3.1 蒼き星への落下開始(軌道離脱/Deorbit Burn)
ISSからの分離を終えたクルー・ドラゴン「エンデバー」は、漆黒の宇宙空間を静かに滑走していた。地球の重力にわずかに引かれながら、それでも時速約2万8000キロメートルという猛烈な速度で、軌道を巡っている。分離から数時間が経過し、船内は再び、重力のない宇宙特有の、深い静寂に包まれていた。聞こえるのは、**ECLSS(環境制御・生命維持装置)**の穏やかな空気循環音と、時折クルーが宇宙服の中で発する、微かな呼吸音だけだ。
ユウキ・タナカは、自身のMFD(多機能ディスプレイ)に表示された最終的な帰還軌道データを、何度も繰り返し確認していた。画面には、 Crew Dragonの現在の位置、速度、そしてこれから辿るであろう地球への落下経路が、複雑な曲線で描かれている。全てのパラメータがグリーンであることを確認し、彼は心の中で最終的なチェックリストを終えた。隣のコマンダー、サマンサ・ライトもまた、冷静な表情で自身のデータを確認し、時折、二人のクルーの顔に視線を投げかけていた。パオロ・ベネットは、先ほどまで微かな振動を感じていた身体をシートに深く預け、静かに目を閉じている。彼の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。故郷イタリアの景色を、心の中で思い描いているのかもしれない。
「エンデバー、ヒューストン。最終確認は順調か? デオービットバーンまで、あと1分」
ヒューストンのフライトコントロールセンターから、リードフライトディレクター、サラ・コナーの声が、ヘルメットの通信機を通じて響いた。その声は、いつも通り冷静だが、微かな緊張感が滲み出ている。彼女の声は、これから始まる「デオービットバーン」が、帰還ミッションの中で最も重要な局面の一つであることを物語っていた。
サマンサが通信ボタンを押した。
「ヒューストン、エンデバー。全て準備完了。クルーの体調も良好。いつでもデオービットを開始できる」
彼女の声には、一切の迷いがない。その言葉は、地上のサラ・コナー、そしてジョンソン宇宙センターのメインコントロールルームにいる何百人ものフライトコントローラーたちにとって、待望のGOサインだった。
「了解、エンデバー。では、デオービットバーン、開始せよ」
サラの指示が響き渡った、その刹那――。
「ドォォォォオオオオンンン!!!」
Crew Dragon後方のエンジンが、轟音と共に点火された。船体全体が激しい振動に襲われ、ユウキの身体は、シートに深く、そして強く押し付けられた。ハーネスが肩と胸、そして太ももを締め付け、呼吸が詰まるような感覚に襲われる。身体の内部にある臓器までが、前方へと引っ張られるかのような錯覚に陥った。それは、訓練で経験したG負荷とは比べ物にならない、現実の、そして生々しい加速だった。
「G……」
パオロが、苦しげにうめき声を上げた。彼の顔は、重圧で歪んでいる。しかし、彼は決して悲鳴を上げたりはしない。これは、宇宙飛行士として、彼らが受け入れるべき「代償」なのだ。
ユウキは、MFDのGメーターに視線を向けた。針は、短時間ながらも0.5G、0.8G、そして1.0Gへと上昇していく。これは、地球の重力に匹敵する、あるいはそれを超える力が、彼らの身体にかかっていることを意味する。彼の身体は、宇宙での約半年間、重力のない環境に慣れきっていた。突然のこの加速は、彼らの身体に大きな負担をかける。
この制動噴射(Retrograde Burn)の目的は、単純明快だ。地球の軌道速度を約200m/s(秒速200メートル)減速させること。そのために、Crew Dragonは、地球の進行方向とは反対方向、つまり地球側に向けてエンジンを噴射している。この速度の変化が、彼らを高度400kmの安定した周回軌道から引き剥がし、地球の大気圏へと落下する弾道軌道に乗せるのだ。
もしこの噴射が不足すれば、カプセルは地球の大気圏に突入できず、宇宙を漂流し続けることになる。逆に過剰であれば、再突入角度が急になりすぎて、大気圏との摩擦熱で燃え尽きてしまう。秒速200メートルの正確な減速が、彼らの運命を握っていた。
エンジンの轟音と、船体を揺さぶる振動が、まるで彼らの生命を試しているかのように続く。ユウキは、目の前のMFDのディスプレイに表示される速度計の数値が、ゆっくりと、しかし確実に減速していくのを凝視していた。
「速度、マイナス100m/s……」
サマンサが、落ち着いた声で報告する。彼女自身も、強烈なGに耐えながら、完璧な集中力を保っている。彼女の指は、パネルのボタンを、まるで機械のように正確に操作していた。
「マイナス150m/s……」
エンジンの咆哮が、徐々に弱まっていく。振動も、少しずつ収束していくのが分かる。
そして――。
「マイナス200m/s、バーンカットオフ!」
サラ・コナーの声が、高らかに宣言した。その言葉と共に、エンジンの轟音がぴたりと止んだ。船内は、まるで嵐が過ぎ去った後のように、突然の静寂に包まれた。微かなエンジン熱が残るが、激しい振動は完全に消え去っていた。
ユウキは、身体にかかっていた重圧が解放され、深く息を吐き出した。ハーネスの締め付けが、一瞬緩んだかのように感じられた。彼は、疲労を感じながらも、すぐにMFDの画面に視線を戻した。
画面には、Crew Dragonの軌道が、地球へと向かう新しい弾道軌道へと完全に移行していることを示す、確かなデータが表示されていた。速度、高度、そして未来の落下経路。全てが、計画通りの数値を示している。
「ヒューストン、エンデバー。デオービットバーン、成功。軌道移行、確認」
サマンサが、安堵と達成感を滲ませた声で報告した。彼女の報告は、地球上のサラ・コナーの顔に、ごくわずかな、しかし確かな笑顔をもたらした。
ユウキは、シートに深く身体を沈めたまま、窓の外を見た。漆黒の宇宙空間に、青と白の地球が、先ほどよりもはっきりと、そして大きく見えている。彼らは今、地球の重力に完全に捕らえられ、大気圏へと落下していく、不可逆なプロセスを開始したのだ。宇宙空間での生活は、完全に終わりを告げた。これからは、地球という惑星との、壮絶な戦いが始まる。
しかし、その戦いの先には、家族が待つ故郷がある。ユウキの心に、静かな決意が満ちていく。