1 難民村/食料不足
風は乾いていた。土はひび割れ、草は根元から枯れている。かつて農地だったはずの平野は、今や灰色の地肌をさらすだけの荒野となっていた。
その中央に、粗末な布と木片で組まれた仮設の集落――難民村があった。
痩せ細った人々が、わずかな水と、さらにわずかな食料を巡って、声を荒げるでもなく、ただ静かに押し合っている。その静けさが、かえって飢えの深さを物語っていた。
村の入り口に、一人の男が立っている。
彼は特別な装いではなかった。剣も豪奢な鎧も持たず、ただ状況を観察しているだけの存在――だが、その目だけが、明らかに異質だった。
すべてを測る目。
すべてを切り分ける目。
だが――彼は動かなかった。
「遅れている」
低く、抑えた声が後ろから響く。
振り返ると、そこに立っていたのは、深いダークグリーンの髪を片側で結んだ女性――エルディア・ヴァレンティナだった。
侯爵家令嬢にして軍参謀、情報統制担当。軽装の軍服は整っているが、胸元のボタンがひとつ外れている。規律と崩しが同居した姿。
「配給が足りていない。三日以内に崩壊する」
彼女は村全体を一瞥し、結論だけを落とす。
「分かっている」
男は短く答えた。
だが、その言葉には、行動が伴っていない。
「分かっていて、何もしない?」
エルディアは顎に指を当て、わずかに首を傾けた。
その時だった。
重い足音が土を打ち鳴らす。
振り向くと、深紅のマントを翻しながら、一人の騎士が歩み寄ってくる。
鋭い蒼の瞳。長く流れる紅の髪。軽量ながらも高級感のある騎士鎧。そして腰には、異様な存在感を放つ魔剣。
レオニア・アルディウス――公爵令嬢にして若き前線指揮官、魔剣適合者。
彼女は村を見渡し、顔を歪めた。
「……これは、放置された結果か」
怒りだった。明確な。
「配給は? 統制は? なぜここまで悪化している」
「物流が途切れている。中継拠点が三つ潰れてる」
エルディアが即答する。
「ならば再建すればいい」
レオニアは迷わなかった。
「騎士団を動かす。護衛を付けて輸送路を――」
「無理だ」
エルディアが遮る。
「時間が足りない。三日で餓死者が出る」
「ならば!」
レオニアが一歩踏み出す。
「優先順位を決める。子供と老人から――」
その言葉に、空気が凍った。
「それは、“切り捨て”だ」
男が初めて口を挟んだ。
レオニアは振り返る。
「当然だ。全員は救えない」
「それでも選ぶのが指揮官だ」
その言葉には、誇りがあった。責任を背負う覚悟があった。
だが。
男は、動かなかった。
「……選ばないのか」
エルディアが問う。
沈黙。
遠くで、子供の泣き声がした。
水を求める声。
誰かが倒れる音。
レオニアの手が、無意識に手袋へと伸びる。
剣を握る前の癖。
だが――彼女は止まった。
「なぜだ」
彼女は低く問う。
「なぜ選ばない」
男は答えなかった。
答えられなかった。
選べば、誰かが死ぬ。
選ばなければ、もっと死ぬ。
だが――その瞬間、彼はまだ、“決める覚悟”を持っていなかった。
その間にも、時間は進む。
一人が倒れた。
誰も騒がない。ただ、視線を逸らすだけだ。
レオニアの瞳が揺れる。
「……遅い」
エルディアが静かに言った。
「これは“判断ミス”じゃない。“未判断”だ」
それは、最も重い罪だった。
選ばないこと。
責任を引き受けないこと。
その時、柔らかな足音が近づいた。
場違いなほど上品な香りと共に、一人の女性が現れる。
金の髪をゆるく巻き、宝石をあしらったドレスを身に纏う。だがその視線は、商人のそれだった。
マリナ・ルクレツィア――商業国家の大商会を束ねる上位貴族、流通・経済・人材支配の中枢。
彼女は村を一瞥し、微笑んだ。
「ひどいですね」
そして、男に視線を向ける。
「で、これ。いくらになるんです?」
レオニアが眉をひそめる。
「何を言っている」
「価値ですよ」
マリナは平然と答える。
「人が何人死ぬかじゃない。どこに流れるか。どこが空くか。どこが儲かるか」
その言葉に、レオニアの怒りが燃え上がる。
「人命を計算するな!」
「してますよ、皆」
マリナは笑った。
「あなたも。そこの参謀も。――この人も」
男は、何も言わない。
言えない。
「違うのは一つだけ」
マリナは一歩近づく。
「この人、“まだ決めてない”」
沈黙。
風が吹く。
乾いた土が舞う。
そして。
もう一人、倒れた。
レオニアが歯を食いしばる。
「……決めろ」
彼女は言った。
「誰を救うか」
エルディアは何も言わない。ただ、見ている。
マリナは微笑んだまま。
男は、ようやく顔を上げた。
その目に、初めて“覚悟”が宿る。
「……やる」
その一言は、遅すぎた。
だが、それでも。
彼は動き出す。
だがその選択は――
すでに、誰かの死の上に立っていた。
風が吹く。
難民村は、まだ崩壊していない。
だが――
確実に、壊れ始めていた。




