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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
死亡リスク発生バージョン
36/44

2.5 決死の手動分離


「ユウキ、緊急解除ラッチの位置を確認!」サマンサの声が、焦燥の中で命令として響いた。

「了解!中央隔壁、マニュアルハッチ右側面!」

ユウキは、身体を捻るようにして、MFDの画面に表示された緊急解除ラッチの作動手順を目で追った。それは、通常、ISSドッキング時の最終手段として訓練されるもので、分離後に用いられることは想定されていなかった。手順は単純だが、宇宙服を着た状態での細かい作業は、想像以上に困難を伴う。

クルー・ドラゴンは、依然としてISSへとゆっくりと引き寄せられていた。衝突まで、もはや猶予はない。パオロは、MFDの操縦桿を必死に操作し、Dracoスラスターの数少ない残った機能で、船体をISSから遠ざけようと試みていた。しかし、不安定な噴射は、かえって船体を制御不能な状態へと追いやるばかりだ。

「ヒューストン、我々は手動分離に移行する!繰り返す、手動分離だ!」サマンサが無線に叫んだ。その声は、もはや冷静さを保っていなかった。

ヒューストンの管制室は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。

「手動分離!?コマンダー・ライト、ハッチに異物が挟まっている状況でそれは危険すぎます!」サラ・コナーの声が、スピーカーから悲痛に響く。

「わかっている!だが、他に手段がない!」サマンサが絶叫した。彼女の額には、大粒の汗が滲んでいた。

「ユウキ、準備はできたか!?」

「いつでも!」

ユウキは、訓練で何百回も触れたそのラッチに、震える手で触れた。金属の冷たい感触が、宇宙服越しに伝わる。このラッチを引けば、ISSとの最後の物理的な繋がりが断たれる。しかし、その先に待つのが、救済か、それとも破滅か。

「パオロ、船体をできる限りISSから離せ!頼む!」サマンサがパオロに最後の指示を飛ばす。

パオロは、無言で頷き、歯を食いしばってコンソールに向かった。彼の瞳は、恐怖と決意で揺れ動いていた。

ユウキは、深呼吸をした。そして、全力を込めて、そのラッチを手前に引いた。

「ガガガッ!!」

甲高く、耳を劈くような金属の軋む音が、宇宙服のヘルメット越しに骨の髄まで響き渡った。訓練では聞いたことのない、異常な音だ。

その直後、**「バキィィン!!」**と、乾いた、しかし想像を絶する破裂音が船内に響き渡った。

クルー・ドラゴン全体が、激しい振動に襲われた。ユウキの身体がハーネスごと揺さぶられ、MFDの表示が完全にフリーズした。

そして、その瞬間に、コクピットとISSの間の結合ハッチが、音を立てて内側に歪んだ。 ドッキングアダプターに食い込んでいた異物が、手動分離の衝撃で、ハッチのロック機構を内側から破壊したのだ。わずかにできた隙間から、黒い宇宙空間が覗いた。

「減圧警報!緊急減圧!ハッチ破損!」

MFDから、けたたましい警告音が鳴り響いた。コクピット内の警告灯が、狂ったように点滅する。

「ハッチが!ハッチが破損した!」パオロの叫び声が、悲鳴に変わった。

ユウキは信じられない思いで、目の前の光景を凝視した。ハッチの金属が、まるで紙のように剥がれ、外側の宇宙空間が、その隙間から覗いている。

**「空気だ!空気が抜けていく!」**サマンサの悲痛な声が響いた。

宇宙服の内側で、急激な圧力の変化を感じた。まるで、肺から全ての空気が吸い出されるような、強烈な不快感。宇宙服の生命維持システムが、懸命に作動しているのがわかるが、この急激な減圧には追いつかない。

目の前のMFDのディスプレイに表示される船内圧力が、猛烈な勢いでゼロへと向かっていく。

「船内圧、急降下!酸素喪失!あと30秒!」

自動音声の警告が、無慈悲に響き渡る。

パオロが、苦しそうに喉を鳴らした。彼の宇宙服のバイザーの奥で、目が大きく見開かれているのが見えた。彼は何かを叫ぼうとしたが、声にならない。彼の身体が、激しい痙攣を起こし始める。

ユウキの視界が、急激にぼやけていく。酸素不足と、脳への血流の異常。身体中の細胞が、悲鳴を上げている。娘のアカリの顔が、妻の優しい笑顔が、脳裏にフラッシュバックした。故郷の匂い、土の感触。もう、二度と触れることはできないのか。

サマンサの呼吸音が、荒く、そして途切れ途切れになるのが聞こえた。彼女の身体もまた、徐々に力を失っていく。彼女は最後まで操縦桿を握りしめようとしていたが、その手から、ゆっくりと力が抜けていくのがわかった。

コクピットの計器類が、まるで命尽きたかのように次々と表示を失っていく。真っ赤な警告灯だけが、虚しく点滅を繰り返す。

最後の瞬間、ユウキの意識は、真っ暗な宇宙の深淵へと引きずり込まれるように消えていった。視界の端に、急速に遠ざかるISSの灯りが見えた気がした。だが、それは、彼の死にゆく脳が見せた、最後の幻想だったのかもしれない。

クルー・ドラゴン「エンデバー」は、沈黙したまま、制御不能の姿勢でISSから漂流していく。ハッチから吹き出した空気の白い軌跡が、瞬く間に宇宙の闇に消えていった。


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