殿下、その謝罪文は接触経路です
翌月一日。
王宮文書取扱規定補則第八《おうきゅうぶんしょとりあつかいきていほそくだいはち》。
施行日。
日程室の受付簿から、赤い札は外されていた。
仮運用。
その文字は、もうない。
代わりに、正式運用の札が差し込まれている。
ノエルは、その札を少しだけ眩しそうに見ていた。
「今日から、本当に王宮全体の様式なのですね」
「はい」
私は予定表を開く。
「今日からは、日程室の工夫ではありません。王宮の規定です」
ノエルは頷き、受付簿の端を揃えた。
「では、間違えられませんね」
「仮運用の時から、間違えてはいけませんでした」
「そうでした」
ノエルは真面目な顔で、羽根ペンを持った。
ベネット卿が決裁印の箱を開ける。
「規定になった初日が、いちばん危ない」
「なぜですか」
ノエルが聞く。
「祝う者が出るからだ」
ベネット卿は淡々と言った。
「手順ができたことを、誰かの美談にしたがる」
午前八時四十分。
王妃陛下秘書官室から封書が届いた。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王妃陛下秘書官室。件名、王宮文書取扱規定補則第八施行初日確認について。受付印あり。回議番号あり。封緘あり」
ベネット卿が封緘を確認し、開封する。
文面は短かった。
本日より、王宮文書取扱規定補則第八を施行する。
日程室は、施行初日に発生する文書、照会、謝意、所感、顕彰、教材接続等について、手順上の確認に限り対応すること。
確認事項。
一、補則第八の各欄が使用されていること。
二、職員個人名を規定名、通称、教材名、顕彰記録として使用しないこと。
三、謝意、反省、所感、謝罪等を、職員個人への接触経路として使用しないこと。
四、王族本人名による文書であっても、直接伝達、間接伝達、感想照会、所見要求に接続しないこと。
私は、三つ目で手を止めた。
謝罪等を、職員個人への接触経路として使用しないこと。
もう、そこまで書かれている。
「今日の主眼は」
ベネット卿が尋ねる。
「謝罪文と接触経路の分離です」
「王太子府は何を出してくる」
「おそらく、施行に合わせた殿下の所感文です。謝意、反省、謝罪を含めて」
「だろうな」
ベネット卿は、箱の中の決裁印をまっすぐに置いた。
「反省も謝罪も、通路になる」
午前九時五分。
王太子府から封書が届いた。
ノエルが受け取る。
「差出部署、王太子府。件名、王宮文書取扱規定補則第八施行に伴う王太子殿下所感文案。受付印あり。回議番号あり。封緘あり。宛名は王宮儀典日程室統括官」
ベネット卿が開封する。
紙は一枚。
王太子府としては、珍しく薄かった。
私は文面を読む。
王宮文書取扱規定補則第八施行に伴う王太子殿下所感文案。
このたびの王宮文書取扱規定補則第八の施行を受け、王太子府として、過去の手順不備を重く受け止める。
今後、職員個人に負担を集中させず、各部署の責任において文書を処理する。
本補則の成立に尽力した関係各位、とりわけリディア・クラウゼン嬢に対し、王太子殿下より深く謝意と謝罪の意を示す。
可能であれば、本所感を日程室経由で同職員に伝達されたい。
私は、最後の一行を見た。
日程室経由で同職員に伝達されたい。
薄い紙なのに、重かった。
「分類しなさい」
ベネット卿が言う。
「王太子府発、王太子殿下所感文案です」
「問題は」
「謝意および謝罪が、リディア・クラウゼン個人名へ接続されています。また、日程室経由で本人へ伝達することを求めています」
「なぜ不可か」
「補則第八により、職員個人名への謝意、反省、謝罪、所感要求の接続は不可です。さらに、本件は接触経路として機能します」
「謝罪文でもか」
「はい。謝罪文でも、本人へ届ければ接触です」
ノエルが、受付簿の余白に新しい小さな仮欄を作った。
接触経路可否。
直接伝達。
間接伝達。
所感要求。
謝意接続。
謝罪接続。
戻し先。
判断者。
根拠規定。
線は細い。
けれど、まっすぐだった。
「返案を起案しなさい」
「はい」
私は羽根ペンを取った。
王太子府宛て。
王宮文書取扱規定補則第八施行に伴う王太子殿下所感文案について。
所感文案のうち、王太子府として過去の手順不備を受け止め、今後の文書処理を各部署の責任において行う旨の記載については、王太子府内部文書として整理可能。
ただし、以下の文言は、王宮文書取扱規定補則第八に抵触する恐れあり。
一、「リディア・クラウゼン嬢に対し、王太子殿下より深く謝意と謝罪の意を示す」
二、「本所感を日程室経由で同職員に伝達されたい」
謝意、謝罪、反省、所感は、職員個人名に接続してはならない。
また、日程室は職員個人への伝達窓口ではない。
王族本人名による文書であっても、直接伝達、間接伝達、感想照会、所見要求に接続する場合、接触経路として扱う。
修正文案。
このたびの王宮文書取扱規定補則第八の施行を受け、王太子府は、過去の手順不備を重く受け止める。
今後、職員個人に負担を集中させず、各部署の責任において文書を処理する。
本件に関する反省、謝意、所感は、王太子府内部改善記録に留め、職員個人への伝達、照会、所見要求には接続しない。
今後の運用は、補則第八および王妃陛下秘書官室の指示に従う。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
書き終える。
ベネット卿が文面を読む。
「よい」
「はい」
「謝罪を拒んだのではない」
「はい。伝達経路としての使用を不可としました」
「そこを間違えるな」
「承知しています」
ベネット卿は欄外に記す。
日程室確認済。
統括官決裁印が押される。
午前九時三十七分。
ノエルが封緘する。
王太子府へ正本。
王妃陛下秘書官室、法務官室、王宮公報室へ写し。
搬送者、ノエル。
「走るな」
「はい。急ぎますが、走りません」
ノエルは早足で出ていった。
午前十時八分。
ノエルが戻ってきた。
「王太子府、王妃陛下秘書官室、法務官室、王宮公報室、すべて受領印あり。王太子府から口頭伝言はありません」
「よろしい」
ベネット卿が頷く。
ノエルは、少しだけ息を整えた。
「ただ、王太子府の書記官が、謝ることも許されないのですか、と言いかけました」
ベネット卿の視線が冷える。
「どう返した」
「謝罪の可否ではなく、伝達経路の問題です、と」
「余計な説明は」
「していません」
「よろしい」
私は控えを見る。
伝達経路の問題。
そこが、今日の線だった。
午前十時四十分。
法務官室から通知が届いた。
王太子殿下所感文案における職員個人名接続および伝達要請について、日程室返案の方針を妥当とする。
謝罪、謝意、反省、所感は、それ自体の性質を問わず、特定職員への直接伝達または間接伝達を求める場合、接触経路として扱う。
当該職員への伝達、感想照会、受領確認、返答要求は不可。
私は、その一文に触れた。
乾いた黒いインクが、柔らかい言葉の中に隠れた通路を塞いでいた。
午前十一時十分。
王宮公報室からも通知が届いた。
王太子殿下所感文案について。
日程室返案の分類を採用可。
公報または庁内共有文として使用する場合、職員個人名、謝意、謝罪、反省表明、顕彰、所感要求に接続しない。
見出し化、標語化、引用不可。
使用する場合は、王太子府内部改善記録の一部として、補則第八施行後の運用方針に限る。
ノエルが、その文面を控える。
「見出し化、標語化、引用不可……」
彼が呟きながら、接触経路可否の仮欄へ、定規を使わずにまっすぐな線を足した。
インクの渇きが、言葉をただの記録に変えていく。
私は、その黒い線の先を黙って待った。
午前十一時四十分。
王妃陛下秘書官室から、中間承認が届いた。
王太子殿下所感文案について、日程室返案、法務官室通知、王宮公報室通知を踏まえ、王太子府へ修正を求める。
本日午後一時半までに修正文案を提出すること。
日程室は、修正文案の手順確認のみ行うこと。
なお、王太子殿下名による文書であっても、特定職員への直接伝達、間接伝達、受領確認、返答要求、所感要求に接続しないことを再確認する。
午後一時半。
期限が引かれる。
私は予定表に赤線を入れた。
正午。
私は文官携行食を食べた。
無塩の硬餅。
乾燥果実。
水。
ノエルは机上の公文書を避け、自分の席で硬餅を齧っていた。
「謝罪も、道になるのですね」
「はい」
「よい言葉でも」
「よい言葉ほど、通りやすいです」
ノエルは硬餅を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「では、道を閉じる欄が要りますね」
「はい」
それ以上は、言わなかった。
食後、水場で指先と口元を洗い、麻布で拭き、机を刷毛で払う。
午後一時二十分。
王太子府から、修正文案が届いた。
持ってきたのは、王妃陛下秘書官室の持参書記官だった。
直接持ち回り。
午後一時半の定期便へ承認控えを間に合わせるためだ。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王太子府。経由、王妃陛下秘書官室。件名、王太子殿下所感文修正文案。回議番号あり。回議板あり。先行部署、法務官室および王宮公報室確認印あり」
封緘ではない。
回議板の上には、すでにいくつもの印が並んでいた。
ベネット卿が読む。
私も横で確認する。
王太子殿下所感文修正文案。
このたびの王宮文書取扱規定補則第八の施行を受け、王太子府は、過去の手順不備を重く受け止める。
今後、職員個人に負担を集中させず、各部署の責任において文書を処理する。
本件に関する反省、謝意、所感は、王太子府内部改善記録に留め、職員個人への伝達、照会、所見要求には接続しない。
今後の運用は、補則第八および王妃陛下秘書官室の指示に従う。
接触経路可否。
直接伝達、不可。
間接伝達、不可。
受領確認要求、不可。
返答要求、不可。
所感要求、不可。
個人名接続、不可。
戻し先、王妃陛下秘書官室指定窓口。
根拠規定、王宮文書取扱規定補則第八。
私は、不可、という文字の列を見た。
冷たい。
けれど、正しい。
「問題は」
ベネット卿が尋ねる。
「ありません。謝意、謝罪、所感が職員個人名から切り離されています。直接伝達、間接伝達、受領確認要求、返答要求、所感要求はいずれも不可。手順上、異議なしです」
ベネット卿は確認票へ印を押した。
日程室異議なし。
持参書記官は一礼し、回議板を抱えて廊下へ戻っていった。
午後一時半。
王妃陛下秘書官室の午後定期便により、王太子殿下所感文修正文案の承認控えが届いた。
王太子殿下所感文、使用可。
ただし、使用範囲は王太子府内部改善記録に限る。
職員個人への伝達不可。
日程室経由不可。
受領確認要求不可。
返答要求不可。
所感要求不可。
公報利用不可。
教材利用不可。
顕彰接続不可。
私は予定表へ記入した。
王太子殿下所感文。
内部改善記録限定。
接触経路化不可。
午後二時。
王太子府から、短い受領確認が届いた。
王太子殿下所感文修正文案の承認控えを受領。
本所感は王太子府内部改善記録に留める。
日程室への追加照会なし。
リディア・クラウゼンへの伝達要求、受領確認要求、返答要求、所感要求なし。
私は最後の行を見た。
伝達要求なし。
受領確認要求なし。
返答要求なし。
所感要求なし。
四つの「なし」が、紙の上に並んでいた。
午後二時四十分。
法務官室から、補則第八運用細則案が届いた。
追加欄。
接触経路可否。
直接伝達可否。
間接伝達可否。
受領確認要求可否。
返答要求可否。
所感要求可否。
謝意接続可否。
謝罪接続可否。
戻し先。
根拠規定。
ノエルが、手元の下書きへ静かにペンを走らせた。
「制定経緯欄の後ろに、接触経路可否欄を置きます」
「さらに広くなりますね」
「はい」
「何のために」
ノエルは少し考えた。
「よい言葉を、勝手に人へ届けないためです」
ベネット卿が横から言った。
「悪くない」
ノエルが真顔で姿勢を正した。
午後三時。
王妃陛下秘書官室から、補則第八運用細則の追加通知が届いた。
以下の項目を追加する。
接触経路可否。
直接伝達可否。
間接伝達可否。
受領確認要求可否。
返答要求可否。
所感要求可否。
謝意接続可否。
謝罪接続可否。
戻し先。
根拠規定。
謝意、謝罪、反省、所感、顕彰、説明等の文書を用いる場合、当該文書が特定職員への接触経路として機能しないことを確認する。
私は、その最後の一文を視線でなぞった。
最高中枢のインクによって刷られた文字が、提出された所感文案の末尾を、冷徹に固定していた。
午後三時半。
私は、補則第八施行初日報告を起案した。
王妃陛下秘書官室宛て。
王宮文書取扱規定補則第八施行初日報告。
本日、王太子殿下所感文案において、接触経路可否欄を試用。
適用件数、一件。
効果。
一、王太子殿下所感文案における職員個人名接続を差し戻し。
二、謝意、謝罪、所感の職員個人への直接伝達および間接伝達を防止。
三、受領確認要求、返答要求、所感要求を遮断。
四、所感文を王太子府内部改善記録に限定。
課題。
謝意、謝罪、反省、所感、顕彰等の文書において、接触経路化の確認が未記載となりやすい。
追加提案。
補則第八運用細則に「接触経路可否」項目を追加することを提案する。
接触経路可否欄では、直接伝達可否、間接伝達可否、受領確認要求可否、返答要求可否、所感要求可否、謝意接続可否、謝罪接続可否、戻し先、根拠規定を記載する。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
ベネット卿が読み終える。
「よい」
統括官決裁印が押された。
午後三時五十分。
ノエルが封緘する。
王妃陛下秘書官室へ正本。
法務官室、王宮公報室、王太子府へ写し。
搬送簿に記録。
午後四時。
施行初日報告は、午後連絡便に乗った。
夕刻。
予定表を閉じる前に、私は私的な覚え書きの欄へ書いた。
謝罪は、相手に届く形を取った瞬間、接触になる。
羽根ペンを置く。
窓の外では、夕暮れの光が王宮の壁を淡く染めていた。
昔の私は、謝罪を待っていたのかもしれない。
あの時、ひとこと謝ってくれたら。
分かっていると言ってくれたら。
悪かったと認めてくれたら。
そうすれば、少しは救われるのではないかと、思ったこともあった。
でも、今なら分かる。
謝罪は、私の机に置かれるものではない。
私の返答を求めるものでもない。
私の受領印を必要とするものでもない。
殿下の反省は、殿下の手順の中に置けばいい。
王太子府の記録に。
内部改善欄に。
次の運用に。
私の机へは、戻さなくていい。
よい言葉でも、道になる。
柔らかい言葉でも、扉を叩く。
だから、欄を置く。
接触経路可否。
直接伝達不可。
間接伝達不可。
返答要求不可。
所感要求不可。
ノエルが受付簿を棚へ戻す。
ベネット卿が決裁印をしまう。
日程室には、今日も紙の音だけが残った。
殿下。
その謝罪文は、接触経路です。
本当に反省したと言うのなら。
私に届けず。
あなたの手順の中へ、綴じてください。




