79 サンクチュアリ
あれから2週間が過ぎた。世界中にアマチュア無線で日本大使館への連絡を依頼してからだ。暗号すら使っていない。
日本のこの行動には、当初世界中の政府関係者が驚愕したようだった。なにしろ大使との通話を、世界中に公表してしまうのだから——。
日本は外交機能回復のために思い切った手段に出た。
日本の大使は、一旦本国に戻る。
本国で今後の外交方針についてすり合わせを行い、その上でアナログ用の暗号システムも持ち帰るつもりであろうことは誰の目にも明らかだった。
しかもその飛行機の便についての打ち合わせまでアナログ通信で通話してしまうのだから、多少の技術のある者なら誰でも知ることができる。公表しているのと同じだった。
それは相手国に、それが大使の送迎の航空機であることを知らせるという役割も果たすが、いかなる悪意に対しても赤子のように無防備であるということでもあった。
もし、何者かにその便が狙われたら……。
いや、それ以上に、仕立てる航空機はデジタル技術を使うことができない。手動と目視でパイロットの勘に頼って飛ばすしかない。
とんでもなく勇気のいる行動だった。
それを日本はやってのけた。
わずか2週間で、セキュリティレベルはともかく、国家としての最低限の外交連絡手段と国内の体制を回復させるという離れ業をやってのけたのだ。
世界各地で菱田総理の勇気を讃える声が上がった。日本のやり方を真似る国が続々と現れた。むしろ遅れをとったのは、諜報や秘匿にこだわったいわゆる「大国」だった。
柏原の狙った通りの状況になった。この先をどう泳いでいくか、は菱田総理の器量にかかっているだろう。
ひと段落ついた昨日、柏原陽真里は菱田から内々に副総理を打診された。が、陽真里は腰を折るようにして頭を下げて固辞した。
たまたま極限にあって自分の力が場を得たに過ぎない——と陽真里自身は自覚している。
菱田総理というトップがいればこそ、陽真里は自由に力を振うことができている。自分がトップに立つにはまだまだ足りないものが多すぎる——。
「そうですか。信州へ行かれるのですか。」
「奥美濃です。信州との境ではありますが。」
宿舎を訪ねてきた柏原補佐官に、市川先生は飄々とそう応じた。
「娘夫婦が先に行ってまして……。高齢の母も無事だったということで……。」
「こちらの生徒さんたちも一緒に行かれるんですね?」
「食料は自分たちで確保しねーとな。いつまでも備蓄に頼ってるわけにもいかねーだろ。」
目上に対する言葉とは思えない乱暴な口ききをする大樹に、柏原陽真里は鷹揚に微笑み返す。
「高齢の母はもう、自分では農業は続けられないと言っていますし、戻ると言ったらみんな行きたいと言うものですから——。まあ、限界集落に若い人手があるのは助かりますしね。」
言いながら、市川先生は嬉しそうである。
「それに、ここじゃあ、またいつあれが出るか分かんねーだろ。」
「大樹。少し口のきき方気をつけたら? 柏原さんは総理補佐官だよ?」
美緒が嗜めるが、陽真里は穏やかに微笑んでいる。
「構わないわよ。今はプライベートで来てるんだから。」
言いながら柏原陽真里は市川先生とそれを取り巻く少年少女たちの姿を、少し眩しそうに眺めている。
もし、この子たちが市川先生の周りにいなかったとしたら、この理科教師はあのブログを書かなかっただろうし、そうなれば我々がこの少し頼りなげな先生を見つけることもなかった。
そして、その状況では、もしかしたら日本政府は壊滅していたかもしれない。
昔、この国を「神の国」と言って批判を浴びた人がいたが、そういう意味ではなく、市川弘夢という理科教師は自然界に棲む神々の呟きを翻訳するシャーマンのような存在だったのかもしれない。陽真里はそんなふうにも思う。
市川先生と、その生徒たち、そしてその家族。感染した者もしていない者も、一人として飛び抜けたヒーローがいるわけでもない。それなのに、誰一人として不必要な人もいない。
何か不思議な力の合わさり具合で、この社会人としてどこか欠落したような先生に、必要な力が集まるようにしてこの国を救ってしまった。
いや世界を、かもしれない。オレンジ色——という惨禍から……。
ここに偶然(ひょっとしたら偶然ではないかもしれないが)集った少年少女たちは、市川先生をそのシャーマンとしての場所に押し上げ、そしてその手足となる役を担ったのかもしれない。
巫女と醜男。
不意に陽真里の胸にそんな言葉が浮かぶ。
市川先生というシャーマンを取り巻く穢れなき僕たち。まだ年端も行かない中学生の——。
本人に言ったら機嫌損ねるかもね。だって、稲生さんも久留原さんも認める天才科学者だもんね。そんな迷信的なものに喩えたら……。
そんなことを考えながら、陽真里はひとり笑み崩れている。
柏原陽真里は、これといった宗教の信者ではない。強いていえば、国家が統治に利用する以前の原始的な神道——アニミズムに近いそれを信じているような気がしている。
自らを生かした自然。その自然界に棲む八百万の神々。御利益だけでなく祟りもなすそれらの神とも妖ともつかぬモノたちと上手く付き合っていくために、時に祈り、時に聴き、時に捧げ物をして歓待する。それがシャーマンだとするなら、科学者もまたシャーマンの一種なのではないか——。
市川先生の見立てを別の形で解釈するなら、八百万の神々を蔑ろにして環境を無制限に喰いつぶした結果、神々はオレンジ色という祟りをなして我々からデジタル技術を奪い去った——と考えることもできるのではないか。
市川先生は言った。
モノにもコトにも限界の量がある。その量を超えると、モノもコトも変質する——と。
どうか——。
と、陽真里は心の中で祈る。
どうかこの心優しき巫女や醜男たちに、ささやかな幸いがありますように——。いかなる贄も、求められたりはしませんように。
奥美濃の市川先生の実家は、10戸ほどの家しかない限界集落の、さらに一番奥の山際にあった。
斜面に造られた狭い棚田や耕作地には、大型の農業機械は入らない。
家は10軒有っても、残っている村人は市川先生のお母さんを入れて高齢者ばかり8人だったから、この人数の若者の大移住は歓迎された。
「水が美味し〜い!」
というのが、香鈴の第一声だった。
誠は1人でついてきた。父親に声をかけたが、「オレはここで町の人たちを守る。連絡がつくなら、それでいい」と貴志さんは言ったのだった。
ここに来て、美緒たちには嬉しいことがあった。
感染した人たちの瞳から、オレンジ色が消えたのだ。正確には、瞳の中の光はオレンジ色から淡い緑色に変わり、少しずつ日常の会話ができるようになってきているのだ。
香鈴も沙緒里も大樹も家族を取り戻し、佑美は母親との会話を取り戻し、そして美緒たちは佑美という友人を取り戻した。
「この環境が良かったんでしょうか?」
と問いかけた亜澄海に市川先生が嬉しそうに笑いながら答えた。
「まだまだ分からないことだらけです、自然は——。だから、もっともっと知りたいですね。」
美緒たちは先生から、初めて見る虫や草の名前を教えてもらうことが増えた。
「こういう勉強なら、いくらしてても飽きねーな。」
「土の中に、ほら、白い細い糸みたいなものがいっぱいあるでしょ。これが菌類です。樹々の根と根をつないで、互いに栄養や情報のやり取りをしてるんですよ。」
「インターネットみたいですね。」
「あんな無骨なものを作ったから、自然が怒ったのかもしれませんねぇ。」
そんな授業に佑美や陽南までが参加して聴き入るようになったのは、とても嬉しい変化だった。
元から「圏外」だったここは汚染されていないのか、それとも、コードウイルスが樹木のネットワークの影響を受けているのだろうか。
近いうちに久留原先生がここを訪ねてくるという。何かが分かるかもしれない。
時間が穏やかに流れてゆく。
亜澄海は子どもたちが顔を輝かせて日々成長してゆく姿を眺めて、祈るような気持ちになる。
このままずっと、こんな暮らしが続けばいいのに——。
しかし、人間はこの窮地を脱すればいずれまた、際限のない欲望に身を任せて愚かな行為を始めるのだろう。
細胞システムも武器に応用するようにもなるんだろう。
この穏やかなひとときは、そんな愚かしい人類の歴史と歴史の隙間に生まれた小さな時空間=サンクチュアリなのかもしれない。
でも今は、ここで生きてゆこう。
この小さいけれど豊かな時空間を抱きしめるようにして。
こんな小さな聖域が、何かを変えるかもしれないことを期待して———。
了
最後まで長々とお付き合い、ありがとうございました。
引き続き、『間取り探偵』もよろしく。m(_ _)m




