最終話:聖女の役目も、社畜の思い出も、全部お湯に流して笑いましょう。
アイゼンガルド帝国の辺境、シュネー温泉郷。
私がこの国に辿り着いたあの日と同じ、
柔らかな硫黄の香りと真っ白な湯気が、
辺り一面を優しく包み込んでいる。
目の前に広がるのは、雪を冠した山々と、
静かに揺れる針葉樹の森。
「……はふぅ。生きててよかった……」
私は、黄金色に輝く源泉に肩まで浸かり、
至福の吐息を漏らした。
十年間。
一秒も休まずに編み続けてきた、神聖力の糸。
それを全て切り離し、
文字通り「空っぽ」になった私の体に、
温泉の霊力がじわじわと染み渡っていく。
前世で、
連勤明けの土曜日に飛び込んだスーパー銭湯。
あの時の快感を一万倍に濃縮したような、
脳がとろけるような感覚だ。
「ティナ。……のぼせてはいないか」
薄い板仕切りの向こう側。
アレックスさんの、低く心地よい声が響いた。
彼もまた、傷を癒やすため、
同じお湯に浸かっている。
以前は「壁越しにスカウト」
という状況だったけれど、今はこうして、
心の距離が驚くほど近くなっているのを感じる。
「大丈夫ですよ! むしろ、
体の中の悪いものが全部溶け出して、
新しい魔力に置き換わっていくみたいで。
……アレックスさん、私。
この国に来て、本当によかった」
「……ああ。私も、あの日あの時、
この温泉にいた幸運を神に感謝している。
君を失うことなど、もう私には考えられん」
アレックスさんの声は、お湯の熱気のせいか、
いつもより少しだけ熱を帯びている気がした。
彼が今日、
私をこの思い出の温泉に連れてきてくれたのは、
単なる慰安旅行ではない……そんな予感が、
私の胸をトクトクと叩く。
その時だった。
温泉郷の入り口、遠くの方で、
何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「離せ! 私は隣国の王太子だぞ!
ティファーニア! ティファーニアはどこだ!」
……。
……。
「……? アレックスさん、今の声、何でしょうか。
どこかの酔っ払いさんですかね?」
私は首を傾げた。
どこかで聞いたことがあるような、
粘りつくような声。
けれど、温泉成分の効能のせいか、
私の記憶からはすでにその主の顔も名前も、
きれいさっぱり消え去ろうとしていた。
「気にするな。ただの不法投棄物だ。……いや、
もはや国を失った放浪者の嘆きだな」
「放浪者? ああ、あちらの国の方ですか。
大変ですね、国がなくなっちゃうなんて。
……でも、私にできることはもうありません。
相談に乗れることは、ないんですけど」
叫び声は、何かを必死に訴えているようだった。
『悪かった』とか、『戻ってきてくれ』とか、
『正妃にしてやる』とか。
けれど、そのどれもが、
今差し出されても仕方のないものだった。
「正妃……。残業代も出さないのに、
役職だけ立派にするなんて……。
典型的な、名ばかり管理職の手口ですよね。
私は、もう、そういうの、お腹いっぱいです」
私はお湯を掬い、掌からさらさらと零した。
あちらの国で過ごした十年間。
地下室で冷めたスープを飲みながら、
必死に結界を編んでいた日々。
それを「当然」だと、思い込まされていた私に。
アレックスさんが差し出してくれるこの時間は、
何物にも代えがたい報酬なのだ。
「アレックスさん。あの方に、
もし伝える機会があれば言っておいてください。
『退職後の業務連絡は、
一切受け付けておりません』って。
申し訳ないですが、私はもう、ここで働くので」
「……承知した」
アレックスさんの短い返事の後、
遠くの騒ぎはピタリと止んだ。
騎士の人たちが、静かに、
けれど確実に「処理」してくれたのだろう。
アイゼンガルドの仕事の早さには、
いつも惚れ惚れしてしまう。
静寂が戻った露天風呂に、雪が静かに降り始めた。
私は、お湯から上がろうと縁に手をかけて。
ふと、アレックスさんの気配が、
少し寄っていることに気づいた。
「ティナ。……有給休暇が終わったら、
君に改めて伝えたいことがある」
「……はい」
「私は、君を事務官としてだけではなく、
生涯の伴侶として迎えたいと思っている。
……君が望むなら、
この国すべてを君の『縁側』にしよう。
私の妻として、共に歩んでくれないか?」
その言葉は、どんな高価な宝石や、
空疎な王妃の座よりも、私の胸に深く響いた。
「……アレックスさん。私、結婚しても、
定時には帰りますよ?
温泉巡りもやめませんし、
お昼寝も大好きですけど、いいですか?」
「ふ……。もちろんだ。私も定時に仕事を終え、
君の隣で昼寝することを楽しみにしているよ」
「なら……決まりですね。よろしくお願いします、
旦那様」
私は満面の笑みで答えた。
前世での過労死。今世での不遇な聖女生活。
その全てが、
この最高に「ホワイト」な未来に辿り着く。
そのための、長い長い残業だったのだ。
私はお湯から立ち上がり、
新しい人生へと足を踏み出した。
ここからは、愛する旦那様との、
無限に続くハッピーな有給消化の始まりだ。
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