第26冊 虚言と流布。
先日夕方に起きた熊本県の地震。
被害に遭われた方も、それを助ける方々も、この猛暑の中でさぞ大変であろう事と思われる。まずは一日も早く救援の手が差し伸べられ、二次被害に遭われない事を願う。
今回は前回と違い、真夏の暑さをどう凌ぐかも課題だ。停電であれば車に逃れるしかないが、車中泊が続いたことでエコノミークラス症候群になってしまわないように十分にお気をつけていただきたい。
そんな折に、やっぱり流れてくるのがデマやフェイクニュース。SNS等では、ここぞとばかりに投稿されている模様。実に嘆かわしいことだ。
ただ己の欲望のまま、無責任な言葉や感情を垂れ流すのは、いかがなものか。また、そんな人間ほど、ほんの一握りの事実を織り交ぜて、或いは一滴の嘘を巧みに織り交ぜて、「完全な嘘ではない」「ほぼ事実だ」と言い逃れようとする。それだけではなく、意図的に一部の事情を隠し、それがあたかも事の次第の全てであると見せかける事もある。
一時の快楽と承認欲求の為に人を振り回すのは、いい加減止めていただきたいと切に願う。
そしてこれは何も今回に限った事ではなく、残念ながら色んな場面で見受けられる。その出来心、そのひと言で、人間の命は時に失われることもあると分かっているのだろうか。
そして垂れ流された言葉をよく確かめもせず拡散するのも同様に罪だと言わざるを得ない。信憑性を担保する責任が無い所から情報を得るというのであれば、それを吟味して取捨選択するのは、己の責任。自分で情報をしっかり確かめもせずに鵜呑みした挙句、偽の情報を発信してしまうことは、厳に避けたい。
厄介なのは、それが「正しい」と思い込んでしまう場合だ。盲目の正義は時に人の存在を否定し、それすらも「良し」としてしまう。これは大変恐ろしいことだと思う。
言葉は社会的に人を抹殺するだけでなく、実際に命を奪うことすらある。良かれと思ってやっている時、ただ面白がって嘘に加担している時、正義と思い込んで人を断罪する時、それは本当にしても良い事か、やり方が間違っていないかどうか、考えているのだろうか?
その一文を考えている時、その一言を投じる時の自分の顔は、歪んだ顔になっていないか、一度立ち止まる必要があると思う。何より、そんな自分の姿を自分の子どもや家族に見せられるかどうか、発信する前によくよく振り返っていただきたい。
虚言と流布。その一言で人の命が失われるとしたら。それでも、それを続けるつもりですか?




