帳簿は、愛を美化しない
王宮文書取扱規定補則第八《おうきゅうぶんしょとりあつかいきていほそくだいはち》の施行七日目。
日程室の机には、もう赤い札はなかった。
仮運用。
その文字は、受付簿の奥へしまわれている。
今朝、机の上にあるのは、いつもの予定表だった。
外務儀典局との控室割当確認。
庭園式典雨天案確認。
南門修繕中の来客導線変更。
ノエルが予定表の端を揃えた。
「普通の予定ですね」
「はい」
私は羽根ペンを取る。
「普通の予定です」
ベネット卿が決裁印の箱を開けた。
「普通に戻るのは、簡単ではない」
午前八時四十分。
王妃陛下秘書官室から封書が届いた。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王妃陛下秘書官室。件名、王宮文書取扱規定補則第八初回週次確認および旧専属調整任務関連特別取扱終了について。受付印あり。回議番号あり。封緘あり」
ベネット卿が封緘を確認し、開封する。
文面は、三枚。
厚い。
けれど、紙の重さは、昔のように胸を塞がなかった。
本日をもって、王宮文書取扱規定補則第八の施行初回週次確認を行う。
確認事項。
一、各部署において、引用区分欄、個人名接続可否欄、接触経路可否欄、本人関与可否欄、聞取記録区分欄が運用されていること。
二、王太子府旧専属調整任務に関する特別確認は、王妃陛下秘書官室保存記録へ移管済み。
三、今後、同件に関する照会、確認、連絡、謝意、謝罪、所感要求、顕彰照会、教材接続は、日程室および職員個人へ行わないこと。
四、王宮儀典日程室は、本日以降、通常の日程、導線、配席、儀典調整業務に復帰すること。
五、補則第八施行日報は本日提出分をもって終了し、以後は月次確認に移行する。
私は四つ目で手を止めた。
通常業務に復帰すること。
短い一文だった。
でも、十分だった。
「分類しなさい」
ベネット卿が言う。
「王妃陛下秘書官室発、補則第八初回週次確認および旧専属調整任務関連特別取扱終了通知です」
「問題は」
「ありません。王太子府旧専属調整任務に関する特別確認は、王妃陛下秘書官室保存記録へ移管済み。日程室および職員個人への照会不可。日程室は通常業務へ復帰と明記されています」
「よろしい」
ベネット卿は、通知に確認印を押した。
ノエルが搬送簿へ写す。
特別取扱終了。
通常業務復帰。
その二行のインクが、静かに乾いていく。
午前九時十分。
外務儀典局から、控室割当確認の書類が届いた。
使節団副代表の控室変更に関する照会。
差出部署、外務儀典局。
経由、王妃陛下秘書官室。
件名、午後接見前控室割当確認。
回議番号あり。
封緘あり。
ベネット卿が開封する。
私は文面を読む。
控室変更理由。
随行医師による休息時間確保。
変更前控室、西控室三。
変更後控室、南控室一。
使用人数、三名。
使用時間、午後一時から午後一時四十分。
医務情報接続可否。
配慮区分のみ可。
症状名記載不可。
照会先区分。
部署宛、可。
個人宛、不可。
判断権限。
控室割当、外務儀典局。
導線確認、王宮儀典日程室。
警備確認、王宮警備局。
聞取記録区分。
直接聞取、不可。
記録責任者、外務儀典局接遇班主任。
ノエルが、文面を見て小さく息を吸った。
「最初から、欄が埋まっています」
「はい」
それ以上は、言わなかった。
「問題は」
ベネット卿が尋ねる。
「ありません。所管、導線、医務配慮、照会先区分、聞取記録区分、いずれも記載あり。手順上、異議なしです」
ベネット卿は確認票へ印を押した。
日程室異議なし。
午前九時四十五分。
控室割当確認は、午前連絡便に戻された。
ノエルが席に戻り、受付簿を閉じる。
「差戻しなしです」
「はい」
「普通に、通りました」
「はい」
窓から差し込む朝の光が、机の上に置かれた白い書類の束を、均等に照らしていた。
私たちは、次の公文書へ手を伸ばした。
午前十一時。
庭園式典雨天案の確認。
施設管理局から、屋根付き回廊使用可否の通知が届く。
王宮警備局から、来客導線変更の条件が届く。
外務儀典局から、使節団随行員の控室変更なしの通知が届く。
どの紙にも、補則第八の欄があった。
誰の名前も、近道に使われていなかった。
正午。
私は文官携行食を食べた。
無塩の硬餅。
乾燥果実。
水。
ノエルは机上の公文書を避け、自分の席で硬餅を齧っていた。
「月次確認になると、毎日は出さないのですね」
「はい」
「少し、寂しいです」
「書類が減るのは、よいことです」
ノエルは真面目に頷いた。
「はい。よいことです」
食後、水場で指先と口元を洗い、麻布で拭き、机を刷毛で払う。
午後一時半。
王妃陛下秘書官室から、初回週次確認の最終通知が届いた。
王宮文書取扱規定補則第八、初回週次確認。
日程室提出予定の施行週次報告を受領後、月次確認へ移行する。
旧専属調整任務関連特別取扱は、王妃陛下秘書官室保存記録へ移管済み。
王宮儀典日程室における日次報告義務は、本日分をもって終了。
職員個人への接触、照会、謝意、謝罪、所感要求、顕彰照会、教材接続の禁止は継続。
私は確認印を押す。
終わり、とは書かれていない。
でも、戻し先はもう日程室ではなかった。
午後二時十分。
私は、補則第八施行週次報告を起案した。
王妃陛下秘書官室宛て。
王宮文書取扱規定補則第八施行週次報告。
対象期間。
施行日より七日間。
適用件数。
王太子府内部改善記録関連、三件。
王宮楽団控室変更関連、一件。
王宮茶会配席変更関連、一件。
外務儀典局控室割当関連、一件。
主な効果。
一、職員個人名への謝意、謝罪、所感、顕彰接続を遮断。
二、本人署名、受領確認、異議確認を終結条件とする運用を防止。
三、規定制定経緯、仮運用担当、実務経験を理由とする個人宛照会を差戻し。
四、見習い職員への直接聞取、記憶照会を防止。
五、所管部署、記録責任者、戻し先、判断権限の明記を定着確認。
課題。
補則第八各欄の記載量が多く、簡略化を求める部署が発生する可能性あり。
対応案。
軽微扱い可否欄、根拠分類欄、照会先区分欄により、簡略化理由の記録を必須とする。
日程室所見。
補則第八の月次確認への移行について、手順上の異議なし。
旧専属調整任務関連特別取扱の終了について、日程室として異議なし。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
書き終える。
ベネット卿が文面を読む。
「よい」
「はい」
「最後の日報だ」
「はい」
「泣くなよ」
私は少しだけ瞬きをした。
「泣きません」
ノエルが横で、硬く姿勢を正した。
ベネット卿は何も言わず、統括官決裁印を押した。
午後二時四十分。
ノエルが封緘する。
王妃陛下秘書官室へ正本。
法務官室、会計監査室、王宮公報室、外務儀典局へ写し。
搬送簿に記録。
搬送者、ノエル。
「走るな」
ベネット卿が言う。
「はい」
ノエルは扉の前で立ち止まった。
「急ぎますが、走りません」
その返事は、最初の頃よりも、ずっと静かだった。
午後三時二十分。
ノエルが戻ってきた。
「王妃陛下秘書官室、法務官室、会計監査室、王宮公報室、外務儀典局、すべて受領印あり。秘書官室より、午後三時半の確認便にて回答予定とのことです」
「よろしい」
午後三時半。
王妃陛下秘書官室から、補則第八施行週次報告の受領通知が届いた。
王宮儀典日程室提出、補則第八施行週次報告を受領。
日程室所見を妥当とする。
補則第八施行日報は、本報告をもって終了。
以後、月次確認へ移行。
王宮儀典日程室は、通常の日程、導線、配席、儀典調整業務を継続されたし。
起案担当者個人への照会、顕彰、教材接続は引き続き不可。
私は、その最後の一文まで読んで、確認印を押した。
それで、日報は終わった。
午後四時。
南門修繕中の来客導線変更について、施設管理局から最終図面が届いた。
予定表の上では、明日の仕事がもう始まっている。
ノエルが図面を広げる。
「南門が使えない場合、東門から入れて、中央回廊を避けるのですね」
「はい」
「雨なら」
「庭園側の石畳が滑ります。警備局確認が必要です」
「外務使節が同時刻なら」
「外務儀典局の控室割当と接続します」
ノエルは羽根ペンを構えた。
「では、照会先は」
「施設管理局、王宮警備局、外務儀典局。日程室は導線確認」
「はい」
彼は迷わず、予定表に線を引いた。
夕刻。
私は予定表を閉じる前に、私的な覚え書きの欄へ書いた。
帳簿は、愛を美化しない。
羽根ペンを置く。
窓の外では、夕暮れの光が王宮の壁を淡く染めていた。
昔、殿下の言葉は、私の仕事を越えてきた。
愛している。
信じている。
君なら分かってくれる。
君にしか頼めない。
その言葉は、甘く聞こえた。
でも、帳簿には載らなかった。
載らなかったものは、責任にならなかった。
責任にならなかったものは、いつも私の体に残った。
夜に。
胃に。
指先に。
誰も見ない予定表の余白に。
だから私は、すべての感情を罫線の内側へと閉じ込めた。
愛ではなく。
謝罪ではなく。
美談ではなく。
誰かの気持ちを裁くためではなく。
次に誰かが壊れないように。
ただ、線を引いた。
ノエルが受付簿を棚へ戻す。
赤い札はない。
仮運用の札もない。
正式運用の札だけが、そこにある。
ベネット卿が決裁印をしまった。
「明日の一番は」
「南門修繕中の来客導線変更です」
「よろしい」
それだけだった。
日程室には、今日も紙の音だけが残った。
私は予定表の最後を見た。
補則第八施行日報。
終了。
月次確認へ移行。
旧専属調整任務関連特別取扱。
終了。
通常業務。
継続。
その下に、明日の予定が並んでいる。
南門修繕中の来客導線変更。
庭園式典雨天案確認。
外務儀典局控室割当確認。
いつもの仕事。
私の仕事。
殿下。
あなたの愛は、帳簿には載りません。
あなたの謝罪も。
あなたの後悔も。
私の署名欄には、置きません。
必要だったのは、綺麗な言葉ではなく。
次の人が壊れないための、線でした。
私はもう、あなたの物語の登場人物ではありません。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
本日、日程に異常なし。
完
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『王太子殿下、請求書は三十八件ございます 〜病弱な幼馴染を優先するたび私が公務を回していましたが、婚約解消したので予定表ごと返します〜』は、これにて完結です。
これは、愛や信頼という言葉の下で、ひとりの文官に押しつけられてきた公務、費用、責任、沈黙を、帳簿と予定表と公文書でひとつずつ正しい場所へ返していく物語でした。
リディアは、誰かを断罪するために筆を取ったわけではありません。
ただ、自分の机に置かれるべきではなかった紙を、正しい部署へ戻しました。
自分の名前で塞がれていた責任の穴に、欄を作りました。
自分の沈黙で終わったことにされていたものを、記録の上で終わらせました。
そして、その線は最後にはリディアだけでなく、ノエルやイーリス、まだ名前も出ていない誰かを守るものになりました。
帳簿は、愛を美化してくれません。
予定表は、誰かの甘い言葉を公務に変えてはくれません。
請求書は、誰が払うべきだったのかを、静かに残します。
だからこそ、そこにあった負担は「美しい思い出」や「仕方なかったこと」にはならず、確かに処理されるべきものとして残りました。
ここまでリディアの机に付き合ってくださった皆さまに、心から感謝します。
最後にお願いです。
ここまで読んで「面白かった」「リディアを見届けてよかった」と思っていただけましたら、評価・ブックマーク・感想で応援していただけると、とても嬉しいです。
完結後の評価やコメントは、作者にとって本当に大きな力になります。
リディアの予定表が閉じられる最後の瞬間までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
また次の物語でもお会いできたら嬉しいです。




