44 政府は生きていた
「過不足なく書けておりますな。私じゃ、こうはいかん。」
河原陸佐は読み終わって、パソコンの向きをくるりと変えて亜澄海の方にディスプレイを向けた。
「奥さんも目を通してください。」
「し……司令官も、何か一言……。」
市川先生が少しおどおどと言ったが、河原陸佐は小さくかぶりを振った。
「私にはまだ……、今は、これほど冷静な文章は書けませんよ……。」
そう言って、大きく息を吐く。
そこに扉がノックされて、関口隊員に連れられた一行が入ってきた。
微かだが瞳をオレンジ色に光らせた陽南が一緒にいることに河原陸佐は少し驚いたようだったが、すぐに関口隊員が簡潔な報告をした。
「以上のことから、外に出して娘さんと一緒にいさせる方が安全と判断いたしました。」
陽南は瞳がオレンジ色に光っているとはいえ、その光は弱く、顔つきは穏やかで、娘の佑美を抱くようにしてそこにただ立っている。
佑美はそんな母親の胸に両腕を回して、少し不安そうに陸佐を見ていた。
「そうか。ご苦労。」
河原陸佐はそれだけを言って、陽南たちの方から目を逸らした。
まだ……、感染者に対してあまりいい感情を持てないんだ……。と美緒は思ったが、それは美緒の思い違いだった。
河原は自分自身の内側に頭をもたげてくる感情から、目を背けたのである。
もし……、もし、この人を最初に見ていたら……。238名もの隊員を死なせるようなことはなかったのでは……?
しかし……、あの奥さんが言ったように、今はそのことを考えるべき時ではない。今は、守るべきものを守るために責任を果たさねばならない時だ。
そんな時に、後ろ向きの感情に支配されてはならない。
「ふう。」
と大きく息をつく。
そうしてから改めて互いに抱き合う感染者とその娘を見た。
彼らもまた「守るべきもの」に含まれるのだろう。自衛隊は、日本の国民を守らなければならない。
「座ってはいかがかな?」
佑美はほっとした表情になり、母親に椅子を勧めた。
「座って、お母さん。」
陽南は佑美の言うことになら素直に従う。ただ、椅子に腰を下ろしても佑美を放そうとしない。畢竟、佑美は中腰にならざるを得なかった。
そんな自分の状態も佑美は嬉しくて仕方ないらしく、そのまま陽南の膝の上にお尻を持っていった。まるで抱っこされた小さい子どもみたいだ。
そんな佑美を陽南は両腕で抱え込み直した。
「ゆみチャん。」
佑美が幸せそうな表情をする。心なしか、陽南の表情も感染者らしくなく微笑んでいるように見えた。
市川先生がブログを更新した後、河原陸佐は今後の相談もしたいので市川先生にここに残ってもらえないかと訊いた。
「その……、生徒たちの連絡先になっているので……。」
市川先生は申し訳なさそうに言う。
「電話は、大丈夫ですから。必要なら筑波大の稲生先生や岐阜大の久留原先生ともコンタクトできますから、おっしゃってください。」
「あの……」
と亜澄海が河原陸佐の表情を見ながら注意深く話を始める。
「通学に固着しちゃってる子どもたちもいるんです。彼らは、ひょっとすると家で何も食べさせてもらっていない可能性も……。お昼だけでも目の前に食べ物を置いてやらないと、自発的に食べない子もいるようで衰弱してしまいかねないんです。」
「ここでは、感染者の食事はどうしているんです?」
平田悠がここに来てから初めて口を開いた。
「1ヶ月分くらいの備蓄食料はあるので、配ってはいるはずですが……」
河原陸佐は関口隊員の方を見た。細かい状況は関口隊員の方が分かっているらしい。
「一応、人数分を部屋に入れています。全員が食べているかどうかの確認までは……」
「目の前まで持っていってやらないと、能動的に食事を摂らない人もいます。作って食べたり、食べ物があるところまで取りに行くという行動ができない場合があるんです。介護を……」
と亜澄海は言った。
「必要としています。彼らは……。」
悠も亜澄海のその言葉に励まされて、話を続けた。
「わたしの勤めていた老人ホームでは、感染した入所者たちが皆、ただただ椅子に座って数日前の新聞を見ていたり、何も映っていないテレビを見たりしているだけなんです。あのままでは衰弱して死んでしまいます。1人はすでに亡くなっていました。葬儀もできず……」
そこまで言って、悠は声を詰まらせてしまった。亜澄海がその後を継ぐ。
「感染者を保護して下さるのは有り難いのですが、その後を適切にケアしないと、衰弱死してしまう人が出てくると思います。」
あえて「保護」という言葉を使っている。亜澄海は「捕獲」から「保護」へと意識を変えさせたかった。
そんな話をしている時だった。陸佐の机の上の固定電話が鳴ったのは——。
「はい。こちらは、秋場駐屯地司令室。」
河原陸佐が緊張した面持ちで電話に出た。
「はっ! 次官どの! 自分は、河原大吾一等陸佐であります! 石田陸将補が感染したため、現在自分がここの指揮を取っております!」
河原陸佐は受話器を持ったまま直立不動になった。なんだか偉い人からの電話らしい。
「はっ! 本当であります! 今、その市川弘夢氏にここに来てもらっております! はっ! わかりました!」
河原陸佐が受話器の口を押さえて市川先生を呼んだ。
「電話口に出てください。防衛事務次官からです。あのブログを早速読んだそうです。」
「わ……私ですか?」
市川先生は見るも無残なほどに狼狽えたが、陸佐が厳しい顔で促すので、恐る恐る受話器を受け取った。
「もしもし。市川と申します。」
「防衛事務次官からです。秋場駐屯地のキーワードが検索に引っかかったようで……。市川さんのブログで、ここで戦闘があったことと『感染者』への対応についての新しい知見に触れたようです。」
河原陸佐が少し希望の見えた目で亜澄海たちに話しかけた。
「一部ですが、政府は機能しているようです。」




