40 戦闘
「ああいう不確かな情報を発信されては困るのです。特に感染者に危険がないというような——。」
河原一等陸佐は市川先生に厳しい目を向けた。
市原先生の目には明らかに恐怖の色が浮かんだが、しかし、そのまま黙ることはなかった。不確かと言われたことに反発を感じたようである。
「じ……実際に、危険は大してありません。オレンジ色がそこにあれば感染させようとする行動に出ますが、それ以外は……。だいたい、そのオレンジ色も……」
「東桜蓮駅での暴動のニュースは見てないですか?」
一等陸佐は机を回ってこちら側に来た。
「あなたは、あの情報を発信するにあたって、どのくらいのサンプル数を観察したのです? ひょっとして、そこの生徒の『お母さん』とやらだけを見て安全だなどと言ってるんじゃないでしょうね?」
声に棘があった。抑えた怒りのようなものが見え隠れしている。
サンプル数——と言われて、市川先生は怯んだ。
「そ……それは……」
データとして統計をとれるほどの数を見ているわけではない。現時点では、少ない事例からの推測にすぎない。
「あなたは、感染者は日常の何かに意識が固着すると書いていましたが……」
一等陸佐は机の上のタバコの箱を手に取って、1本取り出すと口にくわえて火をつけた。
中学生がいるのに? と美緒は思ったが、一等陸佐はまるで意に介した様子はない。窓を開けるでもない。
「ここに来るまでに、あなた方は何を見ました?」
歩きながら煙を吐き出す。部屋に煙が漂った。
美緒と亜澄海が顔をしかめ、佑美は一等陸佐を睨みつけている。人の肺に一度入った煙は臭い。
「窓を開けていただけませんか?」
亜澄海がたまりかねて、それでも精いっぱい丁重な声調子になるように言った。
一等陸佐は、今初めてそこに子どもがいることに気づいたみたいな顔をして
「これは失礼。今は、副流煙とかを気になさる女性が増えたんでしたな。」
と言って窓の方に歩いてゆき、サッシをからりと開けた。
名残惜しそうにもう一息大きく吸い込むと、サッシの枠に押し付けて火を消してから、それを窓の外に放り投げた。
「我々は……」
ふり返った一等陸佐の目には、美緒がトラックの中で見た隊員と同じようなギラつきが見えた。
「感染者と戦ったのです。」
そう言って、市川先生を睨みつける。
「鎮圧までに……、32名の隊員が殉職した。……戦った感染者も……、4日前まで仲間だった自衛隊員だ! 感染者側の死者は200名を超える!」
目のギラつきが強くなった。
「4日前までは、仲間だったんだ!」
河原一等陸佐は、机を拳でドンッと叩いた。
「何が『危険はない』だ!? ノーテンキな頭しやがって!」
その音に、外から銃を構えた隊員が2人ドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた。
一等陸佐は片手を上げてそれを制止し、目だけで「大丈夫だ」と伝えた。が、2人は厳しい目をしたまま、外には出て行かない。
一等陸佐も拳を机の上に置いたまま、無言で彼ら2人が中にいることを容認した。
一等陸佐はしばらくの間、ふうー、ふうー、と息を整えていたが、やがて少し落ち着きを取り戻してまた話し始めた。
「いけませんな。司令官たるもの、常に冷静でなくては……。」
背筋を伸ばし直して、市川先生を見る。
「あのブログは削除すべき……、いや、それはいけませんな。国民には情報をできる限り提供しなければ。大日本帝国ではないのですからな。しかし少なくとも、情報は追加すべきだ。平和なお話だけでなく、見たくもないような事実も——です。秋場駐屯地では、自衛隊が感染した自衛隊員と戦闘を繰り広げた——と。」
市川先生は顔面を蒼白にしたまま、しかし目を背けることはできないでいる。
美緒たちも230名以上の死者という事実の前に、言葉どころか声すら上げられない。
「感染者は危険なんだ! 我々自衛隊は国民を守らなければならない。危険なものは危険、と伝えなければなりません。わかりますな? 我々の経験と情報も、あそこに書き加えさせていただく。」
一等陸佐は一呼吸おいてから、ゆっくりと、市川先生に圧力をかけながら言った。
「パスワードを教えていただきたい。」
しばしの沈黙が流れた。
市川先生が一等陸佐の圧力と230人以上の犠牲者という事実の重みに負けて口を開こうとしたその前に、亜澄海が言葉を挟んだ。
「あなたたちは、どういう法的根拠で動いているのです?」
小さいけれど全く想定外の方向からの反撃に、一等陸佐の気構えが一瞬弛んだ。
「自衛隊が行動を起こすには、政府の命令が必要なはずですよね? 今、政府は機能しているのですか?」
一等陸佐は一瞬、虚を突かれたような表情を見せたが、すぐに厳しい顔に戻った。
「法律にお詳しいようですな、奥さん。」
ひとつ大きく息を吸い込んでから、
「軍隊というものは……」
と続けた。
「上官が戦死、または指揮をとることが不可能になった時は、そのすぐ下の階級の者が指揮をとるというルールになっておるのです。今の場合、防衛大臣も幕僚本部も全く指揮をとれる状況にありません。連絡もつきません。
この秋場駐屯地の部隊のみで行動の是非を判断しなければなりませんが、その場合の最高責任者は石田陸将補になります。……が、まずいことに陸将補は最初に感染してしまわれた。」
今、「軍」って言ったよね? この人……。
と亜澄海は思ったが、一等陸佐の眉間に寄った厳しい縦じわを見て何かを言うことは控えた。
「となれば、私がここの部隊の安全確保と自衛隊の持つ国民への責任について判断しなければならない。」
そうか……。と亜澄海は少し理解した。
この人はこの人なりに、その重圧の中で懸命に戦っているのだ……。この人が経験した現実を前に、わたしたちが言える何かなどあるとは思えない。
それに亜澄海たちは、たまたま暴力的ではない感染者だけを見ていたのかも知れないのだ。そういえば、コンビニだってガラスが割られていたし、電気の線も引きちぎられていた。ガソリンスタンドも……。
たまたま暴力的なシーンに遭遇しなかっただけなのかも知れない。
「わ……わかりました……。そちらのパソコンでログインしますので、書き込む内容をおっしゃってくだされば……。」
市川先生が弱々しい声で言った。
「なので、その……、パスワードは勘弁してください……。この先、ブログを勝手に改変されても……。死んだ妻と行った旅行先の写真などもありますので……」
河原一等陸佐は卓上のノートパソコをくるりと市川先生の方に向けて、後ろを向いた。
「ログインしてください。書き込みは私がやります。」
その時、意外な質問者が声を上げた。金森大樹だ。
「なあ、その戦闘はどうやって始まったんだ? 自衛隊って、武器は厳格に管理していて、普段から実弾を装填してるわけじゃないって聞いたことあるんだけど……。」
さすがに大樹も、普段の乱暴な口ききを少し抑え気味にしている。




