第四章
トワは色々知っている。
トワは森に愛されている。
そして、祐樹もまた、トワを。
「まだ着かないの、トワ」
今日の仕事――花の中から落とされた種を土に埋める作業――を早めに終えた二人は、森の北東部にいた。
天に届いているのではないかと疑いたくなるほどに高い、木。
そんな木々がぎゅうぎゅうに犇めき合っているせいで、地面や雑草はおろか、土さえも根で覆われてしまっている。
人が歩くような平らな道もない。二人は太い根を踏み、腕よりも太い枝に掴まりながら前へと進んでいく。
「まーだだよ! 後ちょっと!」
「さっきから、ずっと、後ちょっと、じゃないか」
「でも後ちょっとなのー」
身軽なトワは兎のように根から根へと飛び移り、暗闇を突き進んで行く。
見上げでも、そこにあるのは黒だ。空高くにある葉が完全に光を遮断し、光は一筋もない。葉の形さえ確認することは出来なかった。
トワが洞窟から持ってきた白く光る石がなければ、数メートル離れただけでも相手の姿を見失ってしまうだろう。
「と、トワ、待って……」
「はやく、はやくー」
ぴょんぴょんと飛んで進むトワとは違い、祐樹は慎重に根へ足を掛けていく。
足を滑らせて根と根の間に挟まり、トワに引き抜いて貰うこと計三回。転んで顔を打ちそうになり、服を枝に引っ掛けたりと、祐樹は大樹達に弄ばれていた。
それでもトワに置いていかれないようにと重たい足を懸命に動かす。頬に伝ってきた汗を腕で拭えば、泥が祐樹の顔を汚す。鼻の先まで茶色になった。
「祐樹、だいじょうぶ?」
十数歩先の枝の上に飛び乗ったトワが、後ろを向く。
漆黒の中でも際立って目立つ白い肌が、石の明かりに照らされて更に白い。白い服、長く綺麗な髪も、一つの光しかない空間で透けるように白かった。
黒の世界の真ん中にぽつりとある光。枝に乗っているトワはまるで浮いているようで、今にも飛んでいってしまいそうだった。
「大丈夫、だよ」
「ほんと? だいじょーぶ?」
「本当。大丈夫」
祐樹は首を振って、髪に垂れてきた汗を飛ばす。これ以上トワの助けを借りないようにと、鼻で荒い息を吐いた。
「じゃ、ラストスパートだよ!」
トワは安心したように笑うと、枝から飛び降りた。細い根の上につま先で器用に立ち、そのまま新しい根へ移る。
祐樹はトワと足元を交互に見ながら、根を強く踏みしめた。
木と木を繋ぐように伸びる蔓を綱渡りし、いつの間にか厳つい石の足場となっていた道を越していく。滑れば怪我をしそうな角のある石によじ登り、祐樹は一筋の光を見つめた。
トワが持っている石の光ではない。
暗闇からの出口を知らせるように光があった。それは、しばらく目にしていない光だった。それでも何十年と、毎日のように浴びていた、光だ。
森の中では決して見ることの出来なかった目を細めんばかりの日光が、そこにはあった。
トワの持っている石が、森の出口から見える赤い光に飲み込まれていく。今まで見えなかった周りが見え始め、土と、敷き詰められるように並ぶ小石が視界に入っていた。祐樹は自分が洞窟の中を走っていると、今、知ることができた。
祐樹が上った岩が最後だった。それから降りれば、差し込む光への一本道だけとなる。
トワが何かを言いながら光に向かって駆けていく。大分開いてしまった距離と反響する足音で、トワの声は祐樹に届かない。
そして、トワは光の中に消えていった。
「トワ!」
祐樹もトワを追うように走った。
一時間以上、ジャングルのような場所を歩き続けていても、祐樹にはまだ走れる程度には余力が残っていた。
次第に狭くなってきた天井に頭を打たないように腰を曲げながら、筋肉の付いてきた足が土を抉る。
荒い息が壁にぶつかり、微かに聞こえているトワの声を掻き消す。聞き取れないもどかしさに祐樹は足の速度を上げた。土埃が舞い、綺麗な空気を少しだけ汚した。
赤い光が大きくなっていく。手を伸ばせば掴めそうな光が祐樹を包み込み、突き刺さる色に瞼が落ちる。
腕で光を遮りながらも、祐樹は頭から、眩い出口へと突っ込んだ。
「祐樹!」
くん、と腕を引かれ、勢いの付いていた祐樹の足は止まった。
「目、あけてみて!」
トワの一声で、祐樹は光に慣れていない瞳を無理やり開けた。黒かった世界が真っ白に染まる。それからすぐ、光の色へ。
見えたのは、赤。そして……
「凄い……」
「でしょ!」
そこに、木で覆われた世界はなかった。こまでも広がる、広い、広い空があった。
青から赤く色付き始めた、空。雲がゆっくりとオレンジに染まり始め、夕日に姿を変えた太陽がじわりじわりと地平線へ沈んでいく。
遠くの空は既に藍色だ。そのうち黒く染まり、今輝いている鮮やかな色を消していくだろう。
自然の光が肌を刺す。久々の光に、夕日だというのに祐樹の肌はちくちくとした痛みを覚えていた。
「あ、おはよ」
トワの懐に潜り込んでいたリスのような身体を持つ青い鳥が、ぴゅうと鳴きながら顔を出した。鳥はトワに頬擦りをし、羽を広げる。
ぴゅう、ぴゅうとその鳥が鳴けば、遠くの方で飛んでいた鳥の大群が二人の頭上に集まってきた。
鳥は光ってでもいるのか、赤の色に取り込まれず自分の色を主張していた。
赤の中に、小さな青のコントラスト。トワが嘴にキスをすれば、鳥は嬉しそうに鳴きながら飛び立った。青い点が一つ増え、仲間の中に混じりあう。
夜の花が発する光とはまるで別物の光は祐樹の瞳も輝かせた。
美しい大空に祐樹は言葉も忘れて、天を仰いだ。
「ひとりでここに来たら、だめだよ? 祐樹、ぜーったいに落っこちちゃうもん」
「落っこちるって、どこに?」
「下に」
固まっている祐樹をトワが引く。祐樹はトワの言っている意味が理解できず、視線を落とした。そこでまた、硬直してしまう。
祐樹が足を少し動かせば足場が崩れた。小石は壁にぶつかることもなく、静かに遙か遠くの地面を目指して落下していく。
大きな空の下は断崖絶壁の崖だった。
祐樹が立っている場所は崖の先端だ。後退さるように祐樹が岩の壁に背を付いても足場はトワの背ほどもない。強風に吹かれ、ふら付きでもしたら標高何千メートルもあるこの場所から真っ逆さまだ。
トワが服を掴まなければ、祐樹は崖の下に飲み込まれていただろう。暑さで赤くなっていた頬からさぁと血の気が抜けていく。祐樹の背中は一気に冷たさを帯び、喉から水気が消えていった。
崖の下は森だ。
地面は木一色で、他には何も見えない。皆暮らしている森だと、恐怖に怯える頭がぼんやりと考える。
緑の森は赤に飲まれ、いつもとは違う色を見せていた。高い位置から見下ろしているため、森は赤い絨毯のように見えていた。赤く染まる森は空とは違い、どこか不気味さを持っている。
風でざわわと揺れる葉は、寂しげに鳴いているようだった。
「トワの寝るところは、最近ぜんぜん太陽がでてくれないの。だから、ここだけなんだよ! 太陽をみれるとこ!」
祐樹の腕から掌へと指を移動させ、トワも壁に背を預ける。トワの指の熱が、祐樹の硬くなった身体を解していく。再び、二人は自然の景色を眺める。
しかし、祐樹の視線はトワに向いていく。
夕日を見つめるトワは、一段と魅力的だった。美しい赤を受けながらも、自分の色をなくさない。祐樹は自然の赤よりもトワに目を奪われ、繋がれた掌を熱くした。
トワが楡一達とは違う仕事をしている理由は、トワ自身を見ていればすぐに分かることだった。
トワは自然に愛されていた。
小鳥たちはトワに摺り寄り、花々はトワの声に答えるように花弁を揺らす。トワが笑えば風は優しくなり木々の葉も嬉しそうに揺れる。
小動物は兎も角、自然までもがトワを好いているなど、誰かが聞けば祐樹を馬鹿にすることだろう。
だが、祐樹にはトワと自然の関係をその言葉以外で表すことは無理だった。
「祐樹、ここ気にいった?」
トワが視線を上げ祐樹を見た。合った視線に、祐樹は見とれていたことを悟られぬよう、急いで空を見上げる。空は先程よりも赤を失い、黒が近づいてきていた。
「気に入ったよ。今まで見てきたものの中で、一番綺麗だと思う」
「でしょ? またこようね!」
「うん、来たい。それまでにもっと体力つけなきゃね」
「そうだよー! 祐樹はもっといっぱい力つけないとだめ!」
「うう、でもトワがありすぎるんだよ」
「男の子なんだから、トワに負けちゃだめなの!」
祐樹が小さく頷くとトワは歯を出して笑い、また空を見上げた。そして大きく息を吸い込み、
「ね、歌ってあげる!」
何の前振りもなく、突然に歌い始めた。
小さな口が開き、そこからオルゴールのようなメロディが流れていく。
風が歌に同調し、音楽に合わせてヒュウと合いの手を入れる。遠くにいった鳥たちが声を聞き、歌に合わせるように鳴き始める。
空に広がる声は、光っているようにすら見えた。
「どぉ?」
歌い終えれば、トワはすぐさま祐樹に感想を求めてきた。
空に向かって歌っている時は大人びて見えた表情は、祐樹の方へ戻ってきた時にはもうあどけないものへと戻っていた。
「凄く、いいと思う」
お世辞などなく、本当に祐樹はそう思った。
つま先で立ち、胸を前に出して腕を広げて。身体全身を使って言葉を奏でる歌は、心に染み入る音楽だった。
小さな口が奏でたとは思えない、綺麗な旋律。それでも、大人が出すことは出来ない、純粋な色。
美しい声に聞き惚れ、歌の内容は頭に入ってこなかった。いや、歌詞はなかったのかもしれない。
トワは本能のまま歌っていた。思った言葉をそのまま歌にして出していた。歌は、トワの心そのものだった。
「ほんと? わぁい!」
祐樹の感想に気を良くしたトワは、感情のままに跳ね始めた。
足場が揺れる。高揚していた顔は一瞬にして青く染まり、暖かくなっていた心も余裕を忘れる。
「あ、危ないよトワ!」
「トワは大丈夫だもん、お空飛べるから!」
祐樹の言葉など聞かず、嬉しい嬉しいとはしゃぎながらトワは跳躍を止めない。軽いトワだが、全体重を足元にかければ結構な重さが掛かるはずだ。
その通りだとでも言うように、足場の隅がピシと嫌な音を立てた。祐樹の気のせいかもしれないが、小石が崖の下へと落ちていった。それを覗いて確認することも出来ず、肝だけが冷えていく。
「う、歌は、よく歌うの?」
トワの興味を跳躍から何とか逸らさせようと、祐樹は話題を歌に戻した。
「なんでー?」
「す、すっごく上手だったから、練習でもしてるのかなと思って」
「うーん、あんまり歌わないかも。でもね、とっても元気で、とっても楽しいときは歌うよ。今はそうだから、歌ったの」
「そう、なんだね」
「歌きかせてあげたの、祐樹だけなんだからね! とくべつ!」
少し恥ずかしそうに笑い、トワは激しい動きを止めた。そして、もう一回と再び歌い始めた。
歌が流れていく。邪心を取り払うような、穢れを浄化するような。どんなに悪い心を持っている人間でも、足を止めてしまう。そんな歌。
トワは飽きるまで何度も何度も、同じ歌を繰り返し歌った。
だが、ふっとトワの瞳が細められた瞬間、音が変わった。顎が僅かだが高く上がり、空気も変わる。
そして、初めて今までと違う歌が流れた。
人食いの森に遊びにおいで
みんな、あなたを歓迎するよ
きっと、ここを気に入るよ
帰りたくなくなるくらい
とっても、楽しいところだよ
「これだけ、トワが作ったのじゃない歌なの。はじめて歌った、かも。誰かがトワに歌ってくれた歌。誰かは、忘れちゃったの」
言いたいことを終えれば、トワはまた初めと同じ局を歌い始めた。
綺麗な歌が伸びていく。その歌を耳にすれば、つい先ほど歌われた歌の妙な音程が記憶の中で際立った。
今耳に入ってくる歌とはとは対照的に、とても普通の歌だった。聞き取れる歌詞には人間らしさが篭り、トワの口から歌われたことが不思議なほどのものだった。
子どもに聞かせるために大人が作った。頭をぽんぽんと叩きながら、即興で作られたもの。あやふやな音程だが、優しい微笑みが似合う歌。
そんな印象を持つ曲だった。
「トワは、その誰かが歌った歌は好き?」
その質問にトワの返事は返ってこなかった。あまり聞いてはいけない質問だったかと祐樹は口を閉ざす。
トワは、歌ったことを後悔している。そう見えてもいたからだ。
二人だけの空間に風が流れる。歌が風に乗り、流れていく。トワとは分からずとも、誰かの歌声として人に届いているかもしれない。
落ちるという畏怖を忘れ、祐樹は仄かに冷たい風を浴び、心を落ち着けていた。
空が完全に黒く染まり、星と月が顔を出してからも、二人は何時間もその場に留まっていた。
夜の中で二人は身を寄せ合い、ぽつりぽつりと話しながら、その日は日付が変わるまで一緒に時を過ごしたのだった。