2.11 遠ざかる故郷:無限の闇へ
彼らの身体にかかるGが、急速に減少していく。重力は、再び宇宙空間でのあの恐ろしい浮遊感へと逆戻りしていった。窓の外のプラズマの輝きが、まるで彼らを見放すかのように急速に薄れ、そして遂に、漆黒の宇宙空間と、無数の冷たい星々が、再び視界に現れた。 それは、灼熱の地獄からの解放などではなかった。彼らが直面したのは、地球の重力から完全に逃れ、無限の宇宙へと弾き出されつつあるという、想像を絶する現実だった。
「そんな……バカな……」サマンサの声は、もはや震えるどころか、魂が抜け落ちたかのように掠れていた。彼女の目に宿るのは、信じられないという絶望、そして、なすすべもないという無力感そのものだった。
彼らは地球へ帰るために、デオービットバーンを行い、そのためにカプセルに残る貴重な燃料を使い果たした。そのわずかな推力も、今となっては彼らを死へと導くための呪いと化した。そして、彼らが完璧だと信じていたその軌道が、大気圏に拒絶されたのだ。
窓の外では、青い地球の姿が、驚くほどの速さで小さくなっていく。最初は、まだその巨大な曲線がカプセルの窓を覆い尽くすほど雄大だった。だが、秒を追うごとに、その青と白のマーブル模様は、まるで誰かが巨大な絵の具を溶かしたかのように、遠く、小さく、そして冷たい球体へと変わっていく。彼らが半年もの間、その美しい姿に心を癒やされ、帰還を夢見ていた故郷が、今、彼らの視界から、そして手の届かないところへと、容赦なく遠ざかっていく。
ユウキは、身体の震えが止まらなかった。燃料を使い果たし、生命維持装置がいつまで持つかも分からないカプセルの中で、二度と地球に戻ることのできない、永遠の漂流者となる運命。それは、生きて宇宙の深淵を彷徨う、最も残酷な死刑宣告だった。漆黒の宇宙空間が、彼らを嘲笑うかのように、限りなく、そして容赦なく広がっていた。彼らの故郷への旅は、地球の門前で、無慈悲に絶たれたのだ。
パオロは、もう何も喋らなかった。彼のヘルメットのバイザーの奥で、その瞳は、まるで虚空を見据えるかのように焦点が定まっていなかった。彼の口元には、かすかな笑みどころか、恐怖が硬く張り付いていた。彼の目の前には、ただ、冷たい星々の輝きと、無限の闇だけが残されていた。彼らの人生は、この宇宙の果てで、不条理なまでに終わりを告げようとしていた。
2.12 悲痛な交信:絶叫と沈黙
その頃、地球上空400kmを周回する国際宇宙ステーション(ISS)の「キューポラ」モジュール。日本人の宇宙飛行士、タカハシ・ケンジは、眼下に広がる地球の壮大な眺めに息をのんでいた。しかし、彼の目に映るはずのない、遠ざかる小さな光点に気づき、ハッとした。その光点は、彼の知るどの人工衛星よりも遅く、しかし確実に、地球の重力圏から逸脱していくように見えた。
「ヒューストン、ISS。エンデバーの軌道、異常を確認。降下角度が浅すぎる。まさか、大気圏に弾かれたのか!?」
ケンジの声が、通信機を通じてヒューストンの管制センターに響き渡った。彼の声には、動揺、混乱、そして信じられないという感情が混じり合い、悲鳴寸前だった。ISSのメインスクリーンにも、リアルタイムで更新されるエンデバーの軌道予測が、地球の青い輪郭から外れ、宇宙空間へと緩やかに逸脱していく不吉な曲線を描き始めていた。それは、まるで巨大なナイフが、人類の希望の糸を断ち切るように見えた。
ヒューストンのフライトコントロールセンターは、既に阿鼻叫喚の地獄と化していた。メインスクリーンに表示されたエンデバーの軌道データと、ISSからの悲痛な報告を前に、リードフライトディレクターのサラ・コナーは、顔色を失っていた。彼女の指は、通信ボタンを押し続けるが、返答はない。
「ISS、ヒューストン。エンデバーとの通信が途絶。軌道データも異常値を示しています。現在、状況を確認中……」
サラの声は、もはや冷静さを保つことなどできなかった。その声は、震え、言葉の節々から深い絶望が漏れ出ていた。彼女のコンソールには、依然として「LOST SIGNAL」の表示が点滅し、エンデバーからのデータは、完全に途絶えたままだった。モニターに映し出される、クルーたちの笑顔が、今や冷徹な嘲笑に見える。
「エンデバー、応答せよ!エンデバー、応答せよ!軌道を修正するんだ!聞こえるか、サマンサ!ユウキ!パオロ!頼む!応答してくれ!」
ISSのケンジは、無線に向かって、もはや喉が張り裂けんばかりに叫び続けた。彼の声は、管制官としてのプロ意識をかなぐり捨て、友を案じる一人の宇宙飛行士としての、魂を削るような悲痛な叫びとなっていた。しかし、クルー・ドラゴンからの返答は、永遠に訪れることはなかった。カプセルの中では、その声を聞く者も、答える者もいない。
窓の外では、青い地球が、ISSの視界からも急速に遠ざかっていく。そして、その地球の輪郭から、まるで小さな塵のように、クルー・ドラゴン「エンデバー」の光点が、漆黒の宇宙の奥へと、音もなく吸い込まれていくのが見えた。
ヒューストンでも、管制官たちは、一様にコンソールに顔を伏せるか、ただ呆然とメインスクリーンを見つめるだけだった。そこには、エンデバーのアイコンが、地球の重力圏を完全に脱し、太陽系の彼方へと向かう、絶望的な軌道を描き続けていた。彼らは、ただ、遠ざかる故郷の姿を、無力なまま見送るしかなかった。希望の光は、完全に消え去った。




