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裕也の実力では、申し訳ないが一流の音高は無理。かと言って、そこまで落とす必要はないのだけれど、と思うようなマイナーな音楽高校を彼は選んだ。渋谷音楽学園(俗称、渋音)という。そんな学校あったっけ?まあ、作曲ならどこに行っても「できる人はできる」。それに高校で作曲専攻はあまりないから、彼はピアノ専攻で入試を受けるつもりだった。そうなれば尚の事、マイナーな所にしか受からない。しかしこれが問題になった。彼の親は大反対し、彼は家出をした。(でも半日で帰ってきたけど。ははは)
* *
そして翌年二月の受検。裕也と私の受検は、渋音の歴史始まって以来というとんでもないものだった。
まず裕也。ピアノは下手だが作曲を希望するという。確かにちょっと課題を出して即興をさせるとセンスがあるかもしれない。そして、その親子面談が後々まで語り草になる。父親は
「この子がどうしてもここを受けたいというので、仕方がないので受験だけさせに来た。もし受かったら一年間だけ通わせて、この子の気がすんだら普通の高校に転校させる。この子を音楽の道に進ませるつもりはない」
と面接の場で堂々と言った。一方裕也は
「五歳の時に生まれ変わってから、音楽は僕のすべてです。音楽ができないなら僕が生きている意味はないのです」
と意味不明の事を言った。これには面接の先生は困っただろう。
私の方はさらに先生方を驚かせたと思う。ヴァイオリンの実技試験には五~六人の先生方が来ていた。まず、私のヴァイオリン歴を見て、どの先生にもついていない事、初めてヴァイオリンを手にしたのが去年の春という事を口頭で確認した。そんな受験生はいないよね。さらに私が持っているヴァイオリンが入門用の一番安いものだったので、これは「勘違い様だな」と全員が思ったと思う。一番前にいる女性の先生が優しそうに「では弾いてください」と言ったがその顔はにやけていて嫌な感じ。
だから「よし、本気出すぞ」っとガチで弾いてやった。難曲と言われるパガニーニのカプリースをノーミスで弾いた時には会場は静まり返ってしまう。普通だったら、曲の頭から三分ぐらい弾かせて、チーンとベルがなって「はい。そこで結構です」と言われるのだが、その時は誰も私の演奏を止めてくれないから、最後まで全部弾いてしまった。それから自由曲でモーツァルトの協奏曲を弾いた。身体が違うのでちょっと音に力が入らないが、まともに演奏できたと思う。
だから面談の時には、「本当に先生についた事はないのか」そして「本当にこの学校に入学するのか」と何度もしつこく聞かれた。そして私の父親は、こちらもどうしようもない事を言った。「この子がどうしてもここを受けたいというので来ました。私は音楽は全く分かりません。家は裕福ではないので、奨学金がとれなければやめます」と。学校側はあせって、再び私に聞いてきた。「どうしてこの学校を受けたいのか」と。何か嘘をついて他の音高の滑り止めに受けにきたと思ったかもしれない。そこで私はどうどうと、
「同じ中学から受けている裕也君は天才です。彼を世に出すために、私はヴァイオリンを弾く事にしたのです。だから彼が来る高校に私も入るのです」と言ってやった。先生たちの戸惑いは想像にかたくない。
で結局、裕也も私も受かった。
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一学年にクラスは二つあるのだが、私の気迫が事務局に届いたのか、裕也と私は同じクラスになる。最初は席はアイウエオ順。上条裕也は柏木水音の後ろの席だ。しかし私は裕也に頼んで、席を交換してもらった。
私たちは幼馴染と言っていた。一クラスは約三十人で、女子が二十五人、男子はわずか五人。その中で、かなりかっこいい裕也を囲いこむには作戦が必要。幼馴染としておけば、いつでも呼び出して話ができる。それに裕也は私の事を五歳の時から知っているし……本当は。
裕也に「幼馴染という事にしよう」と提案した時はさすがにどきどきした。しかし裕也は笑ってあっさりとOKしてくれた。
毎日裕也と話して、音楽の勉強をして、本当に楽しい新生活のスタートだった。青春をやり直すと、本当に楽しい。
<丹羽子抄の終わり>
今までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
この丹羽子抄は『妖狐とゾンビの渋音恋物語』の前日譚の一つ「水音ルート」です。本編の方も十月二十七日から投稿し始めました。音高を舞台にした恋愛物。根底に流れている物はかなりダークなのですが、よろしければお読みください。