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結婚直前に捨てられた私を、嫌いだったはずの上司が迎えに来ました。  作者: 結城つむぎ
第1章 結婚直前に捨てられました

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第1話 結婚式まで、あと二か月

結婚式まで、あと二か月。


その言葉を頭の中で繰り返すたびに、桜井菜々子は少しだけ笑ってしまう。


「菜々子、顔に出てるよ」


隣の席から声がして、菜々子はパソコン画面から顔を上げた。


「何が?」


「幸せですって顔」


同期の佐伯美穂が、にやにやしながらこちらを見ている。


「仕事中なんだけど」


「知ってる」


「じゃあ仕事して」


「でもあと二か月でしょ?」


美穂がカレンダーを見る。


「十一月だっけ?」


「うん」


「いいなあ。もう準備ほとんど終わった?」


「全然」


菜々子は苦笑した。


「席次表もまだだし、引き出物も最終決定してないし、式場から確認メールが毎日のように来る」


「でも楽しそう」


「まあね」


そう。

忙しい。


仕事も忙しい。

結婚式の準備もある。


来月には新居への引っ越しも控えている。


それでも。

嫌ではなかった。


五年間付き合った藤堂和樹と、ようやく結婚する。


菜々子は三十二歳。

和樹は三十四歳。


交際が始まった頃は、結婚について具体的に考えていたわけではなかった。


でも。


一年。

二年。

三年。


一緒に過ごす時間が増えるうちに、いつかこの人と結婚するのだろうと思うようになった。


去年の冬。

和樹からプロポーズされた。


高級レストランでも、夜景の見えるホテルでもなかった。

二人でよく行く小さなイタリアンレストラン。


食事が終わったあと。

和樹は少し緊張した顔で言った。


菜々子、結婚しよう。


それだけ。


でも。

菜々子は泣いた。


嬉しくて。

本当に。


幸せだった。


「高瀬さん」


低い声に呼ばれて、菜々子は反射的に背筋を伸ばした。


「あ、はい」


企画部部長。

榊悠真。

三十六歳。


無駄なことは言わない。


仕事は速い。

判断も厳しい。


社内では密かに「冷徹部長」と呼ばれている。


「さっき送った企画書」


「はい」


「三ページ目、数字が去年のまま」


菜々子の顔が固まる。


「すみません」


「五時の会議までに直して」


「分かりました」


榊はそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。

美穂が小声で言う。


「怖」


「聞こえるよ」


「でも間違いは間違いか」


「そうなんだけど」


菜々子はため息をつく。


「もう少し言い方あるでしょ」


「榊部長にそれ求める?」


「求めるだけ無駄か」


「でも菜々子には特に厳しいよね」


菜々子は眉をひそめた。


「そう?」


「そうだよ。三浦くんが同じミスしても、そこまで冷たい顔しない」


「気のせいじゃない?」


「嫌われてる?」


「やめて」


菜々子はパソコンへ向き直る。


榊とは。

正直、相性がいいとは思っていなかった。


仕事の進め方も違う。

菜々子は細かく確認してから動きたい。


榊はまず結論を求める。

何度か会議でぶつかったこともあった。


それでも。

仕事ができる人だということは認めている。


ただ。

好きか嫌いかで言えば。


苦手だった。


午後七時過ぎ。


仕事を終えた菜々子は、駅へ向かいながら和樹にメッセージを送った。


今日どうする?


既読はすぐについた。


でも。

返事は来なかった。


「忙しいのかな」


和樹も商社勤務で、帰宅が遅いことは珍しくない。


菜々子はコンビニへ寄り、簡単な夕食を買う。

二人で住む予定の新居。


今はまだ。

菜々子が先に少しずつ荷物を運んでいるだけだった。

正式に一緒に暮らし始めるのは来月。


玄関を開ける。


「ただいま」


誰もいない部屋に、声が響く。

少し恥ずかしくなって。


菜々子は一人で笑った。


リビングには。


二人で選んだソファ。

ダイニングテーブル。


まだ箱に入ったままの食器。

冷蔵庫には何も入っていない。


でも。


ここに。

これから二人の生活が始まる。


そう思うだけで。

嬉しかった。


スマートフォンが震える。

和樹からだった。


ごめん。今日は遅くなる。


菜々子はすぐに返信する。


了解。無理しないでね。


少し待つ。

既読はつかない。


「そっか」


菜々子はスマートフォンを置く。


最近。

和樹は少し忙しい。


電話も減った。

メッセージの返事も短い。


前なら。

もう少し。


何時に帰るとか。

今日は何を食べたとか。

そんなことまで話していた。


でも。

結婚準備もある。


仕事も忙しい。

きっと疲れているのだ。


そう思った。

菜々子はテーブルにノートパソコンを開く。


式場から届いていたメール。


件名。

最終打ち合わせ日程のご確認。


その文字を見て。

また少し笑う。


「あと二か月か」


ドレスは決まった。

招待状も送った。


母は誰よりも楽しみにしている。

和樹の母も。


菜々子さんがお嫁さんに来てくれて嬉しい。


そう言ってくれた。

何も問題はない。


全部。

順調だ。

菜々子はそう思っていた。


午後十時半。


玄関の鍵が開く音がした。


「あ」


菜々子は立ち上がる。


「和樹?」


「うん」


和樹が入ってくる。


「おかえり」


「ただいま」


少し疲れた顔。

スーツのジャケットを脱ぐ。


「遅かったね」


「仕事」


「ご飯は?」


「食べてきた」


「そっか」


菜々子は少しだけ残念に思った。

一緒に食べられるかもしれないと。


少し待っていたから。


「ねえ」


菜々子はテーブルの上の資料を指さす。


「式場から最終打ち合わせの連絡来てた」


「ああ」


「来週の土曜か日曜、どっちがいい?」


和樹はネクタイを緩めながら言う。


「どっちでも」


「どっちでもって」


「菜々子の都合いい方でいいよ」


以前なら。

一緒に考えてくれた。


料理。

席。

音楽。


少し面倒そうにしながらも。

何だかんだ付き合ってくれた。


「和樹」


「何?」


「最近、疲れてる?」


和樹の手が一瞬止まる。


「何で?」


「何となく」


「仕事忙しいだけ」


「そっか」


「うん」


それ以上。

菜々子は聞かなかった。


きっと。

自分が神経質になっているだけ。


結婚直前で。

少し不安になっているだけ。

そう思うことにした。


「じゃあ土曜にするね」


「分かった」


和樹はスマートフォンを見る。


その画面を。

菜々子は何となく見てしまった。


メッセージの通知。

名前。


小野寺莉奈。


「あれ」


菜々子が言う。


「莉奈ちゃん?」


和樹の表情が、ほんの一瞬。


固まった。


「ああ」


「仕事?」


「うん」


返事が少し早かった。

菜々子は首を傾げる。


「こんな時間に?」


「急ぎの確認だって」


「そっか」


和樹はすぐに画面を伏せた。


それだけ。

本当に、それだけだった。


でも。

なぜか。


胸の奥に。

小さな引っかかりが残った。


菜々子はそれを。

気のせいだと思った。

思いたかった。


結婚式まで。

あと二か月。


今の自分が。

二か月後。


まったく違う未来を生きているなんて。


このときは。

まだ想像もしていなかった。

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