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宿題は連日の店の暇さもあってそれ程溜まっておらず、英単語や四字熟語の書き取りなどは長い針が二回りもしない程で終わってしまった。その間アネッサは珍しく静かに騒いでいた。自分で出したソファに座り、プカプカ宙に浮きながらシャボン玉を吹いたり。小さいアネッサをポーチから叩き出し、共にジェンガをしたりと、一人遊びのレパートリーを増やすことに余念が無い様子だった。祖父も祖父で最初は傍に浮くアネッサを気にも留めることなくリビングでテレビを見た後、和室で新聞を読んでいたが、その内寝こけてしまったらしい。この短時間で皆よく暇つぶしに専念してくれた。お陰で残りの宿題も片付きそうだ。
「毅、お茶はいかがですか?」
さて、次の宿題も片付けようとしたところ、アネッサがフワリと飛んできた。コースターにグラス、麦茶を出して注ぐと、ポップコーンのように空気が弾けて氷が三つグラスに入った。
「どうも。狭いんだから、頭ぶつけるぞ」
「大丈夫ですよー。所で何かしてほしい事無いんですか?」
どうやら本当に暇になってしまったらしい。手持無沙汰な様子に、毅は少し考える。
「うーん。俺は特にないんだよなぁ」
「もう、最近は願いを言ってくれなくなりましたね」
「最近って、俺入院もしてたし。あの件から反省してんだよ、お前を道具みたいに扱ってた自分をさ」
「んーでも、私願いを叶えるのが仕事ですし、・・・・・・」
そんなこといわれても、願い事なんて結構無いものだ。もちろん欲望の全てを叶えろと言えば、お金持ちにしろ、学校でいい成績を取れるようにしろ、彼女を作らせろなど全く非モラル的な願いはある。だがそれを叶えて貰うなんて人間として終わりだ。
だから、例えば今回願いを叶えて貰うのはこんなことぐらいしかない。
「んー、じゃあここの空調をどうにかできない?」
「お安いご用ですよ!」
パッと明るくなり、準備運動になぜかバッドの素振りをするアネッサ。今日の風は蒸し暑く、何だか不快だ。扇風機から送られてくる風も正直嫌がらせのように思えてくる。じわじわと汗も滲み、白旗をあげて夏に降伏したい気持だった。
「じゃあ、どうしようかな。何をあげよう」
バッグを漁るが、宿題と教科書類しか見当たらない。対価が無ければ願い事を叶えて貰うわけにはいかない、それは前例然りだ。もうあんな痛い思いも、耳を千切られるのもごめんだ。といっても、周りにあげられるものが無い。
レコードでもあげようかと考える中、単刀直入に何が対等なのかをアネッサに尋ねてみる。
「そうですね、・・・・・・」
優雅な立ちずまいで一通り考えを巡らせたアネッサは、湿った唇を動かし、応えた。
「じゃあ、キスしてください」
「はぁ!?」
愛嬌に人差し指を唇に当ててる様子が全く以って憎ったらしい。毅は思考のボイドを経てザックリと驚いて見せた。何を突然そんな事を言い出すのか、それは対価として成り立つのか、そもそも対等という熟語を用いて聞いたと思ったがよもや部屋の温度を下げるためにちゅーを要求してくるとは思わなんだ。
目を閉じて顔を寄せてくるアネッサを毅は押し返した。
「ちょ、ちょっと待て!」
「なんですか?」
「いや、なんで今このタイミングでキスなんだよ!」
今までは物々交換のような事をしていたのに、急にこんな儀式的な事をしようだなんておかしい。
「物々交換だって十分儀式的ですよ。物の時あればキスの時ありです。対価として十分な報酬を貰うのが目的なんですから、これくらい安いもんですよ」
「いやだ!」
「子供みたいなこと言ってないで、童貞じゃないんだからキスくらいいいじゃないですか」
「俺はまだ子供だし童貞だよ!」
高校生は子供だ。そして毅は高校で童貞を捨てる程チャラけた人間でもなかった。それが何故だか無性に胸の奥を苦しめる感覚をもたらし、毅はこの時自分自身の男児としての虚栄心に心底落胆した。そして男は心のどこかでアウトローを気取りたがる生き物なのだということを悟ってしまった。
英国じゃあるまいし、殊に純真なる男子高校生相手に責め立てるなんてズルイ。
「じゃあ私から」
ふとアネッサの顔が近づき、反応する間もなく心臓がざわざわと逆立つ感覚に駆られる中、その唇はその頬に触れた。妙な湿り気が狭間に留まり、ざわめきの頂点と共に熱が顔中に広がる。
「っ!!」
「案外もちもちしてますね。汗のせいでしょうか、ちょっとしょっぱいです」
妖艶に唇を舐める余裕の戯けっぷりに対し、口を魚の真似事のようにしか動かす事が出来ない毅は、熱で目に溜まった涙越しにアネッサを凝視した。
「お、おまっ、・・・・・・」
「それじゃあ空調を」
何事もなかったように願いを遂行しようとするアネッサに、もはや何の罵声も身体から出ない毅は店のカウンターに突っ伏した。自尊心を脅かされたこの状況に只々困惑する。
「ピッ!」
英国騎士のような格好でホイッスルを鳴らすと、小さいアネッサが数人『熱』や『warm』など様々な言語の書かれたプラカードを持って色んなところから出てきた。
「変換!」
今度はホイッスルを短く二回鳴らす。小さいアネッサ達が持っていたプラカードを翻すと今度は『冷』や『cool』などの文字が現れ、最後にアネッサが指を弾くと、暢気な爆発音を響かせて辺りに冷気が漂った。
この間、毅は気になって仕様がなかったが、視線を腕に潜らせたままカウンターに伏せていた。
「こんなところですかね、毅」
そういうアネッサの呼び掛けに、毅はあぁとだけ応え大きく息を吐くとキッと正面にならった。なにか吹っ切れたような、幾分男が上がったような表情をアネッサに向ける。
「・・・・・・、おい」
「はい?」
「ちょっと寄れ」
小さいアネッサを一人ずつ頭を雑に掴みながらポーチにしまい込むアネッサに、毅は手を仰いで呼んだ。何か説教でもするのかという具合の妙な顔を向けてくる毅を気にせず、最後の一人をしまい込んだアネッサは言われたとおりに近付いた。
「・・・・・・、なん、っ」
手の届くくらいの所で毅はアネッサの首元を掴んで強引に引き寄せ。
「・・・・・・・」
頬にキスをした。




