表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦わずに大陸を落とした男――気づけば公爵令嬢と参謀と商人に囲まれている  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/90

54:エルディア「必要だ」

夜。王城の一室。灯りは落とされ、机の上の魔導灯だけが静かに脈動している。窓の外には、動き続ける街と、止まりかけた街が、同じ闇の中で重なっていた。救われる者と、落ちる者。境界は曖昧で、だが確実に存在している。その境界の上に立つ者だけが、全体を見ている。エルディア・ヴァレンティナは、その一人だった。


机の上には報告書が山のように積まれている。軍参謀からの損耗報告、情報統制担当からの流言抑制の進捗、商業国家の大商会からの価格変動の速報、上位貴族からの要請と抗議、そして民衆の動向。流通・経済・人材支配の全てが、紙と数字の形でここに集約されている。彼女は一枚一枚を捌き、必要な箇所だけに印をつけ、残りを切り捨てる。迷いはない。迷いがあれば、この量は処理できない。


扉が叩かれた。「入れ」短く告げる。入ってきたのはレオニア・アルディウスだった。若き前線指揮官の顔には、戦場では見せない種類の疲労が浮かんでいる。「こんな時間に悪いな」「構わない。戦場は時間を選ばない」エルディアは視線を上げずに答えた。「ここは戦場じゃない」「そう思っているのは現場だけだ。ここはもっと酷い」乾いた言葉が落ちる。


レオニアは机の前に立つ。「エルガードの件だ」エルディアはペンを止める。「聞いている。今日の選別、三割を切り捨てた。物流の再編でさらに二割が落ちる見込み」淡々とした報告。「……やりすぎだ」レオニアは眉を寄せる。「やりすぎ、という言葉は結果が出た後に使え。今は過程だ」エルディアは顔を上げた。鋭い視線がまっすぐにレオニアを射抜く。「それでいいのか」レオニアの問いは昨日と同じだが、重さが増している。


エルディアは一瞬だけ沈黙し、そして答えた。「必要だ」その一言に、迷いはなかった。「必要、か」レオニアは苦く笑う。「人を切る理由がそれで済むなら、戦場はもっと楽だ」エルディアは首を振る。「楽ではない。だが、必要だ。違いはそこだけだ」彼女は報告書を一枚持ち上げる。「見ろ。流通路の断絶で、三日後には食料が尽きる区域がある。ここを優先すれば、別の区域が落ちる。全部は救えない。ならば、どこを残すかを決めるしかない」


レオニアは黙る。分かっている。だが、納得できない。「エルガードは迷ってる」エルディアは即答した。「知っている」「それでもやらせるのか」「やらせる」迷いのない声。「なぜだ」レオニアは踏み込む。エルディアはペンを置き、両手を組んだ。「彼は“魔剣適合者”だ。戦場では剣が、ここでは意思が、世界を切る。どちらも同じだ。切らなければ守れない」言葉は冷静だが、内容は苛烈だ。


「人間性はどうする」レオニアが問う。「捨てるのか」「捨てない」エルディアは首を振る。「だが、優先順位を下げる。秩序が崩れれば、人間性は守れない。順番だ」彼女は机の上の地図を広げる。「ここを見ろ。商業国家の大商会が押さえている市場。価格操作で食料を囲い込んでいる。これを放置すれば、金を持つ者だけが生き残る。人間性どころか、社会が崩壊する」細い指が地図の要所をなぞる。「だから、潰す。市場操作を逆に利用し、供給を再配置する。だが、その過程で必ず取りこぼしが出る。それを“悪”と呼ぶなら、呼べばいい」


レオニアは唇を噛む。「それで、彼に何を背負わせるつもりだ」「全部だ」即答。「決断も、結果も、責任も」エルディアは目を細める。「彼が背負わなければ、誰が背負う。上位貴族か? 彼らは既得権益の維持しか考えない。軍か? 軍は目の前の敵しか見ない。情報統制担当か? 彼らは事実を隠すことしかできない。だから、彼しかいない」論理は冷酷なまでに整っている。


その時、扉が静かに開いた。マリナ・ルクレツィアが入ってくる。商業国家の大商会に通じる女。柔らかな笑みの奥に、計算が潜んでいる。「お話中に失礼」軽く頭を下げる。「ちょうどいい。報告を」エルディアが促す。マリナは一枚の書類を差し出した。「市場の反応です。価格は予定通りに動いています。ただし、二つの大商会が裏で結託しています。供給を絞り、暴騰を狙っている」レオニアが顔をしかめる。「腐ってるな」「商売ですから」マリナは微笑む。「ですが、利用できます」


エルディアは書類に目を走らせる。「切る」短く言う。「ええ。切りましょう」マリナは頷く。「ただし、全面的にではなく、部分的に。彼らの流通網を一部だけ残し、依存させる。その上で、主導権を奪う」指で円を描く。「囲い込むんです。流通・経済・人材支配。三つ同時に」レオニアが吐き捨てる。「やり口がえげつない」「効果的です」マリナは淡々と返す。


エルディアは決断する。「実行」一言。「了解」マリナは即座に動く気配を見せるが、ふと足を止めた。「一つ、確認を」振り返る。「彼にどこまでやらせますか」エルディアは一瞬だけ考え、答える。「全部だ」マリナは小さく笑った。「いいでしょう。ならば、彼に“数字”を渡します。感情ではなく、結果で選ばせる」レオニアが睨む。「それで人が救えるのか」「救えない人を減らすことはできる」マリナは静かに言う。


部屋の空気が重くなる。沈黙の中で、遠くの鐘の音が鳴る。夜が深まり、決断の時間が進んでいる証だ。レオニアは息を吐く。「……結局、同じか」エルディアが見る。「何がだ」「切るしかないってことだ」レオニアは肩を落とす。「違う」エルディアは首を振る。「“どう切るか”だ。そこにしか差はない」その差が、世界を分ける。


「彼は耐えられるのか」レオニアの問い。エルディアは即答しない。数秒の沈黙の後、言う。「耐えさせる」それは願いではない。命令だ。「壊れたら」「代わりを立てる」冷酷な現実。「……お前は本当に容赦がないな」「必要だ」同じ言葉が繰り返される。だが、その意味は重い。


その時、再び扉が開いた。エルガード・カウフマンが入ってくる。顔には疲労と、決意が混ざっている。「呼んだか」短く言う。エルディアは頷く。「来たか。ちょうどいい」机の上の書類を彼に差し出す。「これを見ろ」エルガードは受け取り、目を通す。数字、矢印、区域。人の命が、記号になって並んでいる。


「……これが現実か」低く呟く。「そうだ」エルディアは答える。「そして、これが選択だ」レオニアが横から言う。「逃げるなよ」マリナは微笑む。「利益になりますよ、これ」三者三様の圧力。エルガードは一瞬だけ目を閉じ、そして開く。「分かった」短い返答。「どうする」エルディアが問う。


エルガードは地図を見つめる。指が動く。止まる。別の線を引く。「ここを切る」静かに言う。「代わりに、ここを繋ぐ。供給は落ちるが、全体は持つ」マリナが頷く。「悪くない。損失は最小化される」レオニアが眉をひそめる。「そこは……人が多い」「分かってる」エルガードは言う。「だから、先に動かす。避難を優先する」エルディアが小さく笑う。「遅いが、正しい」


「これでいいのか」レオニアが再び問う。エルガードは答える。「分からない」昨日と同じ言葉。だが、続きが違う。「でも、やる」その一言に、覚悟が宿る。エルディアは頷く。「それでいい」レオニアは息を吐く。「ほんとに面倒だな」マリナは微笑む。「でも、利益になります」


エルディアは最後に言う。「覚えておけ」全員を見る。「これは正義じゃない。秩序だ。そして、その秩序を守るために、人間性を削る」一拍置く。「それでも必要だ」言葉は重く、揺るがない。エルガードは頷く。レオニアは目を閉じる。マリナは笑う。


夜は続く。だが、決断は終わらない。救われる者と、落ちる者。その線を引く手は、止まらない。そして、その手に宿るのは、迷いではない。「必要だ」――その一言だけだった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ