帰れない家
訳が解らない震えにつられ、足が動いてくれてよかった。
駆け出すように店を出て、振り返ることもしなかった。
とにかく傘は用を足してくれて、濡れずに駅までつくことができた。震えが止まらないせいか自動改札を抜けられずやむなく定期を駅員に見せ電車に乗り込むことができた。
電車に乗り込むとやっと少し安心できた。暖房に暖められて温度を取り戻した指先をさする。
お腹すいたなぁ……。
夜勤もこなす母と一緒に夕飯を食べれる日は少ない。母は塾で帰りの遅いカナエを待って一緒に夕飯をとってくれる。
話題にのぼるのは大体が模試や志望大。
模試を受けるのも大学に行くのもお金のかかる話なのに、母はそんな苦労をおくびにも出さない。むしろ目を輝かせて聞いてくれる母には感謝しかない。
――いつか恩返しをしたいな。
暖まり、弛緩した体からため息に似たあくびが滑り出る……。
冷たい雨にうたれ、妙な出来事に興奮したせいかうとうととまどろんでしまった……。
立てかけた傘がからんと転がるのとカナエが目を閉じるのは同時だった……。
「ー!ー!」
しまった!寝てた!
到着駅を知らせるアナウンスに飛び起きる。
よかった、寝過ごした訳じゃないみたい。
起きたら傘は無くなっていた。誰かが間違って持って行ったんだろうか……。
車窓から見るに、雨はもう上がっていた。
不気味な店で手に入れたものだ、用が無いなら惜しくも無い。とにかく早く帰ろう。
駅を出て家路を急ぐ。
住宅街の手前、駅からすぐの二階建ての古いアパートが我が家だ。
駅が近いのはいいが薄い壁に電車の音が響くので家で集中して勉強するのは少し難しい。
カンカンカン――
いつもより少し早いテンポで家の前へ。明かりがついているからお母さんはやっぱり待ってるんだろう。
やっと心底ホッとして、隣に響かぬようそっと玄関を開けた――。
「パパおかえりなさい!」
「……え?」
小さな女の子が玄関に向かってかけて来た。
「おかえりなさい。この子ったらパパにおかえり言うんだって寝なくって……あら?どなた?」
廊下の奥から女の子と目元のよく似た女性が早足でやって来た。女の子に向けていた視線を上げて……驚いて固まっている。
「え……あ!ごめんなさい!間違えちゃったみたいで!」
言いながら勢いよく玄関を閉めた。
あまりの事に心臓が耳元で動いてるみたいだ。
玄関の奥からは「いまのだーれー?」「さぁ……?間違えちゃったみたいね」と親子の会話が薄く聞こえる。母親の声は明らかに警戒の色を含んでいた。
間違えた?二階建ての小さいアパートだ。いくら疲れていたって間違える?
それにあんな小さな子がいれば声くらい聞いた事あるはず。このアパートで子供の気配を感じた事なんて無い。電車の音に困るくらいに壁は薄いのに!
そうだ、何号室?
ばっと顔をあげて部屋の番号を確認した。
うちの番号だった……。
玄関の鍵がガチャリと閉められる音が響いた――。
「おや……お戻りね…」
あの店に戻って来ていた……。
女は細かい細工の入った金細工の懐中時計を薄い手のひらの上で弄んでいた。
「刻限にギリギリ……危ないところだった」
長い睫毛を伏せて文字盤を確認した女は時計を閉じる――パチン……
断ち切るような音を立てて懐中時計はしまわれた。
途方にくれて彷徨ったままに駅に戻り改札を抜けようとするもさっきと同じように通らず、まごついているところを駅員に呼び止められた。
「どうしました?何かお困りですか?」
さっきと同じ様に定期を使えないと駅員に定期を見せる。瞬間駅員の顔がこわばる。
「これは困りましたね。こちらでお待ちください」
年嵩の駅員の柔らかい笑顔に招かれて駅員室に入る。座るように促され、寒かったでしょう?などと声をかけてくれる。
しばらくして警察官がやって来た。
夜も遅いと言える時間に不審な女子高生がいれば当然だ……いつもの自分ならこんな事あってはならない。こんな状況になるような生活はしていないが、なんとか問題はないと伝えようとするだろう。
でもこの時は違った。補導という言葉は遠のいて保護してもらえる!と、縋る思いで洗いざらい話した。
不思議な女の子に妙な店に連れて行かれた。傘を買ってすぐ出たけど、家が無くなっていた。自分の家には知らない人が住んでいる。
家に帰れない……と。
どう聞いても不審で話すたびに警察官と駅員の顔に警戒が滲んでいく。焦っているとますます声は上擦って不信感を募らせてしまってさらに焦る。
もう彼らの顔を見られず、つま先を見つめ指を白くなるまで握り込んだ。
「とにかく落ち着いて、親御さんにも連絡しないとね。君、高校はどこだい?」
安心させる為、というよりは情報を聞き出す為の圧を感じる口調に、もういっそ観念した気持ちで呟いた…
「〇〇高等学校です……」
これで学校にも連絡が行くだろう……きっと内申にも響く。三年間積み上げて来たのに……。
それでもとにかくこの訳のわからない状況から助けて欲しかった。
家に帰りたい。帰らないと。
「〇〇高校?」
ビリっと響く様な声だった。
「そんな高校は無いよ」
ざっと血が音を立てて下がるような気がした。
見つめたつま先が滲んで、そこから地面に溶けて行くように見えた。
「それにその制服……この辺じゃ見ないね……。どこから来たの?家には何日帰ってないの?」
駅員が申し訳なさそうに声をかける
「それにその定期だけど、この辺じゃ見ない駅名だよ……ほんとに、どこから来たの?」
見つめたつま先からくるぶし足首までぼやけて境界が無くなっていく様だ。
はっはっと息が浅くなる。
私の高校は県下1番の進学校だ。知らない人なんて居ない。ここに入学するのだって本当に大変だった。お母さんがーーどんなに喜んでくれたか……。
「親御さん心配してるよ、さぁ家に帰ろう」
警察官が諭す様に言う。家出少女だと思われているんだろう。顔を上げれば後ろの駅員も哀れそうにこちらを見ている。
「さぁ……」
帰りたいのはこっちだ!
警察官が肩に手を置こうとしたのをはじいて勢いよく立ち上がり走り出した……。
そこからこの店までどこをどう走ったのかは思い出せない。気がついたら私はまたここに来ていた。
「さて……もういくらか見ただろう?お前は異界に招かれた――」
「そんなバカな事!……ある訳ない」
あってたまるか……そう思って女の言葉をさえぎる。こんな……非現実な……。
さえぎられた女は片眉を不機嫌に上げて言う。
「通らない定期……こちらに戻る頃には駅名まで伝わらなくなっていただろう?
家には知らない家族が住んでいる。
その制服も誰も知らない……。
そして……傘を忘れた」
ピクリと体がわずがに跳ねる。
女を見つめるとその手にはあの時買ったビニール傘……。
「体を冷やさぬ様に……風邪など引かぬように……気をつけていたのだろう……カナエ」
そうだ。
こんな寒い時期に雨なんて絶対に避けたかった。いつだって鞄には折り畳み傘を入れていた。
また息が早くなる。指が足先が……先端から血の気が引いていく……。
私は今日傘を持っていなかった。
鞄から出した……?いつ?
心臓が耳の中にあるみたいにドンドンと脈打つ音に体が歪みだしてしまいそうだ。
視界がー端から白く滲んでいく……。
それに……名前……。なぜ知っているの?
「……お前はもう招かれていたんだよ」
女の諭すような静かな声に、鼓動さえ止まった。耳鳴りのするような静寂の中、私は意識を手放した……。




