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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
死亡リスク発生バージョン
35/44

2.4 分離の不調(T+2分後)


クルー・ドラゴン「エンデバー」の船内は、張り詰めた静寂に包まれていた。約180日間にわたる宇宙での生活を終え、いよいよISSからの最終的な分離の時が来たのだ。ユウキ・タナカは、宇宙服のヘルメット越しに、目の前のMFD(多機能ディスプレイ)に表示されたカウントダウンタイマーを凝視していた。数字が刻一刻と減っていく。彼の隣にはコマンダーのサマンサ・ライト、その向かいにはパオロ・ベネットが、皆、微動だにせず、来るべき瞬間に備えている。彼らの身体は、既に座席のハーネスに完璧に固定され、カプセルと一体化していた。

その時、ヒューストンのフライトコントロールセンターから、リードフライトディレクター、サラ・コナーの冷静かつ明確な声が、ヘルメットの通信機を通じて響き渡った。

「エンデバー、ヒューストン。分離シーケンス、最終カウントダウンを開始する」

サラの声は、彼らの鼓動と同期するように、コクピット全体に、そして世界のあらゆる管制チームの耳に響き渡った。宇宙空間にいる彼らだけでなく、地球上の何百人もの人々が、この瞬間に息をのんでいることを、ユウキは肌で感じていた。

「T-30秒!」

カウントダウンが始まった。ユウキの心臓が、微かに高鳴る。訓練で何百回と繰り返してきたシーケンスだが、本番の緊張感はやはり別物だった。

「20秒……」

パオロが、ごくわずかに身体を揺らした。その動きは、彼が普段見せる陽気さとは異なる、極度の集中を示すものだ。彼の目もまた、MFDのタイマーに釘付けになっている。

「10、9、8、7、6……」

サマンサは、通信ボタンを握りしめ、前方をまっすぐ見つめていた。彼女の顔には、コマンダーとしての重い責任と、このミッションを完遂する絶対的な決意が刻まれている。

「5、4、3、2、1……」

そして、運命の瞬間。

「T-0、Undocking!」

サラの宣言が響くと同時に、Crew DragonとISSを繋いでいた12基の分離ボルトが爆発的に解放された。

「ドンッ!」

という、ごくわずかな、しかし明確な衝撃が船体に伝わった。同時に、複数箇所から「プシュッ」という、圧縮ガスが解放されるような微かな音が響く。それは、電気的な信号と火薬が連動し、ボルトが瞬時に切断された音だ。まるで、宇宙の巨大な鎖が、音もなく、しかし確実に解かれたかのようだった。その衝撃は、訓練でシミュレートされたよりも穏やかだったが、ユウキの全身の細胞が、その瞬間をはっきりと認識した。

その直後、Crew Dragonは、まるで長い眠りから覚めたかのように、ISSからゆっくりと後退を開始した。その相対速度は、わずか数センチメートル/秒。目に見えるほどの速さではないが、窓の外の景色が、ごく微細な、しかし確実に遠ざかっていくのを感じられる。

ユウキは、窓の外のライブ映像に視線を向けた。眼前に広がっていたISSの結合ポートが、ゆっくりと小さくなっていく。そして、その背後に、巨大なISSの全体像が、徐々に視界に収まり始めた。

「壮観だ……」

パオロが、感嘆とも安堵ともつかない声を漏らした。

ISSは、宇宙空間に浮かぶ人類最大の建造物だ。巨大なトラス構造に、数々のモジュールが連結され、その両翼にはサッカー場ほどの大きさのソーラーパネルが巨大な翼のように広がり、陽光を浴びてキラキラと輝いている。それは、まるで彼ら3人を見送る、未来の神殿か、あるいは宇宙のクジラのような、雄大な姿だった。約半年間、彼らの命を守り、彼らの生活と研究活動を支えてきた、間違いなく彼らの「家」だった。その家が、今、彼らの視界からゆっくりと遠ざかっていく。

ユウキは、静かにISSに視線を向け、宇宙服のヘルメット越しに、心の中で敬礼した。半年間、この「宇宙の家」が、彼らを無事に宇宙空間に滞在させてくれた。苦しい時も、楽しい時も、常にそこにあった、巨大で頼りになる存在。感謝の念と、微かな郷愁が彼の胸に込み上げた。彼らは今、完全に孤独な存在となり、地球へと向かうのだ。

「エンデバー、良好な分離を確認。安全距離を維持せよ」

サラ・コナーの声が、再び通信機に響いた。ヒューストンの管制センターでは、メインスクリーンに、ISSとCrew Dragonが分離していくリアルタイムの映像が映し出され、各担当者がそれぞれのコンソールでデータを監視している。全てが計画通りに進んでいることを確認し、管制官たちの間にも安堵の空気が広がる。

Crew Dragonは、ISSからおよそ200メートル離れたところで、その動きを停止した。

「エンデバー、初期離脱軌道クリア。姿勢制御、開始」

サマンサの指示に従い、Crew Dragonの自動システムが作動した。微かなDracoスラスターの噴射音が聞こえ、船体がゆっくりと、しかし確実に回転を始めた。ユウキのMFDには、船体が目標とする再突入方向へと向きを変えていく、リアルタイムの姿勢データが表示される。それは、地球の引力に効率的に捕まり、安全かつ正確な軌道で大気圏へ突入するための、最適な角度だ。

だが、その時だった。

MFDの姿勢制御データに、激しいノイズが走った。 一瞬、表示が乱れ、正しい姿勢を示すはずの軌跡が、不規則なジグザグを描き始める。Dracoスラスターの噴射音も、突然不規則に途切れるような奇妙な音に変わった。

「姿勢制御、異常発生!自動システム、応答なし!」

ユウキのヘルメットに、警報のブザー音が鳴り響く。同時に、コックピットの警告灯が赤く点滅を始めた。

「サマンサ、自動姿勢制御がロックアウトされています!原因不明のコマンドエラー!」パオロの声が、焦りを滲ませていた。

サマンサの顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼女は迷うことなく、コンソールの**「MANUAL OVERRIDE」**ボタンを叩いた。だが、そのボタンを押しても、警告灯は消えず、MFDの表示も回復しない。

「ヒューストン、エンデバー!姿勢制御に重大な問題発生!マニュアルオーバーライドが効かない!繰り返す、マニュアルオーバーライドが効きません!」

サマンサの冷静さを欠いた声が、ヒューストンに届く。管制室は、瞬く間に騒然とした。サラ・コナーの顔が、モニターの光に照らされて青ざめる。

「エンデバー、ヒューストン。落ち着いて状況報告を!どのようなエラーコードが表示されている!?」サラの声にも、わずかな動揺が混じっていた。

ユウキのMFDには、「CONTROL SURFACES ERROR: DOCKING ADAPTER」という見慣れないエラーコードが表示されていた。ドッキングアダプター?分離ボルトは正常に作動したはずなのに、なぜそこにエラーが?ユウキは咄嗟に分離ボルトのシステム図に戻ったが、そこには異常を示すものは何もなかった。しかし、その時、ユウキは先ほどの微細な点滅を思い出していた。あの時、完全に消えたと思っていた表示が、今、不気味なほど鮮明に脳裏に蘇る。

クルー・ドラゴンは、本来の目標姿勢から徐々に逸脱し始めていた。船体が不規則に揺れ、わずかに奇妙な振動が伝わってくる。

「サマンサ、船体がISS方向へドリフトしています!このままでは衝突する!」パオロが叫んだ。

窓の外では、ISSが、まるで磁石に引き寄せられるかのように、ゆっくりと、しかし確実に近づいてきているのが見えた。彼らの宇宙での家が、今や彼らを飲み込む巨大な怪物に見える。

「なぜだ……なぜマニュアルが効かない!」サマンサが、歯を食いしばり、必死に操縦桿を握りしめる。だが、Crew Dragonは彼女の意図に反して、不気味なほど緩慢な動きで、ISSの方向へと漂流を続けていた。

「ヒューストン、再確認だが、分離ボルトは全て正常に作動した。しかし、なぜかドッキングアダプターが……」ユウキはそこまで言って、言葉を詰まらせた。MFDの外部カメラ映像に、信じられない光景が映し出されたのだ。

Crew DragonのドッキングアダプターとISSの間に、微細な、しかし確実に光る残骸が挟まっているのが見えた。それは、分離時に破砕されたボルトの破片か、あるいは、何か別の異物のように見えた。その残骸が、ドッキングアダプターのハッチ構造にわずかに食い込み、微妙な角度の歪みを生じさせているようだった。

「サマンサ!ハッチに異物が挟まっています!それがドッキングアダプターのエラーを引き起こしている!」ユウキが叫んだ。

「なに!?そんなバカな……!」サマンサはMFDを凝視し、絶句した。

このままでは、Crew DragonはISSに衝突し、最悪の場合、カプセルが破壊されるか、ISSに甚大な被害を与えることになる。

「ユウキ、パオロ!緊急手順だ!手動分離を試みる!」サマンサが、血を吐くような声で指示した。

手動分離。それは、自動システムが完全に機能不全に陥った場合にのみ行われる、最終手段だ。通常の手順とは異なり、結合部のボルトを内部から物理的に解放する仕組みになっている。だが、ハッチに異物が挟まっている状況で、この操作を行えば……。

ユウキの頭の中に、訓練で教えられた最悪のシナリオがよぎった。手動分離の際のハッチの構造的弱点。そして、宇宙空間での急減圧の危険性。

「コマンダー、ハッチに異物が挟まっている状態での手動分離は……」ユウキは言いかけたが、サマンサの凍りついたような眼差しに、言葉を飲み込んだ。

「他に選択肢はない!このままでは、我々もISSも危ない!パオロ、お前は私の指示に従って、スラスターの手動噴射で船体を制御しろ。ユウキ、ハッチの手動開放シーケンスの準備だ!緊急解除ラッチの位置を確認!」

サマンサの決断は、迷いなく、そして絶望的に正確だった。彼らが生き残る唯一の可能性は、目の前の危機を乗り越えること。しかし、その選択が、更なる破滅を招く可能性を、誰もが感じ取っていた。コクピットに、重苦しい沈黙と、緊迫した警報音だけが響き渡っていた。彼らの故郷への旅は、最悪の形で、今、まさに暗転しようとしていた。


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