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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
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3.2 大気圏への挑戦(再突入開始)


デオービットバーンが終了し、エンジン音が止んでから数分が経過した。クルー・ドラゴン「エンデバー」は、再び宇宙の静寂の中を滑走している。しかし、その静寂は、もはやISS軌道上での穏やかなそれとは異なっていた。船内には、これから始まる壮絶なプロセスへの、張り詰めた緊張感が支配している。彼らは今、秒速約7.8キロメートル、時速にして約2万8000キロメートルという猛烈な速度で、地球の大気圏へと向かって滑り落ちていく。まるで、見えない巨大な滑り台を、加速しながら降下しているかのようだ。

ユウキ・タナカは、MFD(多機能ディスプレイ)に表示された軌道データから目を離さなかった。画面に描かれたCrew Dragonのアイコンは、地球の青い輪郭へと吸い込まれていく曲線を示している。彼の心に、ブリーフィングで叩き込まれた数値と警告が蘇る。

(再突入角度……わずか1度のズレで、全てが終わる)

ユウキのモノローグが脳裏をよぎる。この再突入角度は、非常に精密に計算されている。もし角度が浅すぎれば、Crew Dragonは地球の大気圏を跳ね返り、そのまま宇宙空間へと弾き出されてしまうだろう。燃料も尽き、救援も期待できない状況で、彼らは無限の漂流者となる。逆に、角度が急すぎれば、大気圏との摩擦熱が急激に上昇し、カプセルは耐えきれずに燃え尽きてしまう。それは、鉄の塊ですら蒸発させるほどの、想像を絶する灼熱だ。彼らの命運は、この完璧な角度にかかっていた。これは、誤差が許されない、神業のような精密さを要求されるプロセスだった。

クルー・ドラゴンは、完全に自動化されたシステムによってこの角度を維持している。だが、その背後には、何十年もの宇宙開発で培われた知見と、それを支える地上の何百人ものフライトコントローラーたちの、途方もない努力と計算があった。ユウキは、その全てを信じていた。

「エンデバー、ヒューストン。再突入角度、目標値で安定。姿勢制御システム、全てグリーン」

コマンダーのサマンサ・ライトの声が、通信機を通じて響いた。彼女の報告は、地球上のサラ・コナーの耳にも届いている。ヒューストンのフライトコントロールセンターでは、メインスクリーンに表示されたクルー・ドラゴンの3Dモデルが、正確な姿勢で地球へと降下していく様子を映し出していた。

ユウキは、MFDに表示された別のシステム図を確認した。それは、Crew Dragonの最も重要な防御システム、耐熱シールドのダイアグラムだ。カプセルの底面全体を覆う、分厚い黒い円盤。素材はPICA-X(改良型炭素繊維複合材)。この特殊なアブレーティブシールドは、再突入時に発生する数千度にも達するプラズマの熱から、カプセル内部とクルーを守る唯一の盾となる。熱によって表面が削り取られることで、熱エネルギーを吸収し、内部への熱伝達を防ぐのだ。

Crew Dragonはすでに、自動姿勢制御によって、この耐熱シールドを地球の進行方向、つまり、大気との最初の接触面へと正確に向け直していた。カプセルは、まるで盾を構えた騎士のように、これから襲い来る灼熱の壁に備えている。

「シールドの内部温度センサー、異常なし。外層センサー、微増」

ユウキは、シールドのデータを読み上げた。外層の温度がわずかに上昇しているのは、地球の希薄な大気の最上層に触れ始めた兆候だ。

その時、ユウキの宇宙服を通して、ごくわずかな、しかし明確な振動が船体に伝わり始めた。それは、デオービットバーンの激しい振動とは異なり、低い周波数で連続する、微細な「ザワザワ」とした音に近かった。まるで、目に見えない砂が、カプセルの表面を擦っているかのような感覚。

「空気抵抗だ……」

パオロ・ベネットが、かすかに呟いた。彼の表情は、真剣そのものだ。

高度が下がるにつれて、その振動は徐々に、しかし確実に強くなっていった。Crew Dragonが、地球の希薄な上層大気に触れ始めた証拠だ。宇宙と大気の境界線は、目に見えるものではない。しかし、この微細な振動と、外部温度センサーの数値上昇が、彼らがその境界線を越え、地球の大気という「壁」に突入しつつあることを告げていた。

MFDの外部温度センサーのグラフが、ゆっくりと、しかし確実に上昇を示し始めた。まだ、危険なレベルではない。しかし、その上昇曲線は、これから始まる灼熱の試練を予感させるものだった。カプセルの外側では、時速数万キロメートルで大気分子と衝突する際に発生する、驚異的な熱エネルギーの蓄積が始まっていた。

ユウキは、窓の外の漆黒の宇宙空間を見つめた。その先に、青い地球が、先ほどよりもはるかに大きく、そして鮮明に見えている。地球の大気層は、まるで薄いベールのように、その周囲を包み込んでいる。彼は、そのベールが、美しさと同時に、彼らを燃やし尽くすほどのエネルギーを秘めていることを知っていた。

「エンデバー、ヒューストン。高度140km。大気圏突入、確認」

サラ・コナーの声が、静かに、しかし力強く通信機に響いた。彼女のコンソールにも、Crew Dragonが地球の大気圏へ突入したことを示すデータが次々と表示されている。彼女の目は、依然として鋭く、全ての数値を監視し続けている。

コクピット内には、ユウキ、サマンサ、パオロの3人の宇宙飛行士。彼らの身体は、重力に抗いながらも、これから始まる「火の玉」となって地球に帰る旅に備え、静かに、しかし確かな覚悟をもって臨んでいた。彼らは今、人類が地球に帰還する上で避けられない、最も危険なフェーズへと足を踏み入れたのだ。

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