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というわけで退院である。今日も今日とて日差しが暑く、病室の空調機の恋しさを引きずりつつ毅は病院の玄関口まで来ていた。そして隣りには昨日言っていた通り、アネッサが迎えに来ている。相変わらずの黒々しい服装がこの暑さの中全く以って不愉快であるが、本人はこれでもかという程涼しい顔をしている。
「さぁ、楽しみですね」
「本当に変な事してないんだろうな」
汗一つ流さない表情のアネッサに不安になるなという方が無理な話で。毅は鬱屈した心情のまま歩を進めた。店が西洋書店のように小奇麗になっていても、覚悟はしておこう。
「あのー、毅?」
二、三歩進んだところでアネッサが何か物言いたげな様子で呼びとめた。「何?」と短めに尋ねると、すっと人差し指を立てて言った。
「『いないいないばあ』しませんか?」
突飛。何故?毅は純粋な疑問の渦に飲み込まれた。なぜここで幼稚遊びなのか、唐突もいいとこである。久しぶりのサプライズに、毅の脳内は少し焦りを生じたが、なんとか溺れずにアネッサに対して了解を得た。
パターンからして、十中八九何かするつもりなのだろう。
「ん、いいよ」
「いないいな~い」
望むままに、毅はアネッサの手によって視界が塞がれた。妙にひんやりとした手が気持ちいい。あぁ、本当に人間ではないんだな。毅はなめらかな手の感触にそんな事を思いながら、次の一手が想像できている自分に心底失笑した。
「ばぁ!」
声と共に視界が開け、射しこんでくる夏日に目が痛がった。
ほら、これだ。想像通り、してやったり。悪戯な心情が妙に気持ちを浮かせて、それがなんだかくすぐったくて笑った。店の外観が毅の瞳には映っていた。
毅の様子にアネッサは膨れる。
「むぅ、もう慣れてしまったんですか?最初の頃はいちいち驚いてくれたのにぃ」
なんだ。
「俺は今のこの慣れてる感じが好きだけどな」
楽しんでいるんじゃないか。
「ふふっ、私も楽しんでる毅がとても嬉しいです」
毅はこの状況を、言ってしまえば最初の頃から嬉しく思っていたのかもしれない。
そうだ。自分は退屈に思っていた。手々島 毅という人物にも、この寂れた大神商店街にも、単調な学校生活にも、世界にだって。なんて緩やかに時は食んで行くんだろう。ただカウンターに鎮座してラグタイムを奏でるだけの人生なんて、なんて、なんてつまらないんだろう。あの日あの本を見つけなければ、こんなエンターテインメントを体感する事もなかっただろう。
そんな事を考える。
「さぁ!今夜は退院祝いでパーティだ!」
「おめでとー!」
気を取り直して数人の小さいアネッサがクラッカーを鳴らした。飛び散る紙屑が毅の頭に引っかかる。そして間髪入れず隣りにいたアネッサが指揮のポーズを取ると、楽器に持ち替えた小さいアネッサ達が騒音を響かせた。蟬をも静まり返る程の演奏に毅はしびれを切らして叫んだ。
「やかましい!!」
頭の紙屑を払っていると、小さいアネッサ達は間の抜けた音と煙と共に消えた。一つ咳払いをして、アネッサは荷物を持って店に入っていった。
「先程、毅を迎えに行く際おじい様も出て行かれて」
「あ、そうなんだ。どこ行ったの?」
「退院祝いと称して駅前のあの洋菓子店へ」
店に入りつつ、毅は変わらぬ我が家に安心感を覚えていった。聞きなれた風鈴の音、カビ臭い古本の背表紙、周期的に揺れる扇風機。そして・・・・・・
「あれ、針が落ちてる」
蓄音機も相変わらずだった。金色の世界は直も幻想的で、季節感の無い風景が永遠の時さえ感じ取れてしまうような不思議な感覚を呼び覚ます。暫く見ていなかったせいか、胸の奥がじわりと熱を帯び血と共に流れていく。
「どうかしましたか?」
ぼーっと蓄音器を眺める毅にアネッサは心配そうに尋ねた。
「あぁ、いや。暫く見なかったせいか、妙に懐かしくて」
「毅と出会った時の曲をかけていたんですよ」
そう言って蓄音器の針をまたレコードの上に走らす。レコードの細かな凹凸を針がなぞり、震える振動が管を通って大きく開けた黄金のドレスから音を鳴らした。確かに、この曲はアネッサと出会った時に流していた曲だ。
「あれからまだ一月も経っていないのに、どうしてか懐かしいのです」
「それは、・・・・・・俺もそう思う」
荷物も置かず、暫く夏の騒ぎとラグタイムの音色を聞いていると、祖父が返ってきた。
「二人ともそんな所で何をしておるんじゃ」
既視感が脳を押す。祖父が駅前のあの洋菓子店の袋を下げて返ってくる様子を何度見たことか。額に汗を浮かばせながら返ってきた祖父に、毅は少し安堵した。
「じーちゃん、おかえり」
「そりゃこっちの台詞じゃ、ほれ、ケーキ買ってきたぞい」
兎にも角にも、毅は身辺を整えた。昼もまだ登り切っていない頃だったので、そーめんを湯がいて簡単な昼食を用意しつつ、これからの予定を考える。
「はぁ、見事に欠けとるな」
祖父が口から何度かそーめんを飛び出させながら言った。その目は毅の耳に向いている。あのアネッサに切り取られた耳だ。今はもう痛みは無く、若干の違和感すらあるものの通常と呼べるに値する感覚を持ち合わせていた。
「パンクだろ?」
「はぁ?パンツ?」
「・・・・・・、なんでもないよ」
パンクなんて言葉を祖父が知っているのかわからない毅は、説明の面倒くささから逃げ、そうめんを啜った。
「今日はこれからどうするのです?」
つゆにネギを振り足しながら、アネッサが聞いた。
「どうするもなにも、店にいるよ。宿題終わらせる。もう夏休みも長くないし」
「あ、じゃあ私お菓子作ってあげます。おじい様が買ってくださったケーキもありますから、ちょっとしたのを」
楽しそうに指を立てて提案するアネッサに、毅は了承した。今日は静かな一日になりそうだったので、宿題を終わらせてしまうにはもってこいだ。祖父には外を出歩かないように釘をさしておかねばなるまい。天気は良好、日差しも容赦ない。近年稀に見る猛暑日が続いて水不足のニュースがテレビで報道されいる昨今、外を不用意に出歩かれ熱中症でぶっ倒れてしまうのではないかと気が気でない。祖父も毅の心配を素直に聞き入れ、リビングでテレビを見たり和室で新聞を読んだりするようだ。
そんなわけで、今日は皆個人々々の静かな時間を過ごすことになった。




