殿下、その完了印はまだ押せません
二日後。
王太子府内部改善研修の当日、日程室の受付簿には、また一つ欄が増えていた。
軽微扱い可否。
「これくらい」
「念のため」
「一言だけ」
「見るだけ」
「聞くだけ」
そういう言葉が、正式手続きの省略理由として使われていないかを確認する欄だ。
ノエルは、朝からその欄を二度、三度と見直していた。
「多くなりましたね」
「多くなりました」
私は頷く。
「でも、これで拾えるものも増えます」
「拾う、ですか」
「はい。見落とされていた危険を」
ノエルは少し考え、欄の端を指でなぞった。
「昔なら、危険ではなく、気遣いの言葉に見えたかもしれません」
「そうですね」
これくらい、という言葉は、たいてい柔らかい顔をしてやって来る。
柔らかいからこそ、扉を開けてしまう。
開けてから気づく。
その向こうに、余分な仕事と、誰か一人の沈黙が積まれていることに。
午前八時四十五分。
王妃陛下秘書官室から、封書が届いた。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王妃陛下秘書官室。件名、王太子府内部改善研修当日取扱いについて。受付印あり。回議番号あり。封緘あり」
ベネット卿が封緘を確認し、開封する。
文面は、簡潔だった。
本日午前十時より、王太子府第三会議室にて内部改善研修を実施。
使用教材は、法務官室監修の架空事例に限る。
日程室職員の同席なし。
日程室は、実施開始確認、終了確認、実施記録方式の手順確認に限り対応すること。
王太子殿下の自筆反省文は、王妃陛下秘書官室および法務官室立会いのもと別封緘保管。
日程室への提示、写し共有、閲覧希望確認は不可。
私は読み終え、息を吐いた。
「問題ありません」
「本当にか」
ベネット卿が尋ねる。
「はい。日程室の関与範囲が限定されています」
「では、今日は何を見る」
「研修が行われたことではなく、手順が守られたことを見ます」
ベネット卿は頷いた。
「よろしい」
午前九時十分。
王太子府から、研修開始前確認の書類が届いた。
件名。
内部改善研修実施直前確認について。
添付。
一、研修実施予定表。
二、出席者一覧。
三、使用教材一覧。
四、研修実施記録末尾文案。
最後の項目で、私は少しだけ目を細めた。
末尾文案。
ベネット卿が先に読む。
それから、私へ渡した。
「確認しなさい」
「はい」
予定表。
午前十時、開会。
午前十時五分、王太子殿下冒頭発言。
午前十時十五分、第一事例。
午前十時四十五分、第二事例。
午前十一時十五分、第三事例。
午前十一時四十分、第四事例。
午前十一時五十五分、確認事項整理。
正午、閉会。
出席者。
王太子府職員。
法務官室書記官一名。
王妃陛下秘書官室記録官一名。
日程室職員、同席なし。
そこまでは問題なかった。
使用教材一覧にも、実在人物名はなかった。
第一事例。
責任部署不明の口頭依頼が流入した場合の処理。
第二事例。
費用負担元未確認の変更依頼が発生した場合の処理。
第三事例。
称賛、謝意、反省表明が個人名に接続される恐れのある場合の処理。
第四事例。
実在職員の経験を教材化しようとする照会への対応。
私は、そのまま末尾文案へ視線を移した。
研修実施記録末尾文案。
本研修の実施をもって、王太子府における旧来の公務運用上の問題は改善完了とする。
そこで、指が止まった。
改善完了。
早い。
あまりにも早い。
「分類しなさい」
ベネット卿が言った。
私は、息を整える。
「王太子府内部改善研修に関する実施記録末尾文案の照会です」
「問題は」
「研修の実施と、改善の完了が混同されています」
「続けて」
「本日行われるのは研修です。改善手順の定着、再発防止、次回確認、担当部署の運用確認は、まだ実施されていません。したがって、現時点で『改善完了』と記録することは不可です」
「表現は」
「『研修実施済』または『改善手順確認開始』に留めるべきです」
ノエルが引用区分欄を開く。
原文引用。
条件付。
要約。
条件付。
見出し使用。
不可。
標語化。
不可。
個人名接続。
不可。
実例使用。
不可。
架空事例使用。
可。
教材化。
可、ただし法務監修教材に限る。
個人宛て表明。
不可。
軽微扱い可否。
不可。
備考。
ノエルのペンが止まる。
「軽微扱い不可、でよろしいですか」
「はい」
私は言った。
「『研修をしたのだから、改善完了でよい』という扱いは、軽微ではありません」
ベネット卿が頷く。
「返案を起案しなさい」
「はい」
私は羽根ペンを取った。
王太子府宛て。
内部改善研修実施直前確認について。
研修実施予定表、出席者一覧、使用教材一覧について、日程室として手順上の異議なし。
ただし、研修実施記録末尾文案について、以下の通り修正を要する。
原案。
本研修の実施をもって、王太子府における旧来の公務運用上の問題は改善完了とする。
上記文案は、研修の実施と改善の完了を同一視する恐れあり。
本日確認可能なのは、研修の実施、使用教材、出席者、確認した改善手順である。
改善の完了は、今後の運用記録、担当部署確認、再発防止措置の実施結果、および次回確認日を経て判断されるべき事項である。
よって、末尾文案は以下の表現に改められたい。
本研修において、王太子府は職務境界、責任部署、記録方式、確認手順に関する改善手順を確認した。
今後、担当部署ごとの運用記録を作成し、次回確認日において実施状況を点検する。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
書き終える。
ベネット卿は文面を上から下まで確認した。
「よい」
「はい」
「完了は、誰が言いたがる」
「終わらせたい側です」
「その通りだ」
彼は欄外に記す。
日程室確認済。
統括官決裁印を押した。
午前九時三十五分。
ノエルが封緘する。
王太子府へ正本。
王妃陛下秘書官室、法務官室へ写し。
搬送者、ノエル。
「走るな」
「はい。急ぎますが、走りません」
ノエルは早足で出ていった。
午前九時五十五分。
王妃陛下秘書官室の持参書記官が、日程室に入室した。
王太子府へ回付する研修実施記録末尾文案について、日程室確認印を直接回収するためだった。
ノエルが戻る前だったため、私は主任調整官代理として受付簿を引き取り、持参書記官の提示した回議板の上で、差出部署、件名、回議番号、および先行部署である法務官室の確認印を確認した。
ベネット卿が文案を読む。
そこには、先ほどの日程室返案を反映した修正文があった。
本研修において、王太子府は職務境界、責任部署、記録方式、確認手順に関する改善手順を確認した。
今後、担当部署ごとの運用記録を作成し、次回確認日において実施状況を点検する。
改善完了、という文字は消えていた。
「問題は」
ベネット卿が聞く。
「ありません。日程室として、手順上異議なしです」
ベネット卿は確認票へ印を押した。
日程室異議なし。
持参書記官は一礼し、午前十時の開始に間に合わせるため、廊下へ戻っていった。
午前十時。
王太子府第三会議室で、内部改善研修が始まった。
日程室は同席しない。
私も、ノエルも、そこにはいない。
けれど、予定表の上で、時刻だけは進む。
午前十時十二分。
王妃陛下秘書官室から、開始確認が届いた。
王太子府内部改善研修、定刻開始。
使用教材、法務官室監修の架空事例四件。
日程室職員同席なし。
王太子殿下冒頭発言、承認文案通り。
問題なし。
私は予定表に記入した。
定刻開始。
承認文案通り。
同席なし。
その三行で、十分だった。
午前十時四十分。
法務官室から、確認票の写しが届いた。
研修実施記録末尾文案。
改善完了表現、削除済。
次回確認日欄、追加済。
担当部署別運用記録欄、追加済。
私はその文面を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
完了ではなく、確認。
終了ではなく、次回。
そこまで来て、ようやく記録は前へ進む。
午前十一時二十分。
王太子府から、研修中間確認が王妃陛下秘書官室経由で届いた。
第三事例まで終了。
称賛、謝意、反省表明が個人名に接続される恐れのある場合の処理について、法務官室書記官より説明済。
王太子府職員より、個人宛て謝意欄の要否について質問あり。
回答。
個人宛て謝意欄は設けない。
謝意または反省表明は、職務改善記録に置き換える。
私は、その回答のインクを指先でなぞった。
紙の向こうは、静かだった。
けれど、そこにはもう、私が引く必要のない線が確かに引かれていた。
正午。
研修終了予定時刻。
私は文官携行食を食べた。
無塩の硬餅。
乾燥果実。
水。
ノエルは、机上の公文書を避け、自分の席で硬餅を齧っていた。
「終わりましたかね」
ノエルが小さく言う。
「予定通りなら」
「終わることと、終わったことにすることは違うのですね」
「はい」
私は水を飲む。
「今日は、それを見ています」
食後、水場で指先と口元を洗い、麻布で拭き、机を刷毛で払う。
午後零時三十五分。
王妃陛下秘書官室から、研修終了確認が届いた。
王太子府内部改善研修、正午閉会。
使用教材、承認済み架空事例四件。
王太子殿下自筆反省文、研修終了後、王妃陛下秘書官室および法務官室立会いのもと別封緘保管。
日程室への提示なし。
関係職員への閲覧希望確認なし。
研修実施記録、作成中。
私は、そこまで読んで、息を吐いた。
提示なし。
閲覧希望確認なし。
その二行が、今日も私の机を守っていた。
午後一時十分。
王太子府から、研修実施記録の速報案が届いた。
王妃陛下秘書官室経由だった。
持参書記官が、日程室の確認印をその場で回収するために入室する。
文案は、午前の修正通りだった。
実施日時。
出席者。
使用教材名。
確認した改善手順。
今後の担当部署。
次回確認日。
備考。
反省文は王太子府内部統制記録として別封緘保管。
研修実施記録への引用、要約、添付、関係職員への提示なし。
末尾。
本研修により確認された改善手順について、王太子府各担当部署は次回確認日までに運用記録を作成し、王妃陛下秘書官室および法務官室へ提出する。
私は末尾を確認した。
改善完了、という文字はない。
「問題は」
ベネット卿が聞く。
「ありません。日程室として、手順上異議なしです」
ベネット卿は確認票へ印を押す。
日程室異議なし。
持参書記官はそれを受け取り、午後一時半の定期便へ滑り込ませるため、すぐに戻っていった。
午後一時半。
王妃陛下秘書官室の午後定期便により、研修実施記録速報の承認控えが届いた。
王太子府内部改善研修。
実施済。
改善完了とは記載せず。
次回確認日、七日後。
担当部署別運用記録の提出を要する。
反省文、別封緘保管。
日程室および特定職員への提示不可。
私は予定表へ記入した。
研修実施済。
改善完了、不可。
次回確認日、七日後。
その三行を見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。
終わったことにしない。
それだけで、こんなにも違う。
午後二時。
王太子府から、短い受領確認が届いた。
研修実施記録速報の承認控えを受領。
次回確認日まで、担当部署別運用記録を作成する。
日程室への追加照会なし。
リディア・クラウゼンへの所見要求なし。
私は、最後の行を見た。
所見要求なし。
昨日も見た言葉だ。
でも、今日は少し違って見えた。
昨日は、扉が閉まる音だった。
今日は、廊下が静かになった音だった。
午後二時四十分。
法務官室から、運用記録様式の写しが届いた。
担当部署名。
改善対象手順。
実施日。
確認者。
再発防止措置。
逸脱発生時の戻し先。
次回確認日。
備考。
軽微扱い可否。
私は最後の欄で手を止めた。
もう入っている。
軽微扱い可否。
ノエルが、横からそっと覗き込んだ。
「採用されています」
「そうですね」
「早いですね」
「早いですが、昨夜からの流れがあります。仮運用です」
ノエルは少しだけ口元を引き締めた。
「くらい欄ではなくなりました」
「正式名称になりました」
「少し、寂しいです」
私は思わず、ほんの少しだけ笑った。
ベネット卿がこちらを見た。
「何か」
「いいえ」
ノエルは真面目な顔に戻った。
午後三時。
王妃陛下秘書官室から、引用区分欄仮運用継続通知が届いた。
前日の日程室提案を受け、以下の項目を追加する。
個人宛て表明可否。
軽微扱い可否。
完了表現可否。
私は、最後の欄を見つめた。
完了表現可否。
今日の欄だ。
ノエルが、すぐに受付簿の下書きへ追記する。
「完了表現可否。『完了』『解決済』『整理済』『問題なし』等の表現が、実施確認または再発防止措置の確認前に用いられていないか」
ベネット卿が言う。
「よい」
ノエルの肩が、また少し上がった。
午後三時半。
私は、仮運用三日目報告を起案した。
王妃陛下秘書官室宛て。
引用区分欄仮運用三日目報告。
本日、王太子府内部改善研修の実施記録に対し、引用区分欄、個人宛て表明可否欄、軽微扱い可否欄を試用。
適用件数、六件。
効果。
一、王太子殿下自筆反省文について、特定職員への提示および閲覧希望確認を防止。
二、研修実施記録における「改善完了」表現を削除し、次回確認日および担当部署別運用記録へ置換。
三、軽微表現による手続き省略を防止。
課題。
研修実施と改善完了の混同が発生しやすい。
追加提案。
引用区分欄に「完了表現可否」項目を追加することを提案する。
完了表現可否欄では、「完了」「解決済」「整理済」「問題なし」等の表現が、実施確認、再発防止措置、次回確認を経る前に用いられていないかを確認する。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
ベネット卿が読み終えた。
「よい」
決裁印が押される。
午後三時五十分。
ノエルが封緘する。
王妃陛下秘書官室へ正本。
法務官室、王太子府、公報室へ写し。
搬送簿に記録。
午後四時。
報告書は午後連絡便に乗った。
夕刻。
予定表を閉じる前に、私は私的な覚え書きの欄へ書いた。
完了は、願望ではなく確認である。
羽根ペンを置く。
窓の外では、夕暮れの光が王宮の壁を淡く染めていた。
昔の私は、終わったことにするのが得意だった。
大丈夫です。
問題ありません。
処理済みです。
そう書けば、場は進んだ。
誰かが安心した。
殿下も、周囲も、私自身も。
でも、終わったことにした紙の下で、何も終わっていないものが残り続けた。
眠れない夜。
戻ってくる依頼。
曖昧な口頭伝言。
誰も担当しないまま、私の机に置かれる紙。
だからもう、完了印は簡単に押さない。
終わったように見えるものほど、次回確認日を置く。
願望を事実にすり替えるな。
本当に変わったと言うのなら、次の一週間の運用記録で示せ。
ノエルが受付簿を棚へ戻す。
ベネット卿が決裁印をしまう。
日程室には、今日も紙の音だけが残った。
殿下。
その完了印は、まだ押せません。
研修をしたことと、変わったことは違います。
本当に変わったと言うのなら。
次の記録で、示してください。




