18. (最終話)いつか思い出になる、この庭で
澄んだ青い空が高く広がるその日、侯爵領は朝から喜びに溢れていた。
いずれ侯爵家を継いでいく若君の、成人の日。
その佳き日を迎えた喜びに、朝からパン!パン!と祝いの花火が各地で上げられている。
その音を遠くに聞きながら、一人で屋敷の庭のテーブルにお茶の準備をしていく。
ティーポットやカップを並べ終わると私は厨房に向かい、棚の一番低い引き出しの奥に隠していた小さな瓶を取り出した。
裏庭の奥、陽の当たらない場所で育てた植物から採れた、赤黒い実。
丁寧に採取して、この日のためにお酒に漬け込んだ、特別な実。
それを丁寧に小さい皿に移していく。
漬け込んでいた瓶をきれいに洗い、この実をテーブルに運んだら準備は完了だ。
パンパン!パンパン!と何発もの花火が打ち上がり始めた。
そろそろノックスの成人の儀が侯爵邸で始まるのかもしれない。
──結局、私はノックスの成人の儀を覗くというお誘いはお断りする旨の手紙を騎士に託した。
* * *
昨日、私は成人の儀の準備に忙しいであろうブレイドを屋敷に呼び出し、時間を作ってもらっていた。
「忙しいでしょうに、ごめんなさい」
詫びの言葉に「構わない」とブレイドは微笑み、私の頬を長い指の背でそっと撫でる。
「ノックスにこれを渡してほしくて。」
薄い水色の紙に包まれた、小さな贈り物を差し出す。
「これは……?」
「明日、成人のお祝いをするのでしょう?こんなもので申し訳ないけれど、私からのお祝いよ」
中にはハンカチが入っている。
成人という大きなお祝いの日にふさわしいものは何かを考えた時に、私は途方に暮れてしまった。
ノックスは侯爵家や他の貴族様達から、豪華な贈り物を文字通り山ほどもらうだろう。
でも私にはそんなものは用意できない。
そして高価ではないものだとしても、あの子がどういうものを好むのかも知らない。
だから、もしかしたら貴族でも使うかもしれないハンカチを贈ることにしたのだ。
商店から手に入る一番高級なものを取り寄せて、それに刺繍を施した。
刺繍の柄は、庭の花々と小さなすべり台。
今も裏庭に残る、小さかった息子が遊んだ遊具を見ながら一針一針心を込めて刺した。
すべり台の刺繍がついたハンカチなんて、子供っぽすぎて使ってもらえないわね………出来上がってからそう思ったけれど、まあそれでも良い。
机の引き出しにでもしまってくれても良いのだ。
このハンカチが、ノックスの日々の片隅にこれからも居てくれるのなら。
「リリー、その……本当に、来ないのか……?」
奥様から聞いているのだろうブレイドが、躊躇いながら尋ねてくる。
「ええ。私はもうあの子から別れを告げられた身なのだから。これから成人した貴族として歩き出す門出の日に、私の存在があの子の足を引っ張るわけにはいかないわ」
そう微笑むと、ブレイドの顔が歪む。
「……足を引っ張るなんて……そんなことは、ない。……………リリー……すまな……」
「すまない」と言いかけたブレイドの唇を指で止める。
「リリー……?」
驚いた声がする。
真実を告げられて以来の十数年間、私の髪や指に幾度もこの唇が降ってきたけれど、私から彼の唇に触れるのは初めてだった。
「……いいのよ、ブレイド。もう謝らなくて良いの」
笑って語りかける。
かつて私の夫だったこの男が私にした仕打ちは、今も許すことはできない。
失ったものはどう足掻いても取り返しがつくようなものではない。
でも、だからこそもう良いのだ。
「小さいノックスは戻らない。何をしても、いくら謝っても、取り返しはつかない。
それはもう変わらないのだから。だからもうあなたは謝らなくて良いの。……あなたはもう充分私に謝ってくれたわ」
ブレイドの目が見開かれ、唇が震える。
「もうノックスは成人する。子供ではなくなるわ。私達も、親という役割から降りることも許されるはずよ。
もっと早くあなたにそう言ってあげられれば良かったのだろうけれど、今日この日まで引っ張ってしまった。…………責められる苦しみをあなた一人に背負わせてしまって、ごめんなさいね」
そう言うと、震える頬に手を伸ばして引き寄せて、唇にそっと口付けた。
「リリー……!」
強く抱きしめられる。
大きい身体は慟哭に震えていた。
「ごめん……本当にごめん……!いくら謝っても、謝っても……謝りきれない……俺は、取り返しのつかないことをした……!でも愛してる、愛してるんだ……」
私は震えるその背に手を回して抱き返す。
「……ありがとう。私をたくさん、愛してくれて」
ありがとう。
たとえ遠い日々の思い出を求めてだとしても、私をこれほどまでに愛し求めてくれた人は他にいない。
ブレイドが私の頬に手を添えて上向かせる。
二人とも涙で頬も唇もグチャグチャだ。
それでも二人とも微笑んで、また口付ける。
何度も、何度も。
──何度も口付けて、抱きしめあって。それでも離れる時は来る。
「もう、行って。私は大丈夫だから」
そう微笑むと、ブレイドはまた私をきつく抱きしめた。
「明日は……帰ってこれないけれど。でも明後日には必ず、必ず帰ってくる。必ず!」
そう繰り返して馬車のカーテンを開けて私を見つめながら遠ざかるブレイドに、私は精一杯微笑んで手を振る。
あなたがいつか私を思う時、どうかその私が微笑んでいますように。
ありがとう。
たくさん愛してくれて。
──私もきっと、愛していた。
* * *
パンパンパンパンパンパン──。
花火がひとしきり連続で鳴ったあと、ワアァッという大歓声が聞こえてくる。
成人の儀が始まったのだ。
紅茶をひと口飲んで目をつぶる。
歓声に包まれる、ノックスの立派に育った姿が見えるようだ。
小皿の中の赤黒い実を、そっと指でつまむ。
この実がなる植物を知ったのは、偶然だった。
この地方の雑草についてまとめられた、ひどく古い立派な装丁の園芸の本をめくっていた時。その中で絶滅危機の植物として紹介されていた、その植物。
『検知されない毒物を作る実』
小さな文字で書かれた、そんな見出し。
ある植物を1年間全く陽に当てず育て、採取した実を今度は天日干しにし、そしてこの地方特産の地酒に漬ける──そうやってできた実は、人の命を奪うけれども痕跡を残さない。
周囲には寝ている間に旅立ったと思われる。
寝ている間に旅立ったと思ってもらえる……
──そんな植物があるのか……。
そう思いながら挿絵を見た時に、息が止まるかと思った。
この屋敷から少し歩いた丘の、林の中で見かけた植物によく似ていたから。
それから他の本も調べ尽くし、私は確信する。
あの林に生える植物が、その植物だと──。
それからは慎重に行動した。
何しろ少しでも陽に当ててはいけないのだ。
薄暗い日の早朝に土の中に隠れている幼い株を掘り起こして採取し、裏庭の大きな木と塀の間に植えて、布をかぶせて。
最初の年にはうまく実がならなかった。
その時の絶望は私を打ちのめし、自分がこの植物の実をどれほど切望しているかを自覚させられた。
次こそはと細心の注意を払って世話をした2年目にして、ようやく実が採れた。
ブレイド以外は訪れない屋敷だけれど、それでも慎重に隠れながら作業をして。
ようやく、この目の前の実を作り上げることができた……。
指につまんだその実を、ゆっくりと口に入れて食んでいく。
ひと粒、またひと粒。
口の中にジュワリとお酒が染み出してくる。
甘みの合間に感じるほのかな苦み。
大人の、味だわね。
私は微笑む──全てを脱ぎ捨てていこうとする大人だけが知る味。
見上げると、雲1つない澄んだ青い空が広がっている。
こんなに鮮やかに美しい空を見たのはいつぶりだろうか。
私の愛した息子は、この素晴らしい日に門出を迎える。
なんて喜ばしいことだろう。
ゆっくりと息を吸い込んだ。
空を見上げていたら視界がなんだか眩しくて、指先がやけに重く感じる。
ゆっくりと息を吸って、そして静かに吐いて。
長椅子に用意していたクッションに身をもたせかけると、私はゆっくりと瞼を閉じた。
目を閉じても金色の光は柔らかく私の視界に広がっている。
なんてきれいな光──。
……遠くで祝砲の音が聞こえた気がした。
どこかで何か、良いことがあったのだろう……。
『リリー!』と私を呼ぶ若い青年の声がする。
『ママ!』と呼ぶ幼い声も。
目を開くと、柔らかい金色の光の中に夫と息子が立っていた。
夫は片手で幼い息子を抱え、もう片方の手を私に差し伸べて。
息子はこちらに手を広げて抱っこをせがんでいる。
2人の笑顔を見ると何故かとても久しぶりに会う気がして、涙が出てきてしまった。
2人に向かって手を伸ばす。
体が軽い──私を縛るものは何もない。
『ブレイド……!ノックス……!』
心からの笑顔を浮かべて、私は愛しい2人の元へと駆け出した。
〔 完 〕




