2 死人が出る――責任不在の重さ
空は青いのに、地上は灰色だった。
風は乾き、土はひび割れ、かつて農地だったはずの場所には何も育たない。難民たちが寄り集まってできたその村は、すでに“生きる場所”ではなく、“死ぬ順番を待つ場所”に変わりつつあった。
その中央で、一人の老人が倒れていた。
声を上げる者はいない。手を伸ばす者もいない。ただ、周囲の人間がわずかに距離を取るだけだった。
死は、ここでは特別なものではない。
日常だ。
それを、少し離れた場所から見ている男がいた。
エルガード・カウフマン。
二十五歳。魔法の達人。魔力操作、魔力循環、魔力吸収――その全てにおいて常識外れの域に達し、事実上、無限に近い魔力を扱う存在。火、水、風、土、光、闇の六属性を自在に操るその力は、本来ならば戦場を一人で覆すはずのものだった。
だが彼は、立っているだけだった。
動かない。
何も選ばない。
「……三人目」
背後から、低く冷静な声が落ちる。
振り返らずとも分かる。侯爵家令嬢にして軍参謀、情報統制担当――エルディア・ヴァレンティナだ。深い緑の髪を片側で結び、崩した軍服に身を包むその姿は、戦場の外にあっても異質な緊張感を放っている。
「今朝から、三人死んだ。あと半日で倍になる」
彼女は淡々と告げた。感情は乗せない。数字だけを置く。
「……止められるか」
エルガードは、視線を外さないまま問う。
「止められる。条件付きで」
「条件は」
「選ぶこと」
短い沈黙。
風が砂を巻き上げる。
「全員は無理。供給が足りない。水も食料も、輸送路も切れている」
エルディアは顎に指を当てたまま続ける。
「優先順位を決める。子供、労働可能者、治療可能な者。この三つで選別する」
それは合理だった。生存率を最大化するための、最短の答え。
だが――
「それは、切り捨てだ」
別の声が割り込む。
重い足音。風を裂くような存在感。深紅のマントが翻り、鋭い蒼の瞳が二人を射抜いた。
レオニア・アルディウス。公爵令嬢にして若き前線指揮官。魔剣適合者。
彼女は倒れた老人の前に立ち、その顔を見下ろした。
「守るべきは民だ。選別ではない」
声には怒りがあった。だがそれ以上に、責任を背負う者の重さがあった。
「守るために、選ぶ」
エルディアは即答する。
「選ばなければ、全員死ぬ」
「……」
レオニアは言葉を失う。理解していないわけではない。ただ、受け入れられないだけだ。
その時、柔らかな声が空気に差し込んだ。
「議論は結構ですが、結果は変わりませんよ」
振り向けば、金の髪を緩く巻いた女が立っている。上品なドレスに宝石を散りばめたその姿は、この場にそぐわないほど華やかだった。
マリナ・ルクレツィア。商業国家の大商会を束ねる上位貴族。流通・経済・人材支配を掌握する女。
彼女は周囲を見渡し、軽く肩をすくめた。
「供給が断たれた地点で、この村は“終わり”です。ここはもう、消費されるだけの場所」
「人を、物のように言うな」
レオニアが睨む。
「物ですよ」
マリナは即答した。
「価値があるか、ないか。どこに流れるか。どこで消えるか。それを決めるのが“流通”です」
冷たい現実だった。
だが、それは事実でもある。
「……で?」
マリナはエルガードに視線を向ける。
「あなたはどうするんです? 力はある。時間もまだ少しはある。――でも、選んでいない」
沈黙。
エルガードは、倒れた老人を見ている。
その呼吸は、もう浅い。
助けることはできる。
魔法で水を与え、体温を保ち、延命することは可能だ。
だが、それは一人だ。
一人を救えば、他の誰かが死ぬ。
選ばなければ――全員が死ぬ。
「……」
エルガードは、動かなかった。
その瞬間。
老人の胸が、止まった。
風が吹く。
砂が舞う。
誰も声を上げない。
ただ一つ、確かな事実だけが残る。
死んだ。
エルガードが、選ばなかったから。
「……四人目になる」
エルディアが静かに言う。
「今、決めれば三人は助かる」
「……」
「決めなければ、十人死ぬ」
レオニアが歯を食いしばる。
「……決めろ」
その言葉は、命令ではなかった。
願いでもない。
ただの事実の提示だ。
「お前が決めるしかない」
マリナは笑う。
「決めないのも選択ですけどね。その場合、責任は“全員分”になりますが」
軽い口調だったが、その言葉は重かった。
エルガードは、ようやく顔を上げた。
だが、その目にあるのは覚悟ではない。
迷いだ。
力はある。
だが、使う理由が定まっていない。
選ぶ基準がない。
責任を引き受ける準備ができていない。
だから――
動けない。
その間にも、時間は進む。
遠くで、また誰かが倒れた。
子供だ。
小さな体が、土の上に崩れる。
母親が駆け寄る。だが、どうすることもできない。
泣き声が、初めてこの村に響いた。
その音が、エルガードの胸を刺す。
「……やる」
ようやく出た言葉。
だが――
遅い。
すでに二人が死んでいる。
今から動いても、全ては救えない。
その事実は変わらない。
エルディアは何も言わない。ただ、結果を見ている。
レオニアは目を閉じる。怒りと悔しさを押し殺している。
マリナは微笑む。
「いい経験ですね」
彼女は静かに言った。
「“選ばない”とどうなるか。ちゃんと分かったでしょう?」
エルガードは答えない。
ただ、動き出す。
魔力が流れる。
水が生まれ、土が整えられ、空気が動く。
遅れて始まる救済。
だがそれは――
“間に合わなかった後の行動”だった。
風が吹く。
難民村は、まだ崩壊していない。
だが。
確実に、壊れ始めている。
そしてエルガードは、初めて知る。
選ばないという選択が、どれほど重いかを。




