三十話 できることとできないこと
ようやく風邪が治りました。これからも頑張ります。
「待ってます。ずっと。」
♢
どうにも空気に耐えられなくなり気づくとその場から逃げだしていた。なにせ恋愛経験などあるはずもなく、ましてや離れたくないなんて女性に言われたことなどあるはずもない。
「おいおい、なんて顔してやがる。」
気持ちを落ち着かせようと顔を洗うためにトイレに来ていた。茹で蛸ののように真っ赤に染まった自分が酷く情けないようにも思えた。仕方がないといえば仕方がないが、あれではただの甲斐性のない男らしさの欠けた軟弱者だ。
ふと腕時計を眺めると帰る時間を少し回っている。本来ならこのまま家に帰って、夕食を家族とともにとり、テレビでも見て時間を潰して、君を想って眠るんだ。いつものことになってた。
これは両思いで良いのだろうか?我ながら随分と気持ちの悪い顔をしている。さっきまではあんなに赤面していたのに今ではこのにやけ面だ。鏡を叩き割りたい衝動に駆られるも拳を抑える。そしてまた頬が緩む。あぁ、気持ち悪い。
♢
病院のベンチで何をするでもなくただ時間を潰した。今更時雨の元にも戻れず、かといって帰宅となると心残りがある。どうすればいいのかわからないまま、放心状態で足を前に出したり後ろに引いたり。
「なーにしてんの?」
見上げると、いつも通りの真夏にそぐわないスーツに身を包んだ女性が右手にブラックコーヒーを、左手には炭酸ジュースを持ってやってきた。
「若葉さん...。」
「炭酸でよかったよね?」
黙って頷きジュースを受け取る。何もかも見透かされてるようで少し気恥ずかしく感じつつも、確かな気遣いに大人だとも思った。
「俺は...、何にもできない子どもなんですね。」
「悪いことがある?実際に子どもなんだしさ。」
それでも、してあげたいことは山ほどあるのに、足りない。時間も、自由も、権利も、覚悟も、ない。
「そういえば、二人で話すのは初めてあった時以来だね。」
「...そうですね。って言ってもまだほんの数日しか経ってませんけど。」
「私思うの。子どもってさ、すっごい大変だよね。いろんな意味で忙しくて、辛いよね。」
初めは何の話をしているのか分からなかった。ただ、若葉さんが黙って聞いて欲しいと目で訴えかけてきたので、静かに聞くことにした。
「自由もなければお金もない。時間はあるけどそれ以上にやらなきゃいけないことが沢山ある。長く生きれば大人でいる時間の方がよっぽど長いのに、その長い時間は子どもの時にどんなふうに過ごしてきたかで大半が決まってしまう。さらには、思い出も、思想も、性格も、思考も、だいたいが子どもの頃に決まってしまう。子どもの方が大人より多感だし、幸せも悲しみも大きくなりやすいんだと思う。それは良いことかもしれないけど、悪いことでもある。私なんかよりは苦しい日々を生きているあなたを私は尊敬するわ。」
誰もが子どもだった時がある。何もできない子どもであることにコンプレックスを抱える必要はない。
「何もできないなんて思わないで。あなたは充分誰かの為に事を成してる。それでも自信がないなら、私に背中を押させて欲しい。」
ぽんと肩に手を置かれた。服の上からでもわかるくらい暖かかった。じんわりと心に沁みるようで、泣きそうになったのを必死で堪える。
「めんどくさいことはさ、大人に任せて。ばれたらその時はその時。必ず私が守るから、やりたいようにやったら良いよ。言ったでしょ、救われるのは時雨様だけじゃないから。」
「っ!ありがとうございます!」
一度帰る。話はそれからだ。若葉さんに一礼して勢いよく駆け出した。これからどうするか、考えなくては。
「がんばれ。」
流れる涙が頬を伝った。




