カナエ
しまった――傘が、無い。
雨が降っている。私は塾から出ると寒空を見上げてため息をついた。
センターの近いこの時期、体調を崩すわけにはいかない。
吐く息は冷え切った夜空に消えていく。
早く帰らなければ、お母さんが心配してしまう。
私は走り出していた。
走りだした途端雨足は一気に強くなった。大粒の雨は歩道に不規則な水溜まりを増やしていく。
急ぐあまりに避けきれず何度も水溜まりを踏み抜いてしぶきを飛ばす。すれ違う人が迷惑そうに振り返る。
冷たい雨が靴に染み込んで足先から感覚がなくなっていくようだ。
目の下の薄いクマが雨で冷やされて、浮き出すように感じた。
いつもならすぐそこの駅が今日はやけに遠く感じてしまう。
あぁ、やっぱりコンビニで傘買おうかな……
「ねぇ!お店、こっち!」
驚いて振り返ると見たことない制服の女の子に二の腕を強く捕まれていた。
長い黒髪を二つに束ね、短く切った前髪の下にはくりくりと大きな目が光っていた。
「やっと見つけた……すぐそこだから!行こう!」
まるで救いを乞うような笑顔なのに、不釣り合いなえくぼが浮かんでいた。
掴まれた腕が痛い。
有無を言わさない彼女の勢いに、引きずられるようについていった。
――こんなところに店があった?
彼女が連れてきたのは今走ってきたその道沿いだった。
看板もなく、何かの店らしいことはわかるがコンビニという雰囲気もない。
「早く!ほら!!」
急かすように腕を引かれ、強引に中に入れられた。
店の中は雑多で脈絡も無い物で溢れていた。
見た事の無い植物のドライフラワーが天井から下がり、どこかの民族楽器の横には何かの鉱石なのか光を吸い込むような石が山と積まれていた。
道に面した窓は結露で曇り、外がほとんど見えなかった。
「何をお探しかな?」
不意に声をかけられびくりと振り返ると、レジ、というよりは銭湯の番台のような場所に女の人がいるのが見えた。
薄暗い店の奥にいる彼女の顔はドライフラワーの陰に隠れてよく見えない。
かろうじて見える薄い肩に黒い髪を流し、カウンターに置かれた細い指先が白く浮きだしていた。
「あの、傘を……」
強引な女の子と得体の知れない店と店員らしき女性。
妙な雰囲気に恐ろしくなり声が震える。
なんでついてきちゃったんだろ?
女の人はひどく綺麗な指をカナエの後ろに向けて指した。
よく見るビニール傘が何本か傘立てに入っている。
こんなもの、さっきまであった?
とにかく、必要なんだから、買ってさっさと帰ろう。
お母さんがきっと待ってる。
カナエは傘を一本とり、女性の前まで持っていく。
「おいくらですか?」
女性は少し考えると、指を二本出した。
私は深く考えるのをやめ、財布から二百円を取り出し、彼女の前に置いた。
「!!」
店の入り口のすぐそばにいた女の子が、カナエがお金を払うと同時にすごい勢いで出て行った。
とたんに震えるほど不安になり、出口に走る。
「待ちなさい」
静かな声だった。
ほとんど意識もせず、呼吸を止めて女性を見ていた。
雨音さえ止まった気がした。
「…もし、帰り道がわからなくなったら、戻っていらっしゃい。」
――返事は出来なかった。
人では無いような美しい顔が、暗がりで薄く笑っていた。
この時にはもう“招かれて“いた事を、私は知らなかった……。




