第二話 クリーニング代
いけいけ~!
「……はい」
私は潔く立ち上がった。
目の前の恐ろしい男からは苺ジャムの香りがする。
苺ジャム男はそんな私の様子を、面白そうにみつめる。
私はまず、男の情報を集めた。165センチの私が立ち上がっても、はっきりとした上目遣いを使わなければいけないくらいの偉丈夫だ。身長は大体180センチか、それ以上。
上腕二頭筋が膨れ上がり、スーツの生地を圧迫している。顔には傷がいくつかついている。サングラスをしているため顔は詳しく分からないが、彫が深い。分厚い唇はひび割れている。三島由紀夫の小説『潮騒』に登場する、主人公の新治の唇みたいだ。
まぁ、間違いなく、強い。
私はきっと目つきを鋭くした。
「何。えらい威勢いいやん」
「そうですかね」
「うん。でもまあ、まずちゃんと謝れよ。曲がり角でスピード緩めずに走ったらあかんやろ。普通に。俺がもし老人やったらどうすんの。下手したら骨折してたかもしれんで」
「はい」
相手が100%正しい。私に正義があるとすれば、セーラー服を着ていて申し訳程度の胸のふくらみがあることぐらいだ。
「まぁ、それは別にいいわ。俺老人ちゃうし。でもなぁ、スーツ汚れちゃったんよな」
一拍空けて、男は言った。
「クリーニング代出して。20万」
来たか。法外な要求。
さて、どうしたものか。
私は天を仰いだ。
とてもきれいな青空だ。
大体、いつかはこうなることを覚悟していた。曲がり角を勢いを緩めずに曲がるのは危ないからだ。それはわかっていた。
少女漫画よろしく、というか少女漫画にもそんな展開があるのかは知らないが、ある日パンをくわえながら遅刻遅刻と学校に向かって急いでいると、曲がり角でイケメンとぶつかり、それが転校生だった、ってそんな運命を夢見て、もう4年になる。中学生の頃からやっているのだ。
そもそも遅刻遅刻とは言っているが、全然遅刻するような時間じゃない。さらにいえば電車通学をするような距離なのにランニングで学校に向かっているため、かなり朝早くから支度している。そして、自分の足で向かうにしても、少しでも通る曲がり角の数を増やして確率をあげるために、全然曲がらなくていいところをいっぱい曲がっているので、すごく時間がかかる。
それでも、いままで人とぶつかったことすら一度もなかった。
だから、うれしかったのだ。今日、曲がり角を曲がった瞬間、どん!という衝撃があったのは。うれしかったのだ。後ろにしりもちをついてしまったのは。
でもそこにいるのは、学生じゃなかった。というか、堅気でもなかった。
私は天を仰ぎ見て、小さな雲の動きを少し追ってから、ぐわりと目線を天から地におとし、男の足元に向けた。そこには食パンが落ちている。
ふぅ、と息を吐き。私は決意を固めた。
私は、膝を折り曲げて、地面に屈んだ。そして、男の足元に落ちたパンを拾い上げる。
男はそれを見下ろしながら、繰り返した。
「クリーニング代、20万。はよ出せや。出せんのやったら事務所きてもらおか」
私は屈んだ状態で食パンをつまみあげ、そして立ち上がった。食パンの表面では薄く残ったジャムにアスファルトの黒い砂利が混じっていた。私はその面を自分の顔の方に向ける。
私は食パンで自分の顔の右半分を隠した。
右目には食パンの暗い影、左目で男のことをじっと見つめる。男は苛立った顔をしていた。
私は左目をかっ!と開いた。
そして、べろりと舌を出して、目をかっぴらいたまま、にっちゃぁあああああ、と砂利入りのジャムを舐めあげた。そしてそれを唾液ごとじゅるじゅると吸い上げる音をことさら大きく出してから、言い放った。
「誰がそんな額出すか、アホ」
男の額に青筋が走った。目が充血していく。
ああ、これはもう止められない。
「やんのか」
もう、止められない。
「やろうや」
私は、綺麗になった食パンを、貴族が決闘のときにそうするように、相手の胸元目掛け投げつけた。
ボン、と跳ね返って、地面にパンが落ちていく。スローモーション。
もう止められない。
ぼとっ、と、本日二度目の食パン落下。
さて、決闘だ。
どうなる……!




