46 雨
市川先生たちが帰ってきたのは、夜の7時をまわって皆が夕食を食べ終えた頃だった。
入れ替わりで、神農原と伊藤の2人の隊員が基地に帰っていった。
「どうだった? 総理に会ったの?」
美緒が開口一番、勢い込んで訊ねると亜澄海が苦笑した。
「会ったよ。少しだけだけどね。細かい聞き取りは実務レベルの人から受けた。でも総理に佑美ちゃん母子を見てもらえたのはよかった。政府の認識が大きく変わったみたいだよ。」
亜澄海のそんな言葉に、陽南に肩を抱かれた佑美が嬉しそうに少し微笑んだ。
「他の国はどうなってるのか、って情報はありました?」
泉深が訊くと、亜澄海は肩をちょっとすくめて見せた。
「民間人だから詳しいことは教えてもらえなかったけど、世界中で同じようなことが起きているようだということだった。ただ、今のところは各国政府とは連絡が取れているらしい。あの独裁国家とも——。」
あの独裁国家——というのは、最近核開発を急速に進めて問題になっていたあの国のことだろう。
「国民には情報知らせねーのに、政府同士では連絡取り合ってんのかよ?」
大樹が不満そうに言う。
「それは……」
と市川先生が話し出した。
「核を持った独裁国家と連絡が途絶えることが最も危険だから、何にも優先してそれを真っ先にやったんだそうです。」
なるほど。言われてみれば……。と美緒は思った。大樹も「あっ」という顔をする。
この状況で、そういう国が「敵の攻撃」と誤認したら……。
「ブログに書いてもいいけど、具体的な国名などは書かずにぼかすように言われました。」
市川先生がそう言うと、亜澄海が補足した。
「今や、喉から手が出るほど情報を欲しがっている各国政府が、当然市川先生のブログも読むだろうから——ということだった。」
「国家機密並みになっちゃいました。」
と市川先生が戯けてみせたが、亜澄海は笑わなかった。
世界は、薄氷を踏むような状態にあるのではないか?
市川先生たちが帰ってきてしばらくすると、パラパラと雨の音が聞こえ始め、やがてそれは雷鳴をともなって本降りになった。
雨の音を聞くと、あの朝の光景が甦ってくる。
美緒だけでなく、そこにいる全員が暗い表情になった。
玲音が不安そうにカーテンを少し開けて、窓の外を眺める。外にオレンジ色は見えないようだ。
「ここは基地局が近くにないですから。」
と市川先生が、皆を安心させようとして言った。
「みんな、ご飯は?」
泉深が空気を変えようと明るい声で市川先生たちに訊いた。
「自衛隊の基地で頂いてきました。」
市川先生が、ちょっと申し訳なさそうに笑う。
「わたし、シャワー浴びたい……。お母さんも臭う。」
佑美がうつむき加減だけど、口の端を上げて笑顔をつくった。
「そうですね。」
と市川先生も笑顔になる。
「そういえば、みんな4日もお風呂に入ってないですよね。いいですよ。シャワー使ってください。バスタブにお湯を張るのはやめましょうね。念のために——。」
「そうだね。順番に浴びよう。佑美ちゃん、お先にどうぞ。」
亜澄海がそう言うと、佑美はちょっと遠慮した。
「わ……わたしは一番じゃなくても……。先生から……」
「佑美ちゃんは今日、政府の方針を変えるほどの大活躍したんですよ。一番頑張ったんだから、一番でいいんです。」
市川先生がそんなふうに母子を持ち上げると、大樹が拍手する。亜澄海や泉深がそれに続き、他の皆も拍手をした。実際、佑美ちゃん母子がいなければ、ここまで短期間に感染者に対する理解は進まなかったのだ。
佑美は照れたような表情で少し頬を染めた。
「そ……それじゃ、お先に——。お母さん、お風呂入ろ?」
陽南が佑美に促されるままに浴室の方に向かうのを、美緒は少し幸せな気持ちで見送った。
ほんとうに、一緒にいられてよかった——。
「ほら、お母さん。全部脱いで。」
佑美の声が聞こえてくる。
カシャン。というユニットバスの折れ戸を閉める音がして、それからシャワーの音が聞こえ出した。
「シャンプーつけるよ、お母さん。」
しばらくシャワーの音が聞こえていたあと、突然、佑美の「あっ!」という声が聞こえた。
尋常ではない。悲鳴のような響きだ。
美緒は瞬間、地獄の底を覗き込むような嫌な予感に襲われた。
亜澄海が立ち上がって浴室に向かって駆け出す。美緒も立ち上がって後に続こうとする。大樹も立ち上がろうとしたが、泉深に袖を引っ張られた。
その時、突然、窓の外が明るくなった。
「なんだ?」
大樹が言って、玲音がカーテンを開ける。
そこに——。おぞましい光景が広がっていた。
地面がオレンジ色に光っている。
何が起こったんだ? 突然に……?
「佑美ちゃん!」
浴室の方で亜澄海の悲鳴のような声がした。
美緒が窓から目を離して脱衣室の方に行ってみると、亜澄海が立ちすくんでいる。
その先の折れ戸が開いたユニットバスの床に、無数のオレンジ色が走り回っていた。
佑美の瞳がオレンジ色に光っている。
美緒は言葉を失った。
佑美がゆっくりとシャワーを壁の金具からはずす。
亜澄海が、バシャン! と入口の折れ戸を閉めた。
「下がれ! 下がれ、美緒!」
呆然と立っている美緒を亜澄海が押し出すようにして脱衣室から外へ出る。
その直後に、脱衣室に向かってシャワーが放たれるのが見えた。
脱衣室の床が水浸しになり、そこにオレンジ色が現れて走り回り始めた。
「どうしよう。シャワーが止められない。」
亜澄海が美緒を背中にかばいながら言う。佑美ちゃん母子を救い出せない。
「元栓だ!」
大樹がそう言ったが、外は地面中をオレンジ色が埋め尽くしている。
「長靴とカッパとゴム手があれば大丈夫です。」
市川先生がそう言って、すぐ玄関に向かった。
手早くカッパを着込んで、フル装備で雨の中へ出ていく。その足元には、渦をまくようにしてオレンジ色がはじけながら流れている。
いつも少し頼りなげなこの先生の、時おり見せるこの勇敢さというものは何だろう。
美緒だけでなく大樹でさえ、その後ろ姿を見送る目に畏怖の色が広がっていった。




