第五章
兄は、人間ではなくなっていた。
トワは、人間ではなかった。
5
その日は朝から雨だった。
いつも以上に森は鬱蒼とし闇に満ちている。あまりの暗さに、白色に光る花だけが朝だと気づかなかったらしい。朝になり、他の色の花が光を消しても、白色の光だけは暗闇を照らし続けた。
そのおかげで何とか視界は確保されているものの、やはり、不用意に動いては木々にぶつかってしまいそうな暗さはある。
「それにしても、凄い雨……」
祐樹は太い幹に背を任せながら、遠くを見ようと目を細める。
見えるのは僅か先にあるはずの小屋だけだ。中にいる人は濃い霧でぼんやりとした形しか捕えることが出来ない。空を見上げても、葉すら見えない。
祐樹が森へ入ってから大分経つが、天候がここまで崩れたのは初めてだった。
雷や轟音は凄いものの、木々の隙間からは滝のような雨ではなく、水滴が落ちてくるだけ。葉の屋根で覆われた森の地面は湿るだけで、木の周りにだけ幹を伝って落ちてきた雨が水溜りを作る程度だった。
「ああ。こんな雨は、初めてだ」
祐樹の隣に座る楡一が空を見上げながら呟いた。握っていた最後の林檎をしゃくりと齧る。元気そうな楡一に、祐樹の表情が綻んだ。
珍しく、疲れのない顔で早々と帰ってきた楡一。楡一だけではなく、今日は皆どこか顔に覇気を燈して小屋へと戻ってきた。
食事の最中、いつもならば果実の弾ける音や咀嚼する音しか聞えない空間に、今日は多くの話し声まであった。今も眠るものは少なく、祐樹や楡一のように外に出ている者や、小屋の中で会話を盛り上げている者ばかりだ。
仕事の内容は秘密にされたままだが、天気の悪い日は楽なのだと楡一は言った。天気の崩れた日は楡一が饒舌になる。そのため、祐樹は雨の日を心待ちにしていた。
だが、祐樹は素直に雨を喜べなかった。
天気の悪い日は決まってトワが不調になる。楡一達と、まるで反対だった。
今日の朝。
いつものように祐樹の元に来たトワだが、調子が悪いと言って、すぐに寝床へ帰ってしまった。夕方になった今もまだ眠り続けているのか姿を見せない。
「トワ、大丈夫かな」
真っ白な顔色に、足元のふら付いていたトワを思い出した祐樹は、抱えている足の膝に顎を乗せた。
見舞いに行こうとも、トワ自身から「来ちゃだめだからね!」と念を押されている。体調が悪いところに機嫌まで悪くさせたくはなかった。
「大丈夫だって。晴れれば、すぐに元気になるさ」
「うん……きっと雨の気圧に弱いんだね。かわいそうに」
「……そうだな」
慰めるように、楡一は湿気で跳ねている祐樹の髪を撫でた。
「今日は、俺とゆっくり話そうぜ」
ぽんと頭の上に手を置き、楡一がにかっと笑う。雨を吹き飛ばすような明るい笑顔に、自然と祐樹の表情もつられていく。
「やった! いっぱい話そ!」
雨の日は必ず一日で終る。
この森ではそのように決まっているのだとトワは言った。言葉通り雨の日が続いたことは祐樹の知る限りはない。
次の日となれば、トワは湿気のなくなった空気の中で元気に跳ねる。雨の日の不調が嘘だったかのように祐樹の前に現れ、笑顔を見せてくれるのだ。
「じゃあ、今日はたくさん話すから、覚悟してよね」
「ははっ、お手柔らかに」
楡一の掌がぐしゃぐしゃと祐樹の髪を乱す。お返しにと祐樹も兄の髪を掻き乱した。やめろ、いやだの押し問答を続け、目が合えば笑いあう。
森に来てから初めて、祐樹は元気な楡一とじゃれあった。
小さな雨の音を聞きながら、二人は際限なく話し続けた。
いつもしているような楽しい話ばかりではなく、今まで祐樹が心の奥へしまいこんでいた心配も。
正確な時間は勿論、曜日すらわからない森の中だ。土日休みのような休日が当然のようにない。
楡一や働いている人間に休みは与えられていない。このまま仕事を続けていて、身体は大丈夫なのか。
楡一を探しに、親戚の家を黙って祐樹は飛び出してしている。それ故に、今森の外ではどんなことになっているか。警察沙汰の騒ぎになり、親戚を困らせていないか。
これから、どうなるのか。
様々な思いを祐樹は吐き出す。楡一は黙り、時折頷きながら、祐樹の奥底に溜まっていた闇を受け止めた。
そして、一つ一つ、答えていった。
仕事面では大丈夫だと。親戚の件も、元々は楡一が失踪したことが責任であり、祐樹は巻き添えになっただけだから何も心配いらない、と。
これからのことは、なるようになる。
朗らかな楡一の答えは解決にはほど遠いものが多かったが、祐樹の中で絡んでいた黒の根を解くには十分だった。
難しい話が終われば、今度は楡一から話を始めた。
食べ物の話や大学の話。今まで秘密にしていた隠し事。重たい空気を変える様に、楡一は些細な事柄を面白おかしく、身振り手振りまで使って話した。そこには、森へ入る前と変わらぬ楡一がいた。
何も変わっていない楡一に安堵し、祐樹は心から家族との時間を楽しんだ。
「ん?」
チカリと目に何かが入り、祐樹は眉を顰めた。
瞳の痛さに驚いて、祐樹がずっと楡一に向けていた顔を上げる。相変わらず空は葉で覆われ太陽はない。だが、落ちていた雫がなくなり、葉と葉の間から僅かな光が見え始めていた。
何枚もの葉の隙間を掻い潜り、漸く抜けてきた光は薄い。だが、そんな僅かな光が弱く細くなりながらも地面を照らす。
朝を伝えるには十分な光だった。
「もう朝……ごめん兄さん、話しすぎちゃって」
朝になれば楡一は仕事に出掛けなければならない。睡眠のために、一、二時間程度できりをつけようと決めていたにも関わらず、二人は相当な時間話し込んでいたらしい。
申し訳なさに、祐樹は表情を曇らせながら視線を楡一へ落とした。
そこで、固まってしまう。
「あ、さ……」
朝日に気づいた楡一も顔を上げていた。その顔は、今まで見てきた中で一番の青さに染まっていた。
楡一は俊敏な動きで立ち上がり、小屋を見る。楡一の代わりように驚きながらも、祐樹も視線を後ろに向けた。
霧は晴れ、視界は雨の時よりも良好だった。なので、見間違えることなどない。
小屋に、人は一人としていなかった。朝に気づき、さっさと仕事場へ出向いたらしい。大勢の中で楡一が一人いなかったことなど、誰も気づかなかったのだろう。
「早く行かないと、早く」
楡一はぼそりと呟くと、唐突に走り出した。湿気で柔らかくなった地面が、楡一のつま先の形に深く抉れる。
だが、楡一の足は、祐樹が声を掛けるよりも前止まってしまった。
「兄さん!」
金縛りにでもあったように静止した楡一に、祐樹は駆け寄る。楡一の前へと回れば、蒼白の表情が絶望に染まっていた。
手足が、走っている体制のまま固まっている。楡一がどうにか動かそうとしているのが、震える身体で分かった。
「兄さん、兄さん!」
祐樹は混乱するままに楡一の腕を取った。腕は祐樹がどんなに強く引こうとピクリとも動かない。祐樹の瞳に、涙が滲んでいく。
「大丈夫……なん、でも……」
「この状態で、どこが大丈夫なんだよ! どうしたの、どうしよう! そうだ、待って、今トワを!」
「アアァ!」
しかし、祐樹が動くよりも早く楡一が叫んだ。祐樹は絶叫に怯んでしまい、楡一をつかんだまま動けなくなってしまう。
「あ、アア、あ、ァ……!」
悲痛な楡一の声を掻き消すように、どこからかミシミシと軋む様な音が響き出す。祐樹はどうにかしようと、とにかく楡一の腕を引く。しかし、楡一は動かない。動けない。
「兄さん……兄さん! 足、が……!」
その原因は足元にあった。
楡一の足元を見てしまった祐樹の瞳が、見開く。ぼろりと、涙が地面に落ちた。
「駄目だ、駄目、だ……見るな、祐樹! 見……いけ、な……い……」
痛みに耐えるように楡一が首を振る。だが、激しく動いていた首も、固まってしまった。
軋みは楡一の足元から、いや、地面から聞こえていた。
楡一のズボンが弾け飛ぶように破れた。ズボンの中から現れたのは茶色の足だった。
硬い音に合わせて楡一の足が地面に埋まっていく。否、埋まっていくのではない。楡一の足は、土と同化し始めていた。
だが、ただ茶色になっている訳ではない。滑らかさがなくなり線が付いていく。その足は、まるで木の幹のようだった。
「アアアアァアッァアアアア!」
空を仰ぎ楡一は叫ぶ。空を仰ぐ眼球は血走り、涙を流す。
「あ、あ……」
痙攣していた身体が弛緩した。それでも、地面に倒れず直立している。
「兄、さん……」
祐樹が呼ぼうと楡一から返事はない。楡一は、気を失っていた。
楡一が身に着けている服が次々に破れ、布となっていく。外気に触れた肌は、肌の色を保っていなかった。足も、腹も、腕も、全てか暗い茶色に覆われ、凸凹とした線が入っていく。
二つあった足が一つに纏まっていく。体と同じ太さになった足の色が上半身に上がり、首、顔が、髪までもが茶色の中に埋まっていく。
茶色は楡一の顔を消しても、まだ上へ上へと伸びていった。空を覆う葉に達しても、まだまだだと上に伸び続ける。途中、真っ直ぐに進んでいた茶が分かれ、そこに緑の楕円を何枚も付けていった。
数分もしないうちに、楡一は一本の木となった。
祐樹は口を開けたまま、既に先端の見えなくなった木を見上げていた。声など、もう出ない。涙も忘れて、祐樹は元兄であった木を、見つめ続けていた。
「だいじょーぶ。夜には戻るよ」
呆然としている祐樹の背に、いつもと変わらぬ声が掛けられた。首の筋を痛めるほど上に向けていた顔が、ゆっくりと下がっていく。
赤茶色の瞳が映したのは、柔らかく微笑む、緑。
「とわ……これ、は……どう、いう……」
「まえに言ったでしょ? みんな、朝はとわのために、栄養のあるものをつくってくれるって」
ここだとあんまり栄養が取れないのになぁと愚痴を零しながら、トワは軽やかなステップで祐樹の前に来た。
普段とまったく変わらず、驚きもしないトワに、祐樹は再び言葉を奪われる。
「あのね、とわって実はね、よーせいなの」
理解不能の言葉が、祐樹の頭を殴る。
「妖、精……」
「そう! 木のね、よーせいさん! とわ、人間じゃないの。化物って呼ぶ人もいるよ。ひどいよね」
傷付いた様子もなくトワは笑う。祐樹は笑えずに、乾いた喉と回る頭の痛みに眉を潜めた。
嘘だと、今は冗談が上手いねと、普段の祐樹ならばすぐに言っただろう。しかし、困惑を増幅させる頭が、今見ている光景を、そんな言葉では片付けられないと言った。
人間には出来ないような色で光るトワの目玉が、妖精という幻に近い生き物を正当化させているようだった。
「みんな木になって、光合成して、とわにこれをくれるの」
トワが両手を上げる。
祐樹の目の前に出された掌が、黄緑色に光り始めた。光は次第に小さな丸となり、ころりとトワの掌に転がった。
「こ、れは……」
「えいよう、だよ」
トワはにこりと笑うと、躊躇いもなくそれを口に入れた。
途端、トワの身体が光り始める。風もなく、髪が靡く。腰ほどだった髪は光り、地面に付きそうなほど伸びていく。背も僅かに高くなり、顔立ちも変わっていく。それでも、無邪気な笑顔だけは、変わらない。
人間業でないのは、確かだった。
「人間は、ここから出れないの。子どもたちを傷つけたからね、みんな怒ってる。だから、外にだしてもらえないの」
トワは少しだけ近くなった祐樹の顔を覗き込みながら、手を上げた。
細身を帯びた指が動けば、ざわりと木々が騒ぎ始めた。草が揺れ、閉じていた花が全て開いていく。薄暗い空間に花が飛ばした花粉が光り、より怪しい世界を作り出していく。
「逃げようとしても、むだなの。おはなの胞子がさっかくを見せて、木のはっぱが目を遮って、ツタが足にからんで、地面はゆれて身体をたおす。ほかの子もみんなみんな手助けして、人間をもとの場所へはかえさない」
木に絡み付いている蔦が息吹き、蛇のように動く。空高くにある葉が散り始め、逃げ場を奪うように祐樹の周りをぐるぐる回る。
トワの動きに、声に反応し、自然が声を出している。
自然が、怒りに打ち震えている。
「でも、かわいそうだから、とわが子どもたちから少しずつ木の実をもらって、それを人間にあげるの。森をあらす獣をこらしめて、その肉を人間にたべさせてあげる。そのかわり、人間はとわのためにえいようを作るの。ごーりてき、でしょ?」
トワが右手を上げれば、自然の怒りはぴたりと止まった。風は止み、葉が足元に落ちていく。蔦は植物に戻り、朝は眠っている花が閉じていく。
「でもね、祐樹は、ここにいる人間とは違うの」
トワは手を下ろし、にこりと笑う。
「だって、とわの子ども、助けてくれたんだもん」
トワの顔が迫り、祐樹の瞳を埋める。強い瞳に捕らえられ、祐樹は一歩も動くことが出来ない。
「祐樹が初めてだったんだよ? とわの中に入って、いいことしてくれたの。みんな、みーんな、とわの中に入ってきて身体を荒らすの。木をきって、花を捥いで、土を掘る。ぜーんぶ燃やそうとする人もいた。痛いの。そうされると、すっごく痛いの。とわも、とわの子どもたちも」
微笑むままトワは淡々と語る。近づけられた円らな瞳の奥には、燃え滾る人間への憎悪がまざまざと光っていた。
「だから、とわと、とわの子どもに優しくしてくれる祐樹はとくべつなの! 祐樹は木にならなくたっていーの。栄養なんて作らなくていいの。とわと一緒にいてくれれば、それでいい」
だから、ね。
大人びた口ぶりでそこまで言うと、トワは口を閉じた。
「トワ……」
トワの顔が祐樹から離れていく。祐樹が何度か瞬きをすれば、トワの表情はただの無邪気なものに戻っていた。
伸びた髪も、身長も、少しだけ大人に近づいた指先も、まるで祐樹だけが見ていた幻だとでも言うように消えていた。
「あ、そーだ! あのね、今日、お花の赤ちゃんが生まれそうなの! だから、ちょっと見てくるね!」
真っ直ぐに伸ばした指を重ね、トワはぴょんと跳ねた。トワは羽でも持っているかのようにふわりと浮き上がり、瞬く間に木の上に移動していた。
「じゃあ、またあとでね!」
右腕をぶんぶんと祐樹に振ってから、トワは枝を軽く蹴る。そして、葉の中に溶けてしまったかのように姿を消した。
残された祐樹は、しばらくトワのいた木を見上げていた。やがて首の痛さに負け、顔を下ろす。そして、目の前の一本の木へと視線を戻した。
掴んでいたはずのものは腕ではなく、枝となっていた。手の形は影もなく、ただの枝だ。だが、枝を折ってしまってはいけないと、祐樹は慎重に指を離した。
祐樹は木を見つめる。元が人間だと、これが楡一であるなどと、目の前で変身する光景を目にしなければ信じられるものではない。
木になった兄にも、そしてトワにも、祐樹は恐怖を感じてはいなかった。
あるのは、ただ漠然とした、不安。
祐樹は座ることも出来ず、一人取り残された時間の中で、立ち尽くしていた。
夜が来た。
花が光り、重たくなっていた空間が和らぐ。冷たくなってきた空気も光によって幾分か穏やかになったように思えた。
木が風で揺れる。祐樹が見上げている木も、周りの木と同じように葉を揺らしていた。
祐樹は一日中、一本の木の前にいた。半日の間は立って、後の半日は地面に座り込み、時の経過を待っていた。
湿った土の上に座っていたせいでズボンは臀部の形に濡れてしまった。冷たさに、祐樹は身震いをする。それでも足を抱え、腕を擦り、寒さに耐えながらある時間を待つ。
そして、ついにその時が訪れた。
メキメキと聞き覚えのある音が森に響き始めた。祐樹が見つめていた木がみるみる縮み始め、茂らせていた葉を幹の中に吸い寄せていく。一瞬のうちに木には緑色がなくなり、茶一色となった。
祐樹は静かに立ち上がり、膝に掛けていた上着を手に取った。
枝を引っ込ませながら、木はあっという間に祐樹の背と近づいた。茶色はやがて肌色になっていく。天辺に黒髪が生い茂り、目、鼻、口が露となる。 輪郭、細い首も現れた。細い枝となっていた腕にも色が付き、指の形を取り戻す。胸、腹、性器もはっきりと形を戻し、一本に固められていた足も二本になった。
音を立てて、木は、人間へと姿を変えた。
「兄さん」
祐樹が声を掛ければ、瞼を震わせながら、楡一が目を開けた。
「上着、貸すよ」
「……悪いな」
差し出された祐樹の上着を、楡一が受け取る。視線は一度合ったきり、絡まなくなった。
楡一は硬い動きで上着に腕を通していく。祐樹にとっては長めの上着だが、楡一には下半身をギリギリ隠す長さだった。
「トワ様から、聞いた、よな」
重たい声に祐樹は頷く。楡一は深い息を吐き出すと、崩れるように地面に座り込んだ。
「オレ達が、いけなかったんだ。入っちゃいけないこの場所に入って、荒らした。神聖な場所を、穢したんだ」
楡一は荒々しく髪を掻き、頭を抱える。その様子をどんな表情で迎えていいのか分からない祐樹は、無表情を崩せなかった。
「研究のためだと木を伐採して草を抜いて、生ってた実はありったけ毟った。今なら、分かるよ。それがどれだけ酷いことで、どれだけ痛みを伴うかってさ」
言葉を出すにつれ、楡一の身体はガタガタと震えていた。先ほどまで枝になっていた腕で身体を抱きしめ、自分がもしそうされたらと呟いた。怯えた瞳が痛々しい。
「でも! だからって……木になるなんて、そんなこと!」
表情を思い出した祐樹が声を荒げる。朝から忘れようとしていた不安が膨れ上がり、一気に楡一へと向かった。
祐樹は立ち上がり、今にも飛び掛らんばかりに楡一を見る。瞳には涙が溜まり、唇は色を失って震えている。無表情だった数秒前が嘘のように、祐樹は感情を爆発させていた。
「来いよ、祐樹」
楡一は眉を潜めながら、立ち上がった。足はふら付き、一度倒れかけたが、それでも足を止めることはなかった。
祐樹は迷いながらも楡一の後を追った。止まらない涙を拭ってから、限界に近い楡一の背中をそっと支えた。
数分歩けば、楡一の足は止まった。
「ここだ」
楡一に連れて来られたのは、トワが寝床としている大きな木の株の前だった。
祐樹も何度か足を運んだことのある場所だ。だが、祐樹は驚愕のあまりに、開いた口を押さえていた。
そこに株はなかった。あるのは、背は小さいが幹が太く、ちゃんと枝に葉を付けた一本の大樹だった。
どの木よりも存在感は大きかった。淡い緑の光を放ち爛々と輝いているその姿は、トワが食べていた栄養という単語を祐樹に思い出させた。
ぽかりと開いた木の幹の中には、トワがいた。敷き詰められた葉の中ですやすやと心地よさ気に眠っている。心なしか、身長が伸びているように見えた。
「これが、トワ様の本当の姿だ」
楡一は切ない瞳で、トワを見つめる。
「人型でいる時は、トワ様は栄養が取れない。それでも、トワ様は人型でいないといけない。だから、俺達が栄養を集める。木になっている時、こうやって……」
言葉を切り、楡一は跪いた。手を地面に付け頭を深く下げる。そうすれば、楡一の身体がトワと同じ色に光り始めた。
光は、楡一とトワを一直線に結ぶ。楡一の光がトワに流れ込んでいく。トワが弾けるようにピカと光れば、次第に、楡一からは光が消えていった。同時に、覇気も。
楡一がゆっくりと立ち上がる。倒れそうになる楡一を、祐樹は無言で支えた。
「大昔は本当に大きな木だったそうだよ。トワ様はこの地を守る、ただの木だった。だけど、人間にこの地をめちゃくちゃにされて、トワ様も切り倒されて……怒りか呪いか、どっちもだろうな。人間を許さないって気持ちから、人型のトワ様が生まれたんだ」
聞いたのは、俺じゃないけど。そう言って楡一は、捕まっていた祐樹の肩から離れ、くるりと踵を返した。
「飯、食ってくる。何か食わねぇと流石にやばそうだ。お前も、なるべく早く来いよ」
覚束ない足取りで、楡一は小屋へと戻っていく。隣を通り過ぎていく楡一の頬は扱け、目も虚ろだった。背筋も、猫のように曲がっていた。
弱りきった楡一の背を、祐樹はただ、見送ることしか出来なかった。
「あ、祐樹!」
トワの声で、祐樹は目を覚ました。
膝の上に押し付けていた額が痛む。祐樹は赤くなった額を摩りながら、上手く起動しない瞳を瞬かせた。
呆けた瞳に映る自分の膝と足元。見えている草と草の間に、小さな裸足が上から現れた。
「おはよ」
顔を上げれば、そこには元気良く笑うトワがいた。
朝が来ていた。
夜に鳴いていた鳥が眠り、朝に活動する鳥が羽ばたき始める。決して目覚めが良いとはいえない鳴き声は、光る木の上を何週か回ってから森の奥へと消えていった。
トワが穴の中から飛び降りたことにより、大樹は、切り株へと姿を変え始めていた。光もじんわりと消えていく。周りに満ちていた暖かな息吹が消えたように、冷たい空気となっていく。
今日も、大樹の上にある穴から太陽は見えていない。薄い、それでも森の中では明るいであろう灰色の光が、トワを照らしている。
「とわが起きるの、待っててくれたの? うれしい!」
冷たくなっていく木とは裏腹にトワは元気一杯だ。トワは何度かその場で飛び跳ねてから、勢いを余す様に祐樹に向かってダイブした。祐樹はまだ鈍い身体を叱咤し、トワを受け止める。軽い身体は、簡単に祐樹の腕の中に納まった。
「ねぇ、俺、思うんだけど」
軽すぎる身体を抱きしめ、祐樹はトワの顔を見る。きょとんとした愛らしい顔が、なぁにと首を傾げた。
「トワがずっとここにいれば、もっと成長は早くなるんじゃないかな」
「それはだめ」
即座に、答えは返された。静かな否定に、祐樹の背中にゾクリと寒気が走る。
「祐樹は、とわを殺す気なの?」
ざわりと、木々が騒ぎ出した。オリーブの瞳の中には闇が混ざり、表情が変わっていく。
「だって、とわがここで寝てると、また、みんながとわの中を好き放題にするの。子どもたちととわは繋がってるから、どっちも痛い。子どもたちが殺されればとわはもっと痛い」
無垢な、それでもどこか殺伐とした表情に、祐樹は動けなくなる。
「祐樹、あのね」
それでも、トワはすぐにいつも通りの無邪気な笑みを蓄えた。
「とわが、みんなを守るの」
だが、紡ぐ言葉は、子どものものではない。幼い表情と大人びた言葉は、ギャップが大きすぎた。
子どものトワと、大人のトワ。
両方を目の当たりにした祐樹は、それ以上、考えていた提案をトワに晒せなかった。何も言えず、声を飲み込むことしか、出来なかった。




