32 崩れゆく日常
3人は廊下に佇んで途方に暮れた。
「どうしよう・・・?」
「とにかく、このままってわけにはいかないから・・・、由下さんの部屋のベッドまで運ぼうか・・・。」
由下さんとは、亡くなったお婆さんの名前だ。今年で91歳になる。悠は事務の仕事だから入所者と直接触れ合うわけではないが、それでも15人ほどの入所者たちとは顔見知りではある。ホールで会えば挨拶もする。
「息子さんが横浜で歯医者さんをやってると聞いたけど・・・。名簿の連絡先に電話しても、全く連絡つかないの・・・。」
死因も何も分からない。ただ倒れて、こときれていた。今はもう、110番すらつながらない。
とりあえずベッドに寝かせ、胸の上で両手を組んだ形にする。リネンから真新しい白いシーツを取ってきて、由下さんの顔にまで被せた。
「どうしよう・・・?」
悠が泣き声になっている。
「このままじゃ・・・・」
と言ったきり、悠はそこから先の言葉を口に出せなくなった。
遺体は腐敗して、とんでもない状態になる。・・・しかし・・・、じゃあ、いったいどうすれば・・・?
警察ですら連絡が取れなくなっているのに、葬儀屋さんなんか連絡がつくはずもない。
埋葬する・・・? どこに?
アスファルトで固められた都市のどこに、そんな場所があるというの? だいたい、遺族の了解もなしに、そんなことしていいわけ?
当たり前だと思っていた『日常』が、灰になったようにして、もろもろと崩れてゆく。何を基準に、どう動いていいのかさえわからない。
戻らなければよかった・・・。
悠は、胃の腑から後悔が突き上げてくるのを抑えきれないまま、シーツを被せられた由下さんから目を逸らすようにして部屋のドアを開けて廊下に出た。
ホールが見える。
そこにオレンジ色の目をした人々が、映っていないテレビを眺め、2日前の新聞を読んでいた。
彼らは、彼らの『日常』の中にいる。
私たちの『日常』が崩れ去ってしまった中で、まるで別の次元の住人のように・・・。
玲音が市川先生に電話するために、スマホの操作を始めた。
「もしもし。先生ですか? ・・・あ、すみません。心配かけて。如月さんのお母さん、そこにいらっしゃいますか?」
玲音は、この2日間、的確な判断で皆を引っ張ってくれた如月亜澄海の意見が聞きたかった。
亜澄海が出ると、玲音はこの施設での出来事を手短かにまとめて話し、その後、いちばん大きな問題である『ご遺体』の扱いについて意見を求めた。
亜澄海の意見は明確だった。
今夜はそのままにして帰ってくること。明日、明るくなってから近場のお寺を回り、住職が健在だったら埋葬できないかお願いしてみる。それが無理なら、巫女内クンに電話して病院の遺体安置室が借りられないか相談してみる。というものだった。
桜蓮東消防署にも出向いて、もし無事な人がいれば救急車やストレッチャーも借りられるかもしれないし、もしそうなれば対応の幅も広がるだろう。
「110番や119番がつながらないのはシステムが崩壊してしまったからで、そこにいる職員全部が感染しているわけではないと思う。木田クンのお父さんの例もあるんだから。」
それを聞いて、玲音も少し気持ちが軽くなった。
「ご苦労様でした。みんなよくやったよ。既に倒れていた1人を除けば、感染した人たちの命を救ったんだ。とりあえず、もう真夜中だから、帰ってきて休みなさい。明日は私たちが動くから——。お母さんにも、そう伝えて。」
伝えられた悠も少し肩の荷が下りたような気がして、由下さんの部屋のドアを閉めに戻る心の余裕が生まれた。
もし、1人だったら・・・。子どもたちを通じて、あの人たちと出会うことがなかったら・・・。たったひとりで玲音と玲奈を探し続けるだけで、わたしは壊れてしまったかもしれない。
ここの人たちに食事を運ぶことすらできなかった。それどころか、その必要があることさえ認識できていなかった・・・。
そう思ったら、悠は自分が偶然出会った環境が、とんでもなく運のいいものに思えた。
心強い。
明日に向かって生き抜こうとする人たちが集まっていることが。
やるべきことをやろうとする人たちが集まっている場所があることが。
あそこが——。
皆が集まっている市川先生の家が、今は、残されたわたしたちの新しい現実と日常なんだ——。
3人は由下さんの部屋のドアを振り返り、それから改めて、今帰るべき場所がどこにあるのかを心の中に見つけ出したような気がした。




