63 先生の帰宅
夕方からまた雨が断続的に降り始めた。ただ、基地局を潰した効果か、市川先生宅の周辺ではオレンジ色は観測されなかった。
「先生、遅いのかな?」
美緒たちは少なくなってきた食料をできるだけ美味しく食べられるよう工夫して、7時頃に夕食をとった。
「食料の確保を考えないといけないな。」
亜澄海が独り言のようにつぶやく。今のところまだ、駅前のコンビニでせしめてきたお菓子や元々有った米などがあるが、いずれは底をつく。
その後をどうするか——?
稲生先生によると自衛隊は政府と連絡が取れているということだったので、亜澄海は昼間、例のスーパーに行ってみた。
その後の状況を聞こうと思ったのだが、いたのは古津店長だけで、あとは感染した警備員が1人いただけだった。
「皆あの雨の後、食料を持って帰りました。私も昼間だけ来てここを管理しています。まだお米とか冷凍食品は残っていますから、必要な分だけ持っていってください。お代は結構です。頂いてもどうしようもないし、入荷の当てもありません。感染を免れた方たちに必要な分を利用してもらって、なくなったらそこまでです。」
古津店長は諦めたような笑いを浮かべた。
「この先、どうしたらいいんでしょうね? 私たち・・・。」
市川先生が帰ってきたのは、その日の夜9時過ぎだった。
今度は自衛隊のジープではなく黒塗りの乗用車で、稲生先生も一緒だった。
「やあ、留守番ありがとう。何か変わったことはなかったですか?」
先生はなんだか晴々とした顔をしている。
「いやぁ、今日は有意義でしたよ。市川先生に来ていただいて。」
「イノちゃん、ここに来てまでその呼び方はやめてよ。また緊張しちゃうから・・・。」
あはは、と稲生先生が笑った。
「いっちゃんらしいや。じゃあ、偉い人のいないとこでは『いっちゃん』『イノちゃん』でいいかな?」
「うん。そうしてくれると有難い。」
「生徒の前でも、それでいいの?」
「いいよ。よかったら、少し上がっていかないか? お茶くらい出すから、あの人たちにも。ここはあれが出にくいから、お茶が飲めるよ。」
稲生先生は車の方に向かって声をかけた。
「君たちも車から降りて上がらせてもらいなよ。ここではお茶が飲めるそうだ。話にあった感染者母子の様子も見せてもらうといい。」
車から若い2人が降りてきて、玄関にやってきた。
「お邪魔します。」
「お邪魔いたします。」
若い政府の職員は、それぞれ三島、澤田と名乗った。
「秋場基地で組み立ててもらったアナログ通信機を、さっき松村さんのところと竹田くんのところにセッティングしてもらってきました。スーパーには誰もいませんでしたが。」
市川先生の言葉に、ああ、それで遅かったのか、と美緒は得心した。この人はなんだかんだ言っても、結局は目の前の生徒のことを考えてるんだな。
「お疲れ様でした。会議、どうでした?」
亜澄海が美緒と2人でお茶の準備をしながら訊く。
「いやあ、いっちゃん、大活躍でしたよ。」
稲生先生がそう言うと、市川先生は少し頬を赤らめて照れた。
「いや、そんな・・・。最後の方は調子に乗っちゃって・・・。今思い出すと冷や汗が出るよ、イノちゃん・・・。」
「とにかく、経済やら公衆衛生やら防衛やらの専門家が、あのオレンジ色について基本的な性質や特徴を理解してくれたのは大きかったです。私や久留原先生のここまでの抽出データを、その場で見事につなげて筋の通った仮説にしてみせたんですよ?」
稲生先生がまるで贔屓のスポーツ選手の活躍でも話すみたいな調子で語ってみせる。
「いや・・・そんな、ただの思いつきだから・・・」
顔を赤らめて居心地悪そうにする市川先生を、かわいい、と美緒は思ってしまう。
「しかもそれを、その分野の素人にも分かるように噛み砕いて説明できてしまうんだ。文字通り、中学生でも分かるように。それでいて、論旨の本質は外してない。」
「いや・・・、中学校の教師だから・・・。そのクセでしょ・・・。」
持ち上げられて、市川先生は困ったような表情を見せながら懸命に謙遜する。
「そうじゃないよ。僕と美紗都ちゃんの生データをその場で見ただけで、2人がまだ到達できていない仮説を導き出したんだ。しかも、分かりやすく説明できるということは、その本質をしっかり理解できているってことなんだよ。あの場で、生データを1回見ただけで、だよ? 天才でしょ? いっちゃんは——。」
稲生先生が、美緒や大樹や誠、玲音たち1人1人の顔を見回しながら目を輝かせて言った。
「お陰で、明日から政府はかなり効果的に動き出せそうですよ。」
若い2人の職員も「うん、うん」とうなずいている。
稲生先生も、ひょっとしたら市川先生の隠れファンなのかも——。
そんなふうに目を輝かせる美緒を、大樹が部屋の隅でにやにやしながら眺めている。
「もう、やめてくれよ。イノちゃん。」
市川先生がなんだか居心地悪そうに、ソファの隅で体を小さくする。
自分の家なのに・・・。と、美緒は可笑しい。褒められるとこんなふうになっちゃうところが市川先生らしい。
「市川先生と稲生先生って、本当に仲いいんですね。」
美緒がなんだか嬉しそうに言うと、稲生先生も嬉しそうな顔で応じた。
「そうさ。というより、僕はずっといっちゃんをリスペクトしてるんだ。——いや、これはお世辞じゃなくってさ——学生時代は追いつこうとして必死に勉強したもんさ。でもそれは努力の方向が違ってたんだな。こいつの能力は一種の天才で・・・」
「よせよ、イノちゃん・・・。」
市川先生が心底居心地の悪そうな困った顔で止めようとする。
「結局ぼくはただの教員で、しかも担任も持たせてもらえない・・・。それに引き換え、イノちゃんは大学教授・・・」
「それは世渡りの才能の話で、科学者としての才能の話じゃないよ。それに、今日は政府の救いの神だったじゃないか。天は二物を与えず——ってやつさ。」
「そんなことより、あの話を・・・。」
市川先生はなんとかして、この慣れない褒め言葉の嵐を終わらせようとする。
「そうだった。」
と稲生先生が額に手をやった。
「よかったら、明日から皆さんで官邸の近くに引っ越してきませんか? 議員宿舎が空いてるんですよ。政府の備蓄食料もありますし。」
「え?」
驚いたみんなに、市川先生がやっといつもの調子を取り戻して話しかけた。
「食料の心配は当面なくなるし、最新の情報も入りやすくなりますしね。いい話だと思うんですよね。もちろん、残りたい人は残って構わないんですが、行けるならまとまって移動した方が何かといいと思うんです。」
「市川先生にもできれば官邸の近くにいてほしい、という補佐官の意向もあるんです。」
若い職員がそう言って亜澄海たちの顔を見た。
「先生が保護されている生徒さんたちを気にかけていらっしゃるんでしたら、いっそのこと全員で移ってきていただけないかと。」
「オレは・・・」
と大樹が言いかかって、陽子と泉深の方を見て口をつぐんだ。
権威系がニガテな大樹も1人で2人の面倒をみるのは無理だと分かっているのだろう。救いを求めるような目で美緒の方を見た。
「香鈴の家族はどうするんです? 家に固着しちゃってるんでしょ?」
美緒が市川先生に訊く。
「ずっと同じものに固着するわけではないことは分かっていますから。動かせるなら、一緒に行った方がいいでしょう。特に感染者を家族に持つ人は、政府の偉い人にも見てもらった方がいい。」
「葉子や秋彦はなんて?」
「家族と1晩考えてみるそうです。明日の朝、どうするか連絡してきます。これに。」
と、市川先生はアナログ通信機を指差した。
「まあ、残っていてもアナログ通信機さえあれば、リスクは少なく連絡を取り合えますが・・・」
稲生先生はそう言ってから、にやりと笑って見せた。
「食料の確保には困るでしょう? いっちゃんは既にVIPですから、後顧の憂いのないように関係者にはそれなりの便宜が計られることにことになるはずです。」
それから少し真面目な厳しい表情をした。
「とにかく今は、集まることのできる有用な人材は限られてるんです。」
ついて来ていた政府職員の1人も、その言葉にかぶせるように続けた。
「我々としても、まとまっていただいた方が支援がしやすいのです。こちらのように感染者と非感染者が一緒に暮らしているコミュニティは珍しいですし、参考にもなるんです。」
言ってから、少し失礼だったかも、と思ったのか言葉を慌てて継ぎ足した。
「あ、すみません。変な意味じゃなく・・・。」
「一緒に暮らしているコミュニティは他にもありますよ。例えば木田くんのお父さんのところとか——。」
市川先生が「当たり前のことです」と言わんばかりの表情で言った。




