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オレンジ色  作者: Aju


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78/79

78 虹

 市川先生が稲生先生と出ていったあと、夜のうちにまた降り出していた雨が小降りになった。

 やがて雲が切れて、ベランダに朝日が差し込んできた。ベランダの水たまりにもオレンジ色はいない。

 雀の声が聞こえた。


 あの子たちは、濡れても何の影響もないんだ……。

 美緒はそんなことを考えながら、雲間に現れた青空をサッシのガラス越しにぼんやりと眺めていた。


 大樹がガラス戸を開けて大きく伸びをした。

「ああー。いい空気。東京の空気がこんなうめぇのって、初めてじゃね?」

 手にいつも履いているスニーカーを持っている。それを、ぽん、とベランダの床に落として足を滑り込ませた。

「みんな出てみろよ。気持ちいいぜぇ。あ、虹。」

「え?」

 中学生たちが、わらわらと窓辺にやって来て、それからベランダに出た方がいいと分かるとてんでに履き物を取りに玄関へと行った。

 美緒も靴を持ってきてベランダに出てみる。玲音も妹の玲奈を連れて出てきた。


 西の空にきれいな七色の円弧が架かっている。

「きれい!」

 玲奈が玲音の手を握りしめたまま、はしゃぐような声で言った。

 美緒は玲奈がこんなふうに笑うのを初めて見た。そういえば、玲奈に会ったのはこの事件が始まってからだったな。酷いことばかり続いていたもの——。


「これが始まった朝にも、こんなふうに虹が出てたなぁ……」

 美緒が誰に言うでもなくつぶやくと、すぐ隣で手すりに両腕を乗せていた大樹が

「ごめん。」と言った。

「なんで大樹が謝んの?」

「いや……その……」


 美緒が、クス、と小さく笑う。

「ありがと。」

「な……何が……?」

「いろいろ助けてくれて。」


 この先には少しは希望の見えることがあるといい……。




 外交の基本常識も分かっていない——。ただの理科教師……。

 こんな人物を、外交・安全保障の分科会なんかに入れて大丈夫なのか? そこにいた人たちの多くがそんな疑念を抱き始めた頃、明るい声で手を打った人がいた。

「なるほど! それはいいかもしれない。」

 柏原補佐官だ。

「市川先生! やはり、あなたに来ていただいて正解だった! 早速総理に進言してみます。」


 市川以外、全員が「ええっ?」という表情をした。

 この人は何を言い出したのだ?


 もちろん、皆のそんな心中はこの有能な補佐官には重々分かっている。

「考えてもみてください。今、最も危険なのは何でしょうか? 各国の指導者たちが情報のない闇の中に放り出されてしまっていることです。まだデジタル通信を切ることもできずに、オレンジ色の大発生の中にいる者たちもいるでしょう。」

 柏原補佐官の表情は明るい。

「多くの国家指導層たちが疑心暗鬼と恐怖の中にいる——。そんな中で、完全無防備の丸裸になって、我々はただ連絡が取りたいだけだ、と世界中に喧伝することは……、我々は無害だと世界中に知らせるということで、むしろ我が国の安全保障環境を劇的に改善します。こんな状況だからこそです!」

 柏原は、目を爛と輝かせ、口元には笑いさえ浮かんでいる。

「我々は、平時の常識に囚われすぎていた!」


 柏原補佐官からこの報告と進言を受けた時、菱田総理はさすがに怯んだ。

「それは……、とんでもない賭けではないのか?」

「賭けの要素をゼロにはできません。HAMはあらゆる場所で、誰でも設備さえあれば傍受できます。大使への通信は筒抜けです。無防備の極みと言っていいです。そのことによってむしろ、それを罠と考えるような者たちも出てくるでしょう。」

 柏原はデメリットを平然と言い放つ。

「しかし、あまりにも無防備であれば、悪意しか見ない者はかえって動けなくなるものです。我が国がこのやり方でいち早く大使館機能を回復すれば、後に続く国も出てくるでしょう。それはそのまま、我が国が優位に立って情報収集ができるということでもあります。この事態後のリーダーシップをとることも可能です。」


 柏原は市川のようにただ無邪気に手段を語っているのではない。その無邪気の裏には、何重にも張り巡らされた計算がある。


「つまり、時間勝負というわけだ。先に国家としての体制を立て直した国が現状では最も有利だということだな?」

「そういうことです、総理。」


 菱田は一瞬の逡巡ののちに、決断を下した。

「よろしい。すぐに手配してくれ。」

「承知いたしました、総理!」


 部屋を出て行こうとする柏原の背中に、菱田が言い忘れたことがあったみたいに言葉をかけた。

「ああ、柏原くん。」

「はい?」

「君のような優秀な補佐官がいてくれて助かるよ。これなら万一私が斃れてもこの国は大丈夫だな。」


「この国には……」

 菱田総理の最大限の賛辞に、柏原は少し悲しげな目の色を見せて応じた。

「あいつは総理のお気に入りの女——としか見ないような保守的な者たちもまだいます。こんな事態ですから、総理にはまだまだご健在でいていただかないと。」


 菱田は笑い出した。やや苦笑いも混じっている。

「わかったよ。頑張って君の最高の()()でいよう。脚本と根回しは任せるよ?」

 柏原は、にこっと笑うと深々と頭を下げて総理執務室を出ていった。


 廊下の窓に切り取られた四角い空に、虹が見えた。



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