値段を上げるのは、悪いことなんだろうか
街道が復旧し、仕入れも元に戻った。
これでようやく一段落だと、恵は思っていた。
ところが、その日の夜。閉店後の食堂で帳面を広げていた真理子が、不意に眉をひそめた。
「ちょっとまずい」
食器を片づけていた恵の手が止まる。真紀と香織も、何事かと顔を上げた。
「何が?」
真理子は帳面の上に何枚かの紙を並べ、指先で数字を示した。
「仕入れ」
真紀がすぐに隣へ移動する。
「上がった?」
「上がった」
「この前、街道が止まったせい?」
香織の問いに、真理子は頷いた。
「それもあると思う。でも、肉だけじゃないの。パンも野菜も薪も、少しずつ上がってる」
机の上には、ここ数日分の仕入れ額が書き込まれていた。恵も横から覗き込んでみたが、一つ一つの差はそれほど大きく見えない。
「これくらいなら大丈夫じゃない?」
「一つならね。でも、全部合わせると結構違うのよ」
「あ、そっか」
真紀が帳面を引き寄せる。
「今の値段だと?」
「利益が減ってる」
「どれくらい?」
真理子が計算した数字を見せると、真紀の表情が少しだけ険しくなった。
「……思ったより減ってるね」
窓の外はすっかり暗くなり、静かな店内には紙をめくる音だけが響いていた。
*
「じゃあ、仕入れ先を変える?」
香織の提案に、真理子が顔を上げた。
「全部安いところに?」
「だって高くなったんでしょ?」
「それは違うかな」
真紀が首を振る。
「なんで?」
「安いって理由だけで変えると、料理そのものが変わっちゃうから」
恵も頷いた。
街道が止まっていた間、四人は予備の仕入れ先を探していた。同じように見える肉でも、焼いたときの柔らかさや、煮込んだときの味の出方は違う。野菜も、火を通したときの甘みや食感に差があった。
「今の肉、焼くのに合ってるんだよね」
「パンも今のところのがいい。料理との相性もあるし」
真紀の言葉に、真理子はもう一度帳面を見た。
「じゃあ……値段を上げる?」
恵は、その言葉に少しだけ胸が重くなった。
*
「上げるの?」
香織が聞くと、真理子は頷いた。
「このままの仕入れ値が続くなら、考えないといけないと思う」
恵は客席を見渡した。
昼間はあれほど賑やかだった食堂も、今は椅子がきれいに並び、静まり返っている。
この店には、昔から通っている人がいる。若い冒険者も、仕事を探している人も、毎日のように食事に来る人もいる。
「困る人、いるかな」
恵が呟くと、真理子はすぐには答えなかった。
真紀も少し考え込み、香織が客席に目を向ける。
「いると思うよ」
「やっぱり?」
「うちって、気軽に来てくれる人が多いじゃない?」
その言葉には、恵も頷くしかなかった。
この食堂は高級な店ではない。特別な日に、おしゃれをして訪れるような店でもない。
仕事帰りに、依頼を終えた帰りに、買い物の途中で、ただお腹が空いたから立ち寄る。
そんな場所だった。
だからこそ、少しの値上げでも、毎日のように利用する人には大きな負担になるかもしれない。
*
「でもさ、全部上げなくてもよくない?」
真紀が口を開いた。
「どうするの?」
「一番原価が上がってるのって、どれ?」
真理子が帳面を確かめる。
「焼いた肉の料理かな」
「じゃあ、まずそこを考えよう」
恵も身を乗り出した。
「煮込みは? 今のままでもいけそう?」
真理子は紙の余白に数字を書き足し、しばらく計算してから答えた。
「ギリギリね」
「ギリギリは嫌だな」
真紀が即座に首を振る。
「私も嫌」
真理子も同意すると、香織が笑った。
「そこは意見が合うんだ」
「余裕がないと、何かあったときに困るからね」
真紀の言葉に、恵は街道が止まったときのことを思い出した。
食材が届かず、いつもどおりの料理を出せるかどうかも分からなかった数日間。
あんなことがもう一度起きたとき、今度は店そのものが立ち行かなくなるかもしれない。
何か一つ問題が起きただけで苦しくなる店にはしたくなかった。
*
「方法としては、大きく三つかな」
真理子が紙に書き出した。
「値段を上げる。量を減らす。使う食材を変える」
「量を減らすのは嫌だな」
恵がすぐに言うと、真紀も頷いた。
「私も」
「なんで?」
香織が尋ねる。
「同じ値段なのに前より少ないって、お客さんもすぐ分かるじゃない?」
「満足度も下がるしね。うちはしっかり食べてもらえるのがいいところだから」
真紀が付け加えると、真理子は量を減らす案に線を引いた。
「じゃあ、これはなし」
「食材を変えるのは?」
香織の問いに、恵は少し考えた。
もっと安い肉や野菜を探すことはできるかもしれない。パンだって、別の店から仕入れれば安くなる可能性はある。
けれど、それでは今まで四人が選び、おいしいと思って提供してきたものを変えることになる。
「恵、変えたい?」
真紀に聞かれ、恵は首を振った。
「変えたくない。今の料理、好きだもん」
「じゃあ、値段だね」
真理子が言った。
結論だけなら、驚くほど簡単だった。
*
それでも、恵の中にはまだ引っかかるものがあった。
「なんかさ……」
三人が顔を向ける。
「値段を上げるって、申し訳ない感じがしない?」
「するよ」
真理子があっさり答えた。
「え、するんだ」
「そりゃするでしょ」
香織が吹き出す。
「真理子でも?」
「私を何だと思ってるの」
「数字」
「人間だから」
恵も思わず笑ってしまった。
真理子は呆れたように香織を見たあと、少し真面目な表情に戻る。
「でも、申し訳ないからって利益を削り続けるのは違うと思う」
恵は黙って耳を傾けた。
「店がなくなったら、その方が困るでしょ。お客さんも、私たちも」
確かに、そのとおりだった。
今までと同じ値段で料理を出し続けても、それが原因で店を閉めることになってしまえば、誰もここで食事ができなくなる。
恵は帳面を見つめ、ゆっくり頷いた。
*
翌日、香織はいつものように客たちと話していた。
注文を取る合間や、料理を運んだときの何気ない会話。食事を終えた常連が声をかけてくれば、自然と話が弾む。
もちろん、値上げしてもいいかと直接聞くわけではない。
最近の市場の値段や、街道が復旧してからの荷物の動き、ほかの店の様子。
そんな話題を交わしているうちに、次々と情報が集まってきた。
市場の商人、常連客、旅人、近所の店の人。
夕方には、香織が聞いた話だけで紙が何枚も埋まっていた。
「よく一日でこんなに聞けるね」
真理子が半ば呆れたように言う。
「普通に話してたら出てきたよ?」
「それができないのよ」
香織は不思議そうに首を傾げた。
「そう?」
その様子に、恵は小さく笑った。
香織にとっては特別なことではないのだろう。
人と話し、相手の話を聞き、自然に必要な情報を集める。
それもまた、香織の得意なことだった。
*
集まった話を整理すると、仕入れ値の上昇に困っているのは、この食堂だけではなかった。
すでに値段を上げた店もあれば、料理の種類を減らした店もある。量を少し変えたところも、まだ以前の値段のまま頑張っているところもあった。
「みんな同じなんだね」
香織が言うと、真理子は頷いた。
「うちだけの問題じゃないなら、なおさら無理して抱え込む必要はないと思う」
真紀は集めた情報を一通り読み、机に置いた。
「じゃあ、決めようか」
*
四人が決めたのは、料理によって値上げの幅を変えることだった。
「仕入れが上がった分を、全部そのまま値段に乗せればいいってわけじゃないからね」
真理子は料理ごとの仕入れ額と売れ行きを確認しながら、紙に数字を書き込んでいく。
「今までどれだけ利益が残っていたかも違うし、値上げしたあとにどれくらい残せるかを見て決めよう」
真紀が頷いた。
「よく出る料理は、特に慎重に決めたいね」
「そう。売れる数が多い料理ほど、少しの差が積み重なるから」
焼いた肉の料理は少し値上げする。煮込みも、今までよりほんの少しだけ高くする。
その一方で、パンとスープを組み合わせれば、これまでに近い金額でしっかり食べられるようにした。
「それならいいかも」
恵が頷くと、真理子が尋ねた。
「何が?」
「高くなった料理しかない、ってことにはならないから」
「そうだね。選べる方がいい」
真紀も賛成した。
「お客さんにも説明できるしね」
香織が言うと、真理子がすかさず顔を向けた。
「説明しすぎないでよ」
「なんで?」
「仕入れ値を全部話す必要はないからね」
「そこまでは言わないよ!」
香織の声に、三人が笑った。
*
値段を変える日、恵は思っていた以上に緊張していた。
朝、書き直した品書きを客席に置く。紙に書かれた数字が少し変わっただけなのに、いつもより目立って見えた。
開店すると、普段どおりに客が入ってきた。
料理の香りが厨房から広がり、食器の触れ合う音と人々の話し声で店内が賑やかになっていく。
けれど、常連客はすぐに変化に気づいた。
カイルも、その一人だった。
「あれ?」
品書きを見つめるカイルに、恵は思わず身構えた。
「値段、上がりました?」
香織が答える。
「ちょっとね」
「仕入れの関係ですか?」
真理子が顔を上げた。
「よく分かったね」
カイルは壁の掲示板に目を向けた。
「この前、街道が止まってたじゃないですか。市場の値段も上がってるって聞きましたし」
恵は少し申し訳なくなって、カイルの表情を窺った。
カイルはもう一度品書きを見てから、何でもないことのように言った。
「まあ、安い方が嬉しいですけど、店がなくなるよりいいですよ」
恵は思わず真理子を見た。
真理子は少し得意そうに笑っている。
「ほら」
「今言わなくていいから」
恵も笑いながら、ようやく肩の力を抜いた。
*
もちろん、すべての客がすんなり受け入れたわけではなかった。
「高くなったな」と呟く人もいれば、「前の方がよかった」と残念そうにする人もいる。
品書きをしばらく眺め、別の料理を選ぶ人もいた。
中には、注文をせずに帰ってしまう人もいた。
そんな背中を見るたび、恵は少し落ち込んだ。
ある日の昼営業が落ち着いた頃、香織が隣へやってきた。
「気になる?」
「うん」
「そりゃそうだよね」
恵は香織を見る。
「香織は平気?」
「平気じゃないよ」
意外な答えに、恵は目を丸くした。
香織は窓の外を見ながら、少し寂しそうに笑う。
「来なくなる人がいるのは、寂しいじゃない?」
「うん……」
「でも、全員に合わせてたら店なんてできないしね」
恵は少し驚いた。
香織なら、どんな相手にも上手に合わせられると思っていた。
「合わせられるのと、合わせるのは違うよ」
何でもないことのように香織は言った。
恵はその言葉を、覚えておこうと思った。
*
数日が過ぎると、客の注文にも少しずつ変化が見えてきた。
以前と変わらず、好きな料理を注文する人もいる。
一方で、品書きをじっくり眺め、その日の財布と相談しながら料理を選ぶ人も増えた。
焼いた肉の料理を頼む回数を減らし、別の日には煮込みを選ぶ常連もいた。パンやスープを組み合わせ、手頃な食事で済ませる客もいる。
客席を見渡していた真紀が、少し笑った。
「思ってたより、みんな上手に選んでくれてるね」
「何が?」
恵が尋ねる。
「値段が変わっても、来るのをやめるんじゃなくて、その日の予算に合わせて注文してくれてる」
恵も客席に目を向けた。
焼いた肉を楽しむ人もいれば、煮込みを食べる人もいる。パンをちぎってスープにつけながら、楽しそうに話している客もいた。
値段が上がったから、もう来ない。
そういう人ばかりではないのだ。
食べたいものを選ぶ日もあれば、使えるお金に合わせて選ぶ日もある。
それも、ごく普通のことだった。
*
一週間後。
閉店後の食堂で、真理子が帳面を閉じた。
「今のところ、悪くない」
香織が顔を上げる。
「何が?」
「利益。今週の数字を見る限り、値上げ前に近いところまで戻せてる」
真紀がすぐに近づいた。
「客数は?」
「ほぼ同じ。料理ごとの注文数は変わったけど、全体としては大きく減ってない」
「よかったじゃん!」
恵も嬉しくなって、真理子の隣から数字を覗き込んだ。
「じゃあ、成功?」
真理子は少し考えてから答えた。
「今のところはね」
真紀が笑う。
「素直に成功って言えばいいのに」
「まだ一週間しか経ってないから。もう少し様子を見ないと」
「出た」
恵と香織の声が重なった。
真理子は嫌そうに二人を見る。
「何よ」
「いや、真理子らしいなって」
香織が笑うと、真理子は小さくため息をついた。
それでも、その口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。
*
その日の閉店後、片づけを終えたセラが品書きを眺めていた。
「値段って、一回決めたら終わりじゃないんですね」
近くで食器を拭いていたニナも、興味深そうに顔を上げる。
「そうだよ。仕入れの値段も変わるし、お店の状況も変わるからね」
真理子が答えると、セラは少し考え込んだ。
「でも、変えたらお客さんに怒られそうです」
「私もそう思ったよ」
恵が笑うと、セラも少し安心したように笑った。
椅子に腰を下ろしていた真紀が、二人に向かって口を開く。
「でもさ、変えないことより、続けることの方が大事じゃない?」
真理子が小さく笑った。
「珍しくまともなこと言うね」
「私、いつもまともだから」
「それはどうかな」
香織が笑い、真紀が不満そうに振り返る。
「ちょっと、どういう意味?」
そのやり取りに、セラとニナも声を上げて笑った。
*
恵は改めて店の中を見渡した。
磨かれた木のテーブル。壁に掛けられた品書き。厨房からかすかに漂う、煮込み料理の香り。
この店には、毎日のように食事に来てくれる人がいる。働く場所として大切にしてくれる人も、ここで誰かと会うのを楽しみにしている人もいる。
だからこそ、できるだけ気軽に来られる店でありたい。
けれど、そのために無理を続けて、店がなくなってしまっては意味がない。
お客さんに喜んでもらうことと、店を続けていくこと。
どちらか一つを選ぶのではなく、両方を大切にする方法を考えていきたい。
今回の値上げは、そのために必要な選択だったのだと、恵はようやく思えるようになっていた。
*
そのとき、店の扉が開いた。
閉店後の静かな店内に、蝶番の軋む音が響く。
「まだ大丈夫ですか?」
顔を覗かせたのはカイルだった。
「もう閉店だよ」
恵が笑って答えると、カイルは少し困ったような顔をした。
「いや、飯じゃなくて……」
四人が顔を向ける。
カイルは一度言葉を飲み込み、改めて口を開いた。
「ギルドのことで、ちょっと」
その声は、いつもの気軽な調子とは少し違っていた。
恵は近くの椅子を引いた。
「じゃあ、座る?」
カイルは少し迷ってから頷いた。
「はい」
その表情は、以前とはどこか違って見えた。
何かに悩んでいるというよりも、何かを決めようとしている。
恵には、そんなふうに思えた。




