其ノ七
後半、この時代劇の紹介編的作品、『美吉野歌合』の内容とリンクします。戸惑われるかもしれませんが、ご了承いただけましたら幸いです。
進む足に、うおおおおと、大地がどよめくような鳴動を感じた。
続けて空に光る赤い雷。
桐峰は全身を強張らせてはっと空を見上げる。九品が死んでも『鬼室』が壊れ去っても、空はまだ不吉に赤いのだ。
(何が起きた)
「繰抜が始まりもしたな」
桐峰の先を行く兵が、桐峰の胸の疑問に答えるように言う。戦況を予測していた声だ。
繰抜。
耳慣れぬ響きだが桐峰にも憶えがあった。
総大将を戦の最前線へ繰り出す、島津特有の無謀とも言える突撃戦術だ。
「赤震尼を討つ為にか――――――。義弘殿は本気だな」
鬼島津の頭目が、赤震尼を真っ向から敵と見定めているのだ。
何も知らぬ者が聴けば、か弱き尼僧に襲い掛かる屈強な猛者という構図を思い浮かべただろう。しかし内実はまるで違う。
「殿は彼の尼に意趣因縁がおわす。…命も懸けると、そう言われとりもした」
大領主の弟・補佐役でもあり、本人も聴こえた猛将である男が命を懸ける。尋常の沙汰ではない。
頼丸と名乗った彼はよく焼けた頬に幾つもの刀傷、矢傷を拵えた、見るからに精悍な男だった。歳は桐峰より上だろう。
仕合えば勝てるか、などとこんな時でも思ってしまう自分に桐峰は内心苦笑した。
男とは、武士とはこれだから仕様もない、と神官で商人である桐峰が呆れている。
「されば俺も、疲れたなどと弱音を吐いてはおられんな」
桐峰が軽口を叩き、改めて丹生を掴む手に力を籠め直すと、頼丸が驚いたように桐峰を振り返り、それからにやりと笑った。目にいたずらめいた光がある。
「命知らずな方でごわすな」
「お互い様だ」
甲冑を鳴らしながら動かす脚は、両者とうに限界を訴えている。
だが彼らは笑い合いながら向かった。
血戦を終焉させる為に。
二人はすぐに、逸る薩摩隼人の軍勢に行き会った。黒山の人だかり。
誰も桐峰らには見向きもしない。
手に手に刀を持ち、振り上げ、雄叫びを上げながら前へ前へと突進している。
その先に赤震尼がいるのだ。九品の母が。
彼女も手駒を連れているのだろうか、聴こえる方角から判断して、島津兵へと向けられた銃声が続く。銃声と薩摩隼人の独特の叫喚が押し合うように轟いている。鼓膜が割れそうで、桐峰は顔をしかめた。
ここで怯む訳にはいかない。
頼丸ともはぐれ、兵士たちの身体を押し退けながら桐峰は渦中へ、渦中へ、と進んだ。何度も掠めそうになる刃を紙一重で交わす。兵たちの昂ぶりは味方さえ損じそうな怒涛の勢いだ。斬り込みを掛けようとする者同士、互いが互いの動きの邪魔をし合っている様子さえ見られた。戦場ではよくある光景。攻撃は混乱の極致だ。だが彼らは一心に、目指す敵を同じくしている。
それはたった一人の尼僧―――――――――。
島津義弘らしき声が、兵士らを鼓舞している。
赤震尼がいるならば、初震姫もいるだろう。
恐らく夷空も五鶯太も、心強い味方となって。
兵たちを掻き分け、掻き分けて―――――――――。
見えた。
傷を受けた赤震尼と、初震姫、五鶯太。そして馬に乗った夷空がエキドナを繰っている。
見るもおぞましい、赤く蠢く化け物たちは、赤震尼の眷属だろう。
桐峰は事態を一瞬で把握し、赤い影たちを丹生で斬り払った。
丹生が霊刀であるゆえか、他を手こずらせていたらしいそれらは、桐峰が朱い刃を一閃させると霧散した。
赤震尼は痛手に苦悶し、身をよじらせている。伝えねばならない。
お前を母と慕った息子は死んだのだと。
「九品は確かに俺が討ち取った!」
素早く、臨兵闘者皆陣烈在前、の早九字の印を切る。星の厄難を逃れる呪法は破邪ともなる。ここに陰陽を修めた石宗がいれば、同じ印を切っただろう。
果たしてそれを聴いた赤震尼は滂沱の涙を流し、一層、身をよじらせた。早九字の印も確かに苦痛を与えたらしく、人ならぬ身を証明するように傷口から爆炎を発しながら、僧衣が揺れに揺れ、乱れる。
数多の男を籠絡し、歴史を翻弄させ嫣然と笑っていた女が。
醜怪に踊り狂う様に、桐峰は赤震尼の「情」と「人」を見たと思った。
いや。
人すら超えた、子を奪われた獣が発するような断末魔が、桐峰や初震姫ら少数を除き居並ぶ面々を圧倒した。
獰猛な羆を彷彿させる様子に、薩摩隼人らが尻込みしている。
だが息子を奪われた赤震尼の咆哮は、桐峰を寧ろ安堵させた。
九品は確かに、息子として想われていたのだ。
初震姫が白光を迸らせながら、長年の宿敵とした赤震尼にとどめを刺す。
星震の太刀で両断された尼僧の身体は赤い砂礫と化した。
砂礫は、風に吹かれて消えてゆく。
諸々の悪夢を引き連れるようにして。
静かだった。
あれだけざわめき、殺気に溢れていた戦場が、今は静まり返っている。
誰も何も言わない。
ただ桐峰だけが、赤震尼の砂礫が吹かれた行方を追うような目で、言った。
「赤震尼。九品は、冷たき風から庇ってくれたのはお前だけだと言っていた。真実、お前を母と慕っていたぞ、死ぬまで――――――――」
星から落された異形。
彼らには彼らの言い分があり、生き様があったのだろう。
望んで人界に仇なす存在と生まれた訳でもないだろう。
(だが赤震尼。息子に、もっと他に、教えてやっても良かったのではないか。世の醜さだけでなく、美しさや、価値あるものもあると、伝えてやっても良かったのではないか)
春の桜や、夏の清流や、秋の紅葉や、冬の白雪や、人と交わす情などを。
桐峰が母から教わったように、九品も育てられていれば。
空はやっと、青く晴れた。
どれだけこの青空を待ち侘びたことか。
目に沁みるような晩秋の空の雲を何とはなしに数えながら、九品は子守唄を聴いたことがあったのだろうか、と桐峰はふと思った。
耳川の戦い、と後世に呼ばれるこの戦いによる大敗で、大友家の威勢は転落の一途を辿ることとなる。
大友家の将の多くはこの敗因を、宗麟の耶蘇教かぶれに求め、家中は混乱し、離反も続いた。大友家に屋台骨と言う物が残っていたなら、この戦いによってそれは粉々に打ち砕かれたのである。
浜原の孫兵衛は、確かに石宗の馬・浄陽と桐峰の馬を臼杵の石宗の邸に送り届けてくれていた。頼んだとは言え、一体どのようにしてそう円滑にことが運べたものか、桐峰は不思議に思うと同時に感謝した。彼は「お買い物」を無事に済ませたのだろうか。
主亡き屋敷の門を見つめ、桐峰は敷地内に足を踏み入れた。
陽は燦々と差し、涼しいが穏やかな風が吹く。
戦塵に塗れた自分が場違いな世界と感じる。
目を閉じればまだ、耳川の戦場の音が聴こえるようだ。
「桐峰っ」
名を呼ばれたほうを見ると同時に、明那が離れから庭を突っ切って駆けて来た。
「明那殿」
自分でも、驚くような柔和な声が出た。
眼前に立ち、見上げる顔。少しきつい眦。
また逢えた―――――――――。
身震いする程の強い歓喜が、桐峰を支配した。
気付けば小柄な身体を抱き締めていた。
長身で怪力な桐峰がそうすると、明那の足が地から離れる。
「き、き、き、桐峰、浮いてる、浮いてる、」
明那が狼狽え、上擦った声で指摘しても。
生きて再会出来た喜びに、桐峰はしばらくの間明那を離さなかった。
明那も甲冑が押しつけられて痛かったりしたが、暴れたり離せと言ったりはせず、桐峰の腕の中で大人しくしていた。埃や汚れ、血の臭いに一切不満も言わなかった。
やっと現世に帰って来た、と桐峰は感じていた。
『鬼室』が縁で集った仲間は散開した。
夷空は海に戻り、初震姫と五鶯太は日向に留まった後、また旅に出るようだ。
宿敵を屠っても、初震姫の旅は終わらない。
星震の太刀で悪縁を絶ち、諸国を巡るのだ。
桐峰の回国とはまた異なる色合いの旅を彼女は続ける。
五鶯太は当然のように初震姫に同道する積りのようだった。
石宗の邸で戦装束を解いて湯に浸かったあと、離れの濡れ縁に座り空をぼうと眺めながら五鶯太の一途を思い出した桐峰の口元に、温かな笑みが浮いた。
男女の色恋ではない、彼は肉親にも似た絆を初震姫に感じているのだ。
初震姫も五鶯太を、得難い供連れと思っているのが窺えた。
宿業を負った孤独な歩き巫女は今やっと、心の安寧を得て息を吐いているのかもしれない。
(その点のみを拾えば、『鬼室』は良い仕事をした。…だがこの邸は)
主を亡くした。
いずれ角隈家の家督は縁戚に継がれるのかどうか、それすら桐峰は知らない。
思えば石宗の口から係累の話が出たことはなかった。
邸内が閑散として物寂しく感じるのは、気のせいばかりではないだろう。
式神であったと思しき侍女らの姿はまだ数名、見受けられるが、数は減り、影も薄くなっている。術者亡き今、遠からず消えるのかもしれない。
明那が泣いていた。
石宗が死んだことを告げると、目を見開き、潤ませ、次々と涙を零して声を上げて泣いた。
抱き上げたまま、桐峰は何度目になるか解らない謝罪を明那に繰り返した。
すまない、すまなかった、と彼女には謝ってばかりだ。
「桐峰」
くぐもった声に振り向くと、泣き腫らした顔の明那が濡れ縁の、桐峰の隣に来て座った。
「…戦は終わったし。出雲に帰るんか?」
「いや、まずは吉野に向かう。石宗翁のことを、臥千上人に伝えねばならん。…もう察しはついておられようが。俺の口から、話したいのだ」
「……そうか」
明那は少し安心したように頷き、それからまた何かを問いたげに唇を開いたが、結局何も言わなかった。
鳶が長閑に鳴く声が聴こえる。
戦に大敗しても変わらないものは変わらない。所詮は狭き人の世の出来事だ。
ささやかに変わったこともある。
明那の腰帯には翡翠の石細工が下がり、桐峰の左小指には鹿の角の指輪が嵌まっている。
「俺は明日、登城する」
「え?臼杵城に?…何しにや?」
うん、と桐峰は明那におどけた瞳で頷いた。
「宗麟に、献上する物があるのだ」
明那は怪訝な顔をしたが、異は唱えなかった。
潮騒の中。
精好織の直垂に侍烏帽子。
前回、謁見した時と全く同じ衣装で桐峰は宗麟の前に臨んだ。
平伏はせず、最初から許しも待たず顔を上げている。
だが宗麟はそれを咎めず、寧ろ阿るように桐峰に声を掛けた。
「おお、小野。此度はようやってくれたの。初震殿にも感謝しとる。九品も赤震尼、いや、あの売女も、儂をたぶらかしおったやつばらめを、よう討ってくれたわ。戦は敗れたが、何、憑きが落ちたからにはもう大友も大事なかろ」
余人が聴けば呆れを通り越すであろう宗麟の物言いに、桐峰は反論せずにこやかに言上した。
「宗麟様には恙なく、何よりです。本日は耳川にて見事な御最期を遂げられた、越前守角隈石宗殿の遺品を献上致したく、参上仕りました」
石宗の名を出すと、宗麟の目が落ち着きなく泳いだ。
戦は避けるべきと進言し、死んだ軍師に対して、後ろめたい思いはあるらしい。
「む。うむ、そうか。…その箱か?何やらよう、知れん物じゃが」
桐峰はにこりと笑う。
「これはただの箱にあらず。オルゲルと申し、楽を奏でる物にございます」
「オルゲル。儂が見た物とはどうも、違うの」
「石宗殿の遺志と思い、どうぞお納めください」
「うむ…。それより小野、お主、当家に士官せんか?働きに報い、便宜も図ってやる程に」
渋々といった口調で首肯した宗麟が、今度は懐柔する響きで桐峰を誘った。
「石宗殿御存命であれば、或いは考えたやもしれません。が、お断り申し上げます」
きっぱりと、桐峰は言ってのけた。
流石に宗麟が鼻白む。
「石宗石宗と死人の名ばかり煩く囀りような。斯様にくだらぬ物を作り、あれも耄碌しとったんじゃ」
途端に桐峰の全身からぶわ、と立ち上った凄まじい殺気に、宗麟は恐怖してあとずさった。桐峰は帯刀こそしていないが、喉元に刃を突き付けられた錯覚に陥り震える。
「そうだ。斯様にくだらぬ物を。これからも作り続ける筈であったのだ、石宗翁は。生きてさえいれば。俺は石宗翁の押し売りにずっと悩まされる筈だった。解るか、宗麟。生きてさえいれば、だ―――――――」
「な、何を。無礼な、」
「この桐峰、翁の生を摘んだ愚鈍な輩に尽くす礼など持ち合わせぬ」
桐峰が勢いよく立ち上がると、宗麟が目に見えてびくびくと慌てふためいた。
その醜態を冷たく見下ろす。
有言実行とばかりに、桐峰は辞去の礼も告げずそのまま踵を返すと広間を立ち去った。
残された宗麟はオルゲルの棒を握り、ぎこちなく回した。
潮騒に混じり、老人の手つきと同じようにぎこちない楽の音が流れる。
たどたどしく、愚直に。とても滑らかとは言えない旋律。
石宗の人柄を表すような音色を、宗麟は聴き続けた。
項垂れて、気が塞ぐのに、棒を回す手を止めることが出来ない。
その夕刻、明那に頼んで集めてもらった菊の花を、いつも石宗と夕餉を食べていた母屋の、外陣に当たる部分に並べた。散華のように。
黄、白、紫、紅色などが濃い茶の艶光りの上に浮き上がる。
水垢離を終え、御師の浄衣姿に戻った桐峰が神言を唱える。
「早馳風の神、取次ぎ給え」
一陣の、晩秋に似合わぬ温風が吹いた。
「石宗翁。宗麟は俺が叱っておいたぞ。ついでにオルゲルも押しつけてきてやった。…………不甲斐無いが、これくらいしか俺に出来ることはない。そちらで逢ったらまた、酌み交わそうぞ」
石宗が笑いながら、その時は覚悟しておれよ、と言った気がした。
三日後、桐峰は明那と共に臼杵を発った。
小野桐峰はその後、出雲には帰らず、吉野に数年居ついた。
牛馬解体を生業とする賤民の娘である明那を娶ることに、小野の家族らが反対し、実家と疎遠になったのだ。
だが、明那が子を産むと、世の常の如く孫可愛さに桐峰の両親が折れ、明那を伴い桐峰は『鬼室』を追い始めて以来、実に五年振りになる出雲は杵築へと帰還を果たした。
しかし実家に居座ることなく、さっさと明那と子を連れて吉野に戻り、明那の家の稼業を手伝い、時折、回国の旅に出る他は世の趨勢に関わることなく吉野を永住の地とした。
彼の使っていた大太刀・丹生の行方は、その後、杳として知れない。
そして現代。
自分の前生である小野家の縁戚・小野桐峰と彼の愛刀・丹生を追い、江藤怜は冬の吉野山まで来た。
卒論やら何やら、気懸りなことを放り出して来てしまったが、お蔭で桃木鎮矢――――誇り高い舞姫を思わせる女性と逢うことが出来た。
異性に対して臆病な鎮矢と、異性に距離を置いて接する怜が、不思議と惹かれ合った。
これも導きと言えるだろうか。
彼女と宿を出て歩きながら、怜は、丹生はどこに行ったのだろう、と考えていた。
臥千上人はそれについて何も言わなかった。
自分とは違い、丹生を正式に研究対象とし、卒論のテーマに取り上げている鎮矢も、現在の保管場所までは知らないらしい。
『鬼室』を、恐らくは破却出来たのであろう桐峰は、友である石宗を亡くし、耳川では無残の極みと言える大敗を目にしただろう。尼子盛衰を見て育ち厭世的になった桐峰は、空虚な自分を奮い立たせて九州、日向まで赴いたようだが、それで得るものはあったのだろうか。
ますます現に嫌気が差したりはしなかっただろうか。
桐峰が九州に向かった頃、時期を同じくして尼子氏は滅亡している。
桐峰には寧ろ、心折れる要素のほうが多かったと思えるのだが、そのあたりについても臥千上人は語らなかった。
鬱々として生涯を終えた―――――――。そうも思えない。
自分が吉野で思いがけず鎮矢に巡り逢えたように、『鬼室』を追った彼にも、道々、出逢い、絆を結んだ人たちがいたのではないだろうか。
過酷な現実に立ち向かう力をくれるのは、得てしてそんな僥倖だ。
遠い縁に連なる青年御師が、孤独と荒んだ時代に項垂れるばかりではなかったと、怜はそう信じたい。
〝中々どうして、面白き男であったぞ〟
桐峰を語る臥千上人の口振りは楽しげで、湿ったものは感じられなかった。
なぜかまだ、丹生は桐峰と共に、日本を巡っているような気がする。
或いはこの吉野に。
雪の浅く残る山道を行く怜と鎮矢を、親しげに眺める視線があることに、彼らは気付いていない。
その青年はまだ吉野に訪れぬ春の風を思わせる笑みを湛え、染井吉野の桜の樹上に胡坐をかき、肩に長い太刀をもたせ掛けている。
ぽちゃん、ぽちゃん、と清流に小石を投げる少年は、制服の上にコートを着込み、マフラーをぐるぐる荒っぽく巻いている。吐く息は絶え間なく白くて彼をうんざりさせた。
石を握る手は幼いとは言えず、しっかりした骨格の作りが既に出来てはいるが、さりとてまだ成人男性の手にも似ない。世間の波に揉まれる前の、覚束なさの残る手だ。時々、女みたいに綺麗な手だと女子には羨ましがられ、男子にはからかわれる自分の手が、少年自身は嫌いだった。もっと強い男を思わせる手でありたい。
受験シーズン。模試の成績は思うように伸びず、自分が本当は何をしたいのか、どんな職業に就きたいのかさえ解らない。
けれど競争には勝ち抜けと、大人はこぞって言う。
狭い門を潜った先にお前の安泰があるのだと口を開けばそればかり。
(わっかんねえよ。そんなんで良いのかよ)
勝ち抜いて、人を蹴落とすのに躍起になって?
そんなことの為に勉強するのか。それが大人になる為に踏むべき段階だと言うのか。
安定、安定、と繰り返す大人たちの目は、血走っているようにすら感じる。
プレッシャーや、目的地さえ不明であることに追い詰められ混乱した少年は、学校をさぼって自宅近くの小川を前に蹲っていた。
小川と言っても今はその半ばが凍っている。
雪とも氷ともつかぬ白い下の透明をちらつく銀色の魚は、寒くないのだろうか。
自分なんかよりもよっぽど強いな、と自嘲気味に感心する。
(大体、こんな吉野なんて田舎で、どう将来を見ろっつーんだよ)
少年自身はこの土地が好きだが、不便極まりないことは事実だ。長い通学時間の為に早朝から起き出す毎日。特に秋冬、日照時間が減る季節、暗い山道を一人でとぼとぼ歩いていると、何とも物寂しい思いに襲われる。大きな人工の明かりが見えた時の安心感と言ったらない。
進学すれば、寮かアパート住まいになるだろう。
きっとこことは比較にならない汚れた空気の中で。
もやもやと胸にわだかまるものを持て余していた彼は、いつの間にか、向こう岸に人が立っていることに気付いた。
白い着物を着て、ふんわりと佇む青年は長刀を持って微笑を浮かべ、こちらを見ている。
クラスや予備校の女子が見たら騒ぎそうなイケメンだが、やばい奴だろうか。どうしてこんな辺鄙な場所でコスプレなどしているのだろう。それに、あの刀。
銃刀法違反、という言葉が頭に浮かぶ。
「あの、あんた、何やってんすか」
不審者と思いながら尋ねてしまった。
男が纏う春風のような雰囲気に、ささくれていた神経がつい惹かれたのだ。少年が知る、多くの大人たちとは違う。
それに背が高くて、しなやかなのにしっかりした身体つきは、見るからに頼もしく、少年に羨望の念を抱かせた。出逢った人間には安心して寄り掛かられそうな、大人の男だ。彼は穏やかに口を開いた。
「何と言うこともない。世も人も悩みも、余り変わらんと思っていた。他の思惑に惑い惑わされ、己の志を立てることが難しい。貫くことも…」
声音も印象にたがわず柔らかいが、語る内容は初対面に対するものと思えない。的を射ている気がするが、やたらに唐突だ。
「はあ」
気抜けした返事になる。やはりやばい奴かもしれない。
「それ、いんすか、その。…刀ですよね?持ってて」
「ああ、持たぬほうが怒られるゆえ、良いのだ」
さっぱり訳が解らない。
刀を持たなければ怒られるとは、どういうことだ。持ったままでは警察に怒られるどころではないだろうに。
「迷う間に時は動くぞ」
「え?」
澄んだ瞳で、自分の胸中を見抜いたように告げられ、少年はどきりとした。
青年が頭上から声を聴いたように天を仰いだ。釣られて少年も顔を上げる。
蒼天――――――――――――。
「丹生都比売様もそう言っておいでだ」
「にお―――――――」
におつひめとは誰だ、と問い質そうとしたら、青年の姿はもうそこに無かった。
〝迷う間に時は動くぞ〟
今、目の前で起きた怪奇現象より、言われた台詞のほうが少年の胸を強く揺さぶった。
昔々の幽霊も、生きていた頃は悩み苦しんだと言いたかったのだろうか。
他者の声に煩わされながら、これで良いのか、正しいのかと、歩く道に迷って?
そんな中で望み、選び取ることの困難を感じながらも。
生き抜いたのだろうか、実直に、ひたすらに。
自分も生き抜けば、あのように超然とした大人になれるのだろうか。
けれどその為には、まだたくさん考えて、もがかなくてはならないように思う。
それは想像しただけでうんざりすることだけれど。
それでも。
それでも―――――――、上を向いて、青い空を求めるように。
生きろ、生きろ、と声がする。
山間を巡り、木霊のように。
命よ巡れ、と声が聴こえる。
<完>
これにて『天正鬼とぶらい~日向雨絵詞 伝:小野桐峰』は完結です。ここまで読んでくださった皆さまと、共作相手である橋本ちかげさん、絵の明度調節を手伝ってくれた小月恵さんに御礼申し上げます。
共作というのは難しく、時代劇の共作というのは更に難しいものです。未熟な九藤の初めての共作相手が橋本ちかげさんであったことに感謝します。初震姫伝が無ければ、桐峰伝もありませんでした。文章を書く人間として、一生の思い出になる貴重な体験をさせていただきました。
小野桐峰と明那、夷空、初震姫と五鶯太、耳川の戦いで同じ戦場を駆けた彼らは、離れても同じ空の下にいる戦友のことを忘れなかったと思います。
九藤もまた、ちかげさんを戦友と呼ばせていただきます。
読者の皆さまと戦友であるちかげさん、そして登場人物として生きた彼らにスペシャルサンクスのイラストを最後に捧げます。色なしの鉛筆描きで恐縮ですがお受け取りくださいませ。