを選びたがる少女には自分でペットの名すら選べない。この姿を造り呼び覚ました健気で愚かな少女の為にとっさに作った名は、そう、丸金の為に作った名は一つ。
『呼び名は荒妻と』
片膝をついて荒妻が首を差し出す。
丸金は躊躇いがちに封じの玉を持ち上げると荒妻は端から輪郭を失い空気へ溶けていく。不安な顔でその様を見つめる丸金に荒妻が手を伸ばすと、その指はまろい頬に触れた感触も残さず消えてしまった。
ずっとそばを離れなかった姿が脳裏を焼いて、熱をもった媒体を両手に包み込んで祈るように額へ当てるとほんのわずかに鼓動を感じる気がした。
「お前が付け焼き刃の浅知恵で歪な術を使った外法だな」
貝塚がいつの間にか村上の前に立ち、前触れも見せずにナイフで手を貫いていた。丸金の眼帯が熱もなく灰と化して片目を奪っていたコウモリの視界が消える。
焦って片目を押さえても灰がこぼれ落ちるだけで術は戻らず何も見えない。
予想外の襲撃に痛みに呻く村上の声で、仲前がようやく「何してんだ!?」と声を上げた。貝塚は怒声にも動じずナイフの先端から垂れる血の雫を指で受け止めると炎に変えて、木を焼くのと同じ術で村上の手の甲を焼いて凶器を抜いた。
襲われた村上は脂汗を流しながら穴の空いた自身の手を見下ろして皮膚に直接焼き付けられた紋様を観る。仲前と望月が凶行を止めようと動けば、炎の盾を左右に展開して貝塚は村上に憎悪を込めて言い放った。
「定点カメラ程度の視界なら片目に手を当てるだけでスイッチできる。千里眼が使いたいなら他人の目を使わず自分の目で覗き見れば良い。安易な初等術だ。好きなだけ使わせてやる」
丸金の両目が久方ぶりにそろって正面の光景を映し出した。赤く垂れ続ける出血は手で押さえたぐらいでは止血できず蒼白になっていく。
炎の壁がない背後から布引が村上の手をとり傷口を圧迫しながら、自業自得と言わんばかりの呆れ顔を村上の方に向けた。
貝塚が腕を下ろすと進行を妨げた炎の盾は消え、少年は身を翻して次はショックで硬直した丸金に向かって険しい顔で詰め寄ろうとして、その横っ面を望月に平手打ちで止められる。
「陰陽術のなんたるかを知らない素人ではあるが、それが必要な手順であったとしても同意なく大怪我を負わせる免罪符にはならんぞ!」
ゆっくりと貝塚は冷たい視線を上げたが、高過ぎる望月の顔まで首を捻るのも怠いとばかりに丸金へと視線を戻した。
それでも足を止めたままの貝塚に望月は渋面で言葉を重ねる。
「君が菅原君の扱いに憤慨して我を忘れるのは当然の感情だ。それでも凶器を向ける前に言葉というものがあったはずだ。衝動的に人を傷つけることに慣れてしまえば、いずれそのつもりがなくても取り返しのつかない暴力を振るってしまう。法はなくとも、君も人として超えてはならない道徳を知っているはずだ」
貝塚の顔からは感情が抜け落ちていた。何も言えずにいる丸金を射抜く仄暗い目に望月の言葉は届いていない。道徳という言葉は死んで久しい懐かしい幽霊の姿をしている。
「お前にはやるべきことがある。道具の為に身を削ることじゃない。犬死にでも変貌でもない。達成すべき明確な目標を忘れるな」
静かで棘も熱もない声だった。
陶器の置き物のように身じろぎもせず観客の座についていた大和に向かって貝塚は二人分の封印球を放り投げた。
「過労で憤死する前に帰ります」
炎が足元から燃え上がると少年は一瞬にして消えてしまった。
大和は肩をすくめた。
「最近の若い者は老体を労る事を知らん。どういう躾をすれば陰陽総大に雑用を押し付け集団早退するようになるんじゃ。これが世の末か」
望月が酷い頭痛を堪えた様子で額を押さえる。その頭上で脱力した茉莉は周囲から人がはけたのに気を良くして尾のように蔓を揺らす。




