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師匠の顔は、鼻筋は高く、唇の線は鋭く整っている。
師匠の顔をこんなにも近くで見たのは初めてだが、アクオスに負けないどころか、彼とは違う大人の色気をまとった美しさがそこにあった。
ヘーゼルの鼓動は早鐘のように鳴り響く。
呼吸も浅くなり、言葉が喉で絡まる。
「……返してほしいものがあるんだ……」
ベールに耳元で低く囁かれ、ヘーゼルは目をぱちぱちと瞬かせた。
(返してほしい……?何だろう……?アクオス様ではなく……私も、何か返していないのかしら?……)
頭の中をぐるぐると探す。
すると、ふと心当たりが浮かんだ。
「あっ!もしかして……この前、師匠から半ば無理やり借りた薬草の本のことですか?」
「……は?」
「ああ!そうでした!!ここのところ忙しくて……まだ全部読みきれてなくて……でも、ちゃんと読んだら返しますから!もう少しだけ貸していただけると……」
慌てて言い訳するヘーゼルに、ベールは数秒間ぽかんとしたまま固まった。
そして次の瞬間、ふっと額に手を当てて小さくため息を漏らす。
「……お前という奴は……」
「えっ?ち、違いましたか?」
「いや……所詮はそこ止まりだとはわかっていたが…………」
紫の瞳がふいに伏せられ、ベールは片腕を下ろしてヘーゼルの頭上から離れた。
適切な距離感になり、緊張していた空気が少し和らぐ。
「もう……師匠、からかわないでくださいよ。心臓に悪いです」
頬を赤らめながらもヘーゼルがぷくっと口を尖らせる。
ベールはそんな弟子を見下ろし、かすかに口角を上げた。
「心臓に悪いのは、むしろこっちだ」
誰にも聞こえないほど小さく呟きながら、いつもの調子に戻る。
「それで? お前は、種を見つけたと言っていなかったか?」
「はい! 見つけてまいりました! しかもこんなに!!」
ヘーゼルは目を輝かせ、包み紙をベールの前に差し出した。紙を広げると、小さな黒い種がざらりと転がる。
「ほう……なかなかの量だな」
ベールは片眉を上げ、興味深そうに種を指先で転がした。
「どこにあった?」
「……アイーダ伯爵家のお庭で」
「アイーダ伯爵家?」
その名を耳にした途端、ベールの目が細くなる。
「はい! 正確には、そこで働いているビギンズさんという方が育てていらして……。ビギンズさんはザイール王国のご出身で、あの植物はザイールではごく普通に生えている薬草なんだそうです。茎を乾燥させて叩くと痛み止めになるとおっしゃってました」
「痛み止めになるのか……」
「はい、そうおっしゃってました。とても親切な方で、たくさん分けてくださったんです」
ヘーゼルは、胸を張って誇らしげに言った。
「……ふむ。まあ、これだけあれば十分だろう」
ベールは机の上の種を軽くつまみ上げ、淡々とした声で言う。
「で、今回はどこに植えるつもりだ?あのうるさかった魔物は、すっかり大人しくなってしまったが」
「そうなんですよね、それが問題なんです」
ヘーゼルは腕を組み、じとっと師匠を見上げた。
「師匠が考えなしに、あの魔物で実験してしまったせいで、大人しくなって種を育てる場所を使えなくなったじゃないですか」
「……おい、その実験で分かったことなんだがな。それを考えなしと言うか?」
ベールは肩をすくめ、苦笑まじりにため息をつく。
「だって事実じゃないですか!」
ヘーゼルはぷいっと顔を背けるが、どこか楽しそうだ。
ベールは机に置いてあった種を掴むと、ヘーゼルの手に渡した。
「じゃあ、お前の仲良しのアクオスに言って、竜騎士団の竜舎の近くで育てさせてもらってこい」
「ええ!?そんなの、ご迷惑に……」
「お前が頼めば、許可もすぐ下りるだろう。持って行って、きちんと頼んで来い」
「そんなあ……」
ベールは苦笑を浮かべながら、少し声を低めた。
「……それと、花祭りだがな。本当に気を付けろ。特に殿下には絶対に近づくな。……アクオスにもそれを伝えておけ」
「……アクオス様にですか?」
「ああ。先ほど殿下と交わした話を、必ず伝えろよ」
「は、はい……」
珍しく真面目な顔でそう言ったベールに、ヘーゼルの声は少し不安げだった。
するとベールは、言葉の代わりに無言で彼女の頭に手を置いた。
大きな手のひらが、軽く髪を撫でる。
一瞬だけ触れて、すぐに離れた仕草は、まるで「これ以上言うことはない」と告げているようだった。




