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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
死亡リスク発生バージョン3
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2.9 地球の拒絶


Crew Dragon「エンデバー」は、デオービットバーンの不完全な咆哮が止んだ後、再び宇宙の静寂の中を滑走していた。しかし、その静寂は、もはや安堵をもたらすものではない。前章でユウキの心に満ちた「拭いきれない不安」が、船内の張り詰めた空気となってクルー全員を包み込んでいた。 彼らは今、秒速約7.8キロメートル、時速にして約2万8000キロメートルという猛烈な速度で、地球の大気圏へと向かって滑り落ちていく。まるで、見えない巨大な滑り台を、加速しながら降下しているかのようだ。

ユウキ・タナカは、自身のMFD(多機能ディスプレイ)に表示された軌道データから目を離さなかった。画面に描かれたCrew Dragonのアイコンは、地球の青い輪郭へと吸い込まれていく曲線を示している。彼の心に、ブリーフィングで叩き込まれた数値と警告が蘇る。

(再突入角度……わずか1度のズレで、全てが終わる)

この再突入角度は、非常に精密に計算されている。もし角度が浅すぎれば、Crew Dragonは地球の大気圏を跳ね返り、そのまま宇宙空間へと弾き出されてしまうだろう。燃料も尽き、救援も期待できない状況で、彼らは無限の漂流者となる。逆に、角度が急すぎれば、大気圏との摩擦熱が急激に上昇し、カプセルは耐えきれずに燃え尽きてしまう。それは、鉄の塊ですら蒸発させるほどの、想像を絶する灼熱だ。彼らの命運は、この完璧な角度にかかっていた。これは、誤差が許されない、神業のような精密さを要求されるプロセスだった。

クルー・ドラゴンは、完全に自動化されたシステムによってこの角度を維持しているはずだった。だが、その背後には、何十年もの宇宙開発で培われた知見と、それを支える地上の何百人ものフライトコントローラーたちの、途方もない努力と計算があった。ユウキは、その全てを信じていた……はずだった。

その時、ユウキのMFDの軌道計算グラフが、一瞬、異常な跳ね上がりを見せた。正しい降下軌道を示す青い線が、突然、わずかに、しかし明らかに浅い角度へと逸脱するような軌跡を描き、すぐに元の表示に戻った。 それは、まるでシステムが、ごく短い時間、一時的な混乱を起こしたかのようだった。

「エンデバー、ヒューストン。再突入角度、目標値で安定。姿勢制御システム、全てグリーン」

コマンダーのサマンサ・ライトの声が、通信機を通じて響いた。彼女の報告は、地球上のサラ・コナーの耳にも届いている。ヒューストンのフライトコントロールセンターでは、メインスクリーンに表示されたクルー・ドラゴンの3Dモデルが、正確な姿勢で地球へと降下していく様子を映し出していた。しかし、メインコンピューターの軌道計算セクションを担当する管制官のコンソールに、微細な「SOFT ERROR」の警告が表示され、瞬時に消え去っていた。誰もそれに気づくことはなかった。

ユウキは、MFDに表示された別のシステム図を確認した。それは、Crew Dragonの最も重要な防御システム、耐熱シールドのダイアグラムだ。カプセルの底面全体を覆う、分厚い黒い円盤。素材はPICA-X(改良型炭素繊維複合材)。この特殊なアブレーティブシールドは、再突入時に発生する数千度にも達するプラズマの熱から、カプセル内部とクルーを守る唯一の盾となる。熱によって表面が削り取られることで、熱エネルギーを吸収し、内部への熱伝達を防ぐのだ。

Crew Dragonはすでに、自動姿勢制御によって、この耐熱シールドを地球の進行方向、つまり、大気との最初の接触面へと正確に向け直していた。カプセルは、まるで盾を構えた騎士のように、これから襲い来る灼熱の壁に備えている。

「シールドの内部温度センサー、異常なし。外層センサー、微増」

ユウキは、シールドのデータを読み上げた。外層の温度がわずかに上昇しているのは、地球の希薄な大気の最上層に触れ始めた兆候だ。

その時、ユウキの宇宙服を通して、ごくわずかな、しかし明確な振動が船体に伝わり始めた。それは、デオービットバーンの激しい振動とは異なり、低い周波数で連続する、微細な「ザワザワ」とした音に近かった。まるで、目に見えない砂が、カプセルの表面を擦っているかのような感覚。

「空気抵抗だ……」

パオロ・ベネットが、かすかに呟いた。彼の表情は、真剣そのものだ。

高度が下がるにつれて、その振動は徐々に、しかし確実に強くなっていった。Crew Dragonが、地球の希薄な上層大気に触れ始めた証拠だ。宇宙と大気の境界線は、目に見えるものではない。しかし、この微細な振動と、外部温度センサーの数値上昇が、彼らがその境界線を越え、地球の大気という「壁」に突入しつつあることを告げていた。

MFDの外部温度センサーのグラフが、ゆっくりと、しかし確実に上昇を示し始めた。まだ、危険なレベルではない。しかし、その上昇曲線は、これから始まる灼熱の試練を予感させるものだった。カプセルの外側では、時速数万キロメートルで大気分子と衝突する際に発生する、驚異的な熱エネルギーの蓄積が始まっていた。

ユウキは、窓の外の漆黒の宇宙空間を見つめた。その先に、青い地球が、先ほどよりもはるかに大きく、そして鮮明に見えている。地球の大気層は、まるで薄いベールのように、その周囲を包み込んでいる。彼は、そのベールが、美しさと同時に、彼らを燃やし尽くすほどのエネルギーを秘めていることを知っていた。

「エンデバー、ヒューストン。高度140km。大気圏突入、確認」

サラ・コナーの声が、静かに、しかし力強く通信機に響いた。彼女のコンソールにも、Crew Dragonが地球の大気圏へ突入したことを示すデータが次々と表示されている。彼女の目は、依然として鋭く、全ての数値を監視し続けている。

コクピット内には、ユウキ、サマンサ、パオロの3人の宇宙飛行士。彼らの身体は、重力に抗いながらも、これから始まる「火の玉」となって地球に帰る旅に備え、静かに、しかし確かな覚悟をもって臨んでいた。彼らは今、人類が地球に帰還する上で避けられない、最も危険なフェーズへと足を踏み入れたのだ。

2.10 大気圏の壁

その時、「ザーッ!」という、けたたましく、耳をつんざくようなノイズが、ユウキのヘルメットの通信機に響き渡った。それは一瞬にして、ヒューストンからの指示も、クルー間の会話も、全てをかき消した。通信機のインジケーターランプが、無情にも「LOST SIGNAL」を示す赤色に変わる。

通信遮断ブラックアウト――。

それは、宇宙飛行士にとって、再突入フェーズで最も精神的に過酷な時間の一つだ。地上の管制チームとの全ての繋がりが断たれ、彼らは完全に孤立する。このブラックアウトは、プラズマが通信電波を吸収・反射してしまうために発生する。地球への帰還を告げる最後の声が消え、彼らは絶対的な沈黙の中に放り込まれた。数分間続くこの通信途絶は、永遠にも感じられるほど長く、孤独で不安な時間となる。

ブラックアウト中の絶対的な孤独の中で、ユウキのMFDに表示された内部計器の数値が、ゆっくりと、しかし不気味に変化していることに彼は気づいた。高度計は依然として順調に降下を示しているかのように見えたが、姿勢インジケーターの微細なブレが、以前よりも顕著になっていた。そして、カプセルの揺れが、低い周波数で左右に振れるような、異様なものへと変わり始めていた。

ユウキの背筋に冷たいものが走った。自動システムはブラックアウトのために外部との通信を遮断しているが、内部のセンサーは機能しているはずだ。この揺れと姿勢のブレは、何を意味するのか?

彼の脳裏に、前章「2.8 ロケットの咆哮、そして沈黙」で明らかになった、不完全なデオービットバーンの事実が鮮明に蘇る。逆噴射ロケット1基のダウンと、もう1基の推力低下により、目標速度に達せず、軌道がわずかに浅くなっていたのだ。そして、デオービットバーン開始時にMFDに一瞬表示された、あの**「軌道計算グラフの異常な跳ね上がり」や、ヒューストンが感知できなかったはずの「SOFT ERROR」**。これら全てが、今、不吉な連鎖として繋がっていると、ユウキは直感した。

(まさか……軌道が浅すぎるのか!?)

ユウキは全身の神経を研ぎ澄まし、宇宙服越しに身体に伝わるGの感触に集中した。通常であれば、この大気抵抗が最大となるフェーズでは、強烈なGがかかるはずだ。しかし、彼の身体にかかるGは、まるでカプセルがわずかに浮遊しているかのように、予想よりもはるかに弱い。それは、カプセルが効率的に大気を掴み、減速しているのではなく、大気圏の薄い上層を、まるで石が水面を跳ねるように滑り抜けている兆候だった。

パオロ・ベネットもまた、異変に気づいたようだ。プラズマの赤い輝きが彼のヘルメットのバイザーを照らす中でも、彼の顔色が、さらに青ざめていくのがユウキにはわかった。パオロは、訓練で何百回も経験した再突入のGプロファイルと、今の状況が明らかに異なることを、身体で感じ取っていたのだろう。

「コマンダー……Gが……低い……」パオロが、途切れ途切れの声で呟いた。その声には、恐怖と混乱が混じっていた。

コマンダーのサマンサ・ライトの顔に、明確な焦りの色が浮かんだ。彼女はMFDの計器を凝視し、手動での姿勢制御を試みようと、操縦桿を強く握りしめた。彼女は、Dracoスラスターの手動操作パネルを叩き、カプセルを大気圏内へと押し戻そうと試みる。

「システム応答しろ!制御を受け付けろ!」

サマンサは、歯を食いしばり、必死に操縦桿を操作する。僅かながらでも推力を得て、カプセルの角度を深めようと試みた。しかし、船体は彼女の意図に反して、ますます不規則な揺れを繰り返すばかりだった。通信が途絶えているため、地上からの支援も、データも、一切ない。彼らは、この燃え盛る密閉空間の中で、絶対的な孤独の中に置かれていた。彼らの最後の希望は、この手動操作にかかっていた。

窓の外のプラズマの輝きは、依然として猛烈なままだが、その色が、わずかに薄くなっているように見えた。それは、カプセルが大気との摩擦が最も激しい領域から、徐々に離れつつあることを示唆していた。

「高度が……下がっていない!」

ユウキの叫び声が、ヘルメットに響く。MFDの高度計の数値が、数十秒前からほとんど変わっていないのだ。カプセルは、大気圏に突入したまま、降下することなく、まるでスケートのように、その薄い大気層を水平に滑り続けている。

「もっと推力を!もっと角度を深く!」サマンサが、叫び続ける。彼女の額には、大粒の汗が滲んでいた。ユウキも、パオロも、それぞれの持ち場で、状況を好転させようと必死だった。しかし、彼らの最善の努力は、大気の巨大な壁の前には、無力だった。

彼らの身体にかかるGが、急速に減少していく。重力は、再び宇宙空間での浮遊感へと戻っていくかのようだ。窓の外のプラズマの輝きが、徐々に弱まり、そして遂に、漆黒の宇宙空間と、無数の冷たい星々が、再び視界に現れた。 それは、彼らが灼熱の地獄から解放された証拠ではなかった。彼らは、地球の重力から逃れ、無限の宇宙へと弾き出されつつあったのだ。

「そんな……バカな……」サマンサの声が、震えるほど弱々しくなった。彼女の目に、信じられないという絶望が宿る。

彼らは地球へ帰るために、デオービットバーンを行い、その燃料を使い果たした。そして、その軌道が、大気圏に拒絶されたのだ。

窓の外では、青い地球の姿が、急速に小さくなっていく。彼らは、燃料を使い果たしたカプセルの中で、二度と地球に戻ることのできない、永遠の漂流者となる運命を背負ったのだ。漆黒の宇宙空間が、彼らを嘲笑うかのように、限りなく広がっていた。彼らの故郷への旅は、地球の門前で、無慈悲に絶たれた。彼らの目の前には、ただ、冷たい星々の輝きと、無限の闇だけが残されていた。


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